〈煙の魔女〉

焼魚圭

第1話 五島 麻海

 そこは色褪せたレンガで造られたような街、道端には草木が植えられ、レンガの広い道の真ん中を馬車が走る。背負った荷物が多過ぎてよろめく馬を必死に鞭で叩いて喝を入れる太った男の表情があまりにも醜く、ある魔女はつい目を逸らしてしまう。特に特徴の無い紺色のローブに黄色の糸で縫うことで下の方に小さな星を散りばめた魔女は箒に跨って高く高く青空へと飛んで行く。景色は小さくなって行き、屋根や川、木々の色が空飛ぶ魔女の視界を彩っていく。

 セカイを空から眺める魔女、極東の地よりこの国へと渡って来た水色の髪の少女、その名は指宿 真奈女。この国で優秀な魔女を目指すべく学校へと通っている。行く先は太陽のように輝いているだろう、星くずのカーペットを歩くように美しいだろう、かつてはそう思っていた。

 空から眺めるレンガ造りの街、数々の小さな屋根たち、その中から自分の家を探して降り立った。ガラスが嵌められた窓と古びた立派な木製のドア、この街では普通の家。

 真奈女はドアを開けた。そして中へと入って行く。狭い部屋、ピンクのカーペットが敷かれて水玉模様の淡いカーテンがつけられた部屋。黄緑色のカバーが掛けられたソファには既に先客がいた。

「アサミ?」

 アサミと呼ばれた女はティーカップに口を付け、目を閉じて湯気が昇り香りが漂う黒い液体、コーヒーを心の底まで染み込ませて堪能していた。

「アサミ?」

 もう一度呼ばれてようやく目を開いて振り向いた。白い肌と金髪の女、茶色がかった緑色のワンピース、身体の線をほぼそのまま見せたそれの上に濃い緑の短いローブを纏う彼女もまた極東から来た魔女らしい。

 〈煙の魔女〉五島 麻海は鋭い目を優しく緩めて気怠そうに立ち上がり、真奈女の肩に手を回す。

「お帰り真奈女。アタシは寂しかったよ、勉強ははかどってるかい? アンタにはアタシという失敗例が見えてるからねぇ」

 真奈女は気まずそうに目を背けつつ麻海に訊ねた。

「またコーヒーばかり飲んで……パンケーキとコーヒーしか口に入れてないでしょ?」

 麻海は笑いながら真奈女の瞳を覗き込む。

「パンケーキ? そんなハイカラな物、アタシは分かんないねぇ。サンドイッチとコーヒーさ。特にコーヒーは避けられないねぇ。何せカフェ中なんだから」

 真奈女は言葉を出せないでいた。乾いた笑いしか出ないほどに勉強の問いに対する気持ちは重く、更に麻海の言葉に心の底から呆れ返っていた。

 口を噤む真奈女に対して麻海は言葉を紡ぐ。

「カフェ中といえばそんな感じの鳴き声のモンスターが出て来るマンガがあったかも分からないけど」

「萬画? といえば……あの滑稽な芸を絵にした極東の文化よね。いつから妖怪絵巻なんかを纏め始めたの?」

 いまいち噛み合わない会話、それに対して豪快に笑いながら麻海は歩き出す。真奈女との会話で鋭くなった目付きを緩めて微笑みながら。癖の強い金髪は肩に着くかどうかの長さに見えるが宙を漂う勢いでうねり暴れるような姿をしているため、癖を抑えれば背中に届くかも知れない。

 麻海は再びコーヒーを入れ始める。気高い香りを漂わせるコーヒー豆をコーヒーミルに入れて、レバーを回す。豆を砕く音が休むことなく響いて真奈女の耳を叩いてくる。うるさいとは思いつつも、そんな音を立てるものがやがては美味を生み出すのだ。中々鳴り止まない音、30秒ほど、それ以上経ったであろうか、ようやく鳴り止み麻海はビーカーに似た物を棚から取り出す。コーヒーサーバーだ。ドリッパーをサーバーの上に乗せて濾紙を敷く。続いて砕いた豆を入れてコンロに乗っているケトルを手に取り湯を注ぐ。するとどうであろう、香りは部屋中へと広がり真奈女に心地良さを与えていく、落ち着きを湧かせてくれる。

 麻海が持ってきたティーカップ、白い物で内側には黒い渦のような模様が入ったそれを見て訊ねる。

「ティーカップなの?」

 その問いを投げかけられた麻海は不敵な笑みを浮かべる。

「コーヒーなのにティーの為のカップに注ぐの? なぁんて顔をしているみたいね。アタシはコーヒーの味によってはティーカップを使うことをオススメするよ。酸味や香りがアンタの心により強く訴えかけてくるものさ」

 ティーカップに注がれたコーヒーを啜る。それは花を思わせるような味と優しい香りをしていて真奈女の知っているコーヒーとは随分異なるように感じられた。

「そういえばアンタ今何歳だっけ?」

 その問いに真奈女は真面目に答える。

「17歳」

「そうかい、アタシと同い年だね」

 そう返した麻海は何処からかパイプとマッチを取り出し火を付けようとした。

「室内はダメ、っていうか17歳ならタバコはダメでしょ、20歳からよ」

 慌てて麻海の手からパイプを押収しようとするも、それは叶わない。麻海は低い声で軽く笑いながらパイプを仕舞う。

「やれやれ、同い年と言ってもアタシは永遠の17歳、みたび繰り返せば吸うことも許されるんじゃあないかな」

 真奈女は呆れに心を奪われて声すら出ない。

「ん? アタシのホントの年齢が聞きたそうな顔をしてるね? だから永遠の17歳だって言ってんのさ」

 見た目からして20は過ぎているのは間違いないがそれ以上は見当もつかない。麻海は自身のティーカップにコーヒーを注いで例の美味を堪能し始めた。

「あと勉強分かんないっていうなら辞書でも引きな、今どき簡単だろう? 二つ折りの箱を開いてボタンを押すも手のひらに収まるガラス張りの箱の表面をなぞるも、何もかもが容易く良い時代なものよ」

 麻海の言っている言葉は真奈女の頭にはてなを植え付けその数を瞬く間に増やしていく。コーヒーを味わい落ち着いた佇まいを見せる麻海、真奈女と話す低い声からは心を抉りに来ているとしか思えないような言葉が飛び出してくる。

「とにかく早く目を覚ましな、そして戦うんだよ。何から逃げているのかもてんで分からないけどね」

 いまいち意味がつかめなくとも分かること。今の真奈女は様々な意味で責め立てられているということ。

「アンタの夢をずっと追ってくのも悪くはないかも分からないけどさ、それでもアタシはアタシの見てる世界を見ていたいものさ」

 真奈女はコーヒーを飲み干し、ティーカップをテーブルの上に置く。白いカップの内側に沿うような形をした渦のような黒い模様、見つめていると吸い込まれそうで不安を掻き立てられる。

 麻海は口を開き、洪水のような勢いで言葉を放り始める。

「まず手始めにこの世界観、おかしくない?」

「アサミどうしたの急に」

 真奈女の問いに麻海は頭の中にある考えの数々をこのおかしな世界の中に混ぜていく。

「どうしてこんなに上等な部屋してんのか、窓が嵌められた部屋なんてアタシやある側面の知り合い以外が極東とか言うような時代にこんな窓が充実してると思う?」

「えっ? えっ?」

 混乱に言葉を詰まらせる、何を思おうにも冷静の感情を持たずには考えることも出来ないでいた。そんな真奈女に対してまだ言葉を紡ぎ続けていた。

「カーテンも、ドアだって、コンロもケトルもそう、この世界観よりも未来に生きるアタシから見ていて思う、世界に対して道具がハイカラ過ぎなのさ、まるで未来から持って来たみたいだねぇ」

 パイプを取り出して火を付けて、真奈女に突き付けて言葉を煙に混ぜていく。

「タバコなんてこの世界観なら勘違いでも18か19と言うのが普通だろう」

 そして、麻海の言葉は締めに入る。

「これはアンタの価値観だけで組まれた世界、アンタの想像で創造した世界なのさ、早くお目覚めな……ねぼすけさん」

 頭を抱える。極東、日本、時代、過去、今、『今』、未来、麻海の言葉と自身が見ている『今』、見えているものと知ることを拒み続けている現実。真奈女の目からは涙が零れ、頬を伝う。温かなそれは落ち着かせるために流れるも、今の真奈女の心を落ち着かせることなど叶いやしない。

「やめて……やめて。アサミがいなくなる」

 表情を緩め、麻海は真奈女の頭を撫でて胸にその頭を預けさせた。

「安心しな、アタシはいなくなりやしないよ」

「だってだってだって……だって! 携帯電話のひとつも持たないアサミがもうバイト辞めるなんて」

 泣きじゃくる真奈女の頭を撫で、頭の中から広がるこの歪んだ魔法世界を睨み、左手に持つパイプから上がる煙が充分に上がるのを待つ。

「さて、これからが始まりなのさ……アタシの戦いは。そして近い未来に始まりが控えてる……真奈女との本物の同棲生活とやらはね」

 真奈女を慰めるべく頭に置いていた右手は掲げられた。その手にいつの間にか握られていた黒い万年筆。

「はて、偽物の世界、真奈女の頭の中の物の破壊は世間様の法律の器物損壊とやらに引っかかるものかね……分かりやしないね」

 万年筆を振り、煙を巻き込んで図を描いていく。

「いくよ、覚悟を決めな! 裏に潜む魔女」

 煙で描かれた幾何学模様の重なり合い、雑な図、それは最早魔法陣と呼ぶにはあまりにも整っていなかった。そんな図の始点と終点を結び付け、図は完成された。

「アタシの魔法。煙で描かれた魔法はね、他の魔法やものの存在を煙に撒くのさ」

 真奈女の頭の中にて創られた世界、その世界の空は煙で曇り始め、雷が降り注ぐ。何かガラス質の物を割るような妙な音を立てながら空から地へと独特の曲線を描きながら落ちる雷はその姿を残し続けて次から次へと空から降り注ぐ。

 破壊の光に染まり行く世界はやがて崩れ落ち始めた。その外側にある姿、それは黒い線が入った白くて狭い世界。黒い線は渦を描いていた。まるで真奈女に与えたコーヒーを注いだティーカップのように。

「真奈女、アンタの想いと響きあってアンタを今に縛り付ける悪者の魔女はそこにお立ちになられているよ」

 真奈女が振り向いたそこには蒼い影、その姿はスーツ姿の女のように見えた。

「桃樺お姉さん、私の……従姉妹」

「そうかいそうかい、まさか自身のチカラを従姉妹に向けるなんてね……〈残香の魔女〉桃樺」

 麻海はパイプを蒼い影に向けて鋭い視線を投げ付け固い声で言い放つ。

「アンタが逃げるのは勝手さ。逃げたきゃ逃げな。でもさ、他人さまを巻き込んでんじゃないよ!」

 少女は緑のローブに包まれた腕を抱き締めて声を張り上げた。

「違うの、桃樺お姉さんはちょっと抜けたところは多いけど全然悪い人じゃないの。今のもきっと……何か間違えただけだよ」

「そうかい、確かにそんなこともあるかも分からないけども、これはいけない。過去の亡霊でしかないそれは倒させていただくよ」

 微笑んで真奈女を優しい視線で包み込んで、蒼い影、〈残香の魔女〉の過去の幻影に灰色の視線を投げ付けた。万年筆で煙を巻き込みながらまたしても奇妙に歪んだ図を描いていく。

「過去にしがみつく魔女の想いとアンタの今に縛り付けられた想いのふたつが重なり合って出来たこの世界の支配者、過去の亡霊の存在を煙に撒く!」

 描かれた魔法陣に万年筆を親指と手のひらの間に挟んだ右手を突き出す。

「この上なく甘美なる煙をたんと喰らいなっ!」

 突き出された手によって煙の陣は砕け散り、視界をも潰す眩しい光線が放たれた。太い光線は蒼い影を飲み込み、喰い尽くす。

 麻海は脳裏に流れて来る映像を噛み締めて頭を右手で押さえて俯く。

「魔法を喰らわせてアタシは想いを喰らう……痛いな、この想いは」

 ある魔女の想いは麻海の首を絞めるように脳を痛めつけるように、強く深く記憶に刻み込まれた。

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