44 「高原」

 風の吹き渡る草花の向こう、白いみねいただきが、いつもより低いところに見える綿雲を貫いている。


「けっこう近づいたな……」


 疲れの分かる声でキツツキが峰を眺めてそう言った。


「麓までもう少し、頑張ろ!」


 へとへとのキツツキを横目に、パントマは軽やかな足取りで進んでいく。キツツキは嫌気の差した顔で何とかパントマの歩幅に合わせた。


「……こんなところまできて、ただの無駄足だったらどうする」

「そんなこと言わないで。見てよ、この景色……」


 パントマはこれ見よがしに両手を広げ、周囲に目を走らせて言った。


「空気も澄んでるわ。ここに布を広げて、サンドイッチでも食べたら最高ね」

「さぞ良い休日になるだろうな。……俺も、養い所の仕事から解放されたあとにこんなピクニックができるとは思ってなかったよ」

「歩くの嫌いなの? 歩くのっていいことなんだよ。ほんと皮肉ばっかり」

「……歩くのが嫌な訳じゃなくて、無目的にこんな場所まで来たことにむかついてるだけだ」

「目的はあるわ。ヤギの神様に会いにいく。と言ったでしょ」


 振り返り、自身の顎から髭を生やす仕草をしてウィンクした。


「……あざといやつ」

「なにか言った?」

「何も」


 たまに愚痴を言いつつも、キツツキはパントマの旅路に素直に付き従ってきた。そんな彼を可笑おかししく思ってパントマは微笑み、山の麓までのペースを上げた。 

 高原が谷のように一度低くなり、更に一段と高くなったところで、苔むした大きな岩々が現れた。風雨に削られて独特の輪郭を持つ岩と岩の間から、ひょっこりと顔を出す者があった。


「あれ、アーランドよ」


 大きな図体は白い毛に覆われ、丸まった角の生えた頭部をもたれて草をんでいる。若干年老いた印象を受けるその顔には、顎から真下へと毛の束があった。


「これがヤギか……面白い顔をしてるな」

「もっと近くで見ましょ」

「大丈夫か? 嚙んだりするんじゃ……」


 キツツキを置いてパントマは動物に近づいていった。草を食むのを止めて警戒した様子で見上げるアーランドに、パントマはゆっくりと、しかし堂々とした足取りで歩み寄る。

 少しだけ屈んで背中を撫でる。アーランドは一瞬身をじらせたが、敵意はないと感じるや身を委ねた。  


「キツツキくんもこっちおいでよ!」

「触りはしないからな」


 キツツキが早足で岩の裏まで行く。

 パントマに撫でられながら、アーランドは草花の匂いを嗅ぐように鼻を地面へ突っ込んでいる。


「ふさふさの毛だ……」

「触ったらいいのに」

「いや、遠慮しておく」


 アーランドが緩慢な動きで二人から離れていく。

 キツツキはパントマを睨むようにして言った。


「それで? ここからどうする。俺としてはここをぐるっと右に迂回するように下りて、北にあるエーヌ川沿いに進みたいとこだな。そうすれば別の街が見つかるかもしれないし、王都にも近づく」

「そんなに急いで王都に行かなくてもいいよ。ニハマチが心配なの?」


 キツツキは「ふっ」と笑い、


「あいつの心配は全くしていない。どこに行っても馴染めるやつだ」

「ならいいけど。……キツツキくん、本、開きましょ」

「そうだな……」


 荷袋を下ろし、本を取り出す。

 すると、本を手にとった瞬間にキツツキが、


「何か……感じる……」


 素早くページをめくり、導かれるように13ページ目を開く。


「……きた! 文字が浮かんでくる……!」


 イルべニア王国北西 

 ベントン山 山中の4000メートル付近にある洞窟 入り口は蔦に覆われ、人が数年の間に出入りした形跡はない 最奥にクオリ教にまつわる祭壇と壁画あり  

 洞窟ではなく、洞窟の上方に空間の歪みあり 多流の残留感がある

 侵入は失敗した。手段は特に見つかっていない

                        ”


「……らしい。クオリ教……アーランドの神様を祀っているんだろう。お前の言う通り、宗教から手掛かりが見つかったな」

「ふふ。だから言ったでしょ。山の中にあるみたい。もちろん行くわよね? キツツキくん」

「当たり前だ」

「ヤギさん、またね」 


 険しい山の始まりはすぐそこに見える。キツツキは今から山登りが始まるのかと重い足取りで歩んだところで、パントマが後ろにいることに気付いた。振り返り、何故か立ち止まっているパントマに言う。


「どうした? 早く行くぞ」

「――キツツキくん。誰かいるわ」

「は?」


 キツツキは周囲を見渡した。しかし、近くにも遠くにも人の姿は見えない。そこではっと目を細め、


「多流の気配か」

「ええ。人のものよ。何人かは分からないけれど」

「俺は、相変わらず何も分からないが……方向とかは分かるのか」

「多分、……こっち」


 感覚を研ぎ澄ますように俯いたパントマが、右手をその方向に伸ばす。キツツキはその方向を見遣りながら、


「多流を持っているやつがいても珍しくはないが……そいつらに会いにいくか、このまま洞窟に行くか」

「そうね、洞窟の方はいつでも行けるわ。でも、人にはいつ出会えるかは分からない。この気配を匂わせているのがどんな人なのか気になるわ」

「遠回りの考えか」

「いえ。凄く気になるの。そんな気配よ……」


 歪な岩の乱立する高原を歩き、その気配が強まったとき、パントマは一旦岩陰の裏に隠れるようにして言った。


「近いわ。ここから覗いた先に、もういるかもしれない……」


 パントマの上からキツツキが覗くようにして、二人で岩の右側から顔を出す。すると、高原の向こうに複数の人の姿があった。


「いた……思ったより人がいるわ。何をしてるの……?」

「……はあ? 草むらにテーブルを置いてるのか。テーブルクロスまで敷いてあるみたいだぞ……変人の集まりか……?」


 二人はますます息を潜め、じっと観察した。   

 集団は五人おり、まず一際目立つのが巨躯の男だった。茶色の短髪で、背丈が恐ろしく高く、体の厚みもある。男はテーブルの前に立っており、テーブルを挟んで一人だけ座る女がいた。椅子自体も一つしかなかった。

 女は見るからに高貴な身分で、遠目でも分かるほど美しく艶やかに煌めく、赤みのある黄金の髪、全身をややタイトな純白のドレスに包んでいる。

 そして、二人の周囲に三人の給士らしき衣装の女がいた。近くには荷馬車が止まっている。


「椅子に座ってる女の人だけ、ワインを飲んでるみたいね」  

「ああ、グラスを口に運んでるぞ。他の四人は全員使用人か? あの女、どう見てもどこかの令嬢だろう」


 精一杯目を凝らしながらキツツキが言う。


「お前の言う、多流の気配のするやつは誰なのか分かるか?」

「多分、あの大きな男ね」

「あいつか。……でかいな。女の用心棒か」

「ええ。私もそう思うわ」 

「……話かけに行くのか、パントマ」

「そうするつもりよ」


 岩からさっと体を離し、パントマが両手を振ってすたすたと歩いていく。キツツキもごくりと喉を動かしてからその後を追った。

 二人が遠くから歩いていくと、まず大男が先に気付いてこちらを見向いたあと、視線を外して椅子に座る女の方を向いて何かを言った。そして、再び他の四人と共にキツツキたちを見た。

 堂々と歩いていくパントマと、少し警戒した様子のキツツキが近づいていく。声を張り上げずとも会話ができる距離まできたところで、パントマが先に言った。


「そこの人たち、何をしているの?」


 ……沈黙。

 大男がちらりと座る女に視線を投げる。すると、女はワイングラスを飲み干したあとの口にハンカチを持っていった。

 ――やけに赤かった。ワインにしては口元に赤が残りすぎているし、ハンカチも真っ赤に染まった。

 キツツキがその違和感に気付く。女が二人を向いた。

 ――幼い顔付き。額が広く、病弱ではない、透き通った色白。しかし、背はパントマより高く、妖艶な目元、均整の取れたスタイルの良い体付きは女らしい。今いち年齢が掴めないとキツツキは思った。女は唇を妖しく開いて言った。


「この近くに住んでいる子供?」


 見た目通りの細い声。思ったよりも高く、少女のような声だったのでキツツキは驚いた。声の幼さだけで言えばパントマよりも若い。女の目はパントマに向けられている。パントマはいつもの朗らかな微笑みを浮かべて言った。


「そうよ。ここから下まで降りたところで、農家をしてるの」

「そ」


 女はおかわりを要求するようにグラスをテーブルの縁まで移動させた。

 給士が屈み、テーブルの下から見えるバケツに注ぎ口のある容器を突っ込んだ。液体を注がれたワイングラスがこぽこぽと満たされる。

 ――獣の匂い。


「……!」


 キツツキは一瞬鼻をつまみそうになった。そして、すぐ周囲に目を走らせる。

 ――見つかった。向こうの歪な岩の近くに、草原にたおれる獣があった。


「あの」


 キツツキが呼びかける。女はグラスに口を付けて液体を口内で転がすようにしたあと、彼を向いた。


「何かしら?」

「それ……血ですよね……」


 キツツキは直感的に、女が高い位の身分であるということも含めて、軽口を聞いてはいけない相手だと判断した。危うい気配が漂っている気がした。


「そうよ。ここにいる動物の血を頂いているの。あなたも飲む?」


 色気と子供っぽさが混ざった笑み。不思議と、魅力的な笑みだ――とキツツキは感じた。

 一旦言葉を飲んだキツツキだったが、素直に思ったことを言ってみることにした。


「アーランドはクオリ教で崇められている神の使いです。殺してはいけないのでは」


 女は一瞬きょとんとしてから、


「それは可哀想なことをしたわ。あなたはクオリ教徒なの?」

「そうではありませんが……俺も彼女と同じで、近くの農家の子供です。うちの家は神をそこまで信仰している訳ではありません。でも、クオリ教にそむくのはよくありませんよ。みんなクオリ教を信じてます」


 女は黙って彼の目を見た。何故か、キツツキは目を逸らせなかった。


「……それを忠告しに来たというワケ。可愛らしい子供たち」


 女はくすりと笑い、キツツキから視線を外してグラスの三分の二ほどを飲んだ。 

 パントマが言う。


「綺麗なドレス……貴族の方?」

「ええ、そうよ。触ってみるかしら?」

「ほんと!? じゃあ、ちょっと……」


 恐る恐るといった感じでドレスをつまむ。やはり高級な生地で、手触りが良かった。


「ずっと触っていたいわ。ねえ、いつもこんなドレスを着て、外でテーブルを置いて食事をしてるの? 貴族の方っていつもこんなことをしているのかしら?」


 無遠慮なパントマに、キツツキは冷やりとして口を挟む。


「おいパントマ、貴族様だぞ。――すみません。俺たち、畑しか見ずに育ったので、あまり世間を知らず……」

かしこまらなくて結構よ。あなたは、私のことを怖がらないのね」

「え? 何でそんなこと言うの。あなたみたいな綺麗な方を怖がる訳ないわ」

「優しい子なのね。わたくし、そこのアーランドを殺して、血を採って飲んでいるのよ。こんなに真っ白なドレスを着て。普通は化け物みたいに思うんじゃなくて?」


 上目遣いに女が言う。

 ――自分で言うのか。とキツツキは思ったが、顔には出さないようにした。


「血を飲んでるのは変ね。とっても変。グラスで飲んでるからもっと変。でも、動物は狩りをして命を頂くものよ。血を飲んでる以外は変じゃないわ」


 女がくすりと笑う。パントマも少女らしくくすぐったげに笑うと、女の向かい側の大男を向いた。


「ねえ、あなた大きいわ。何を食べたらそんな風になれるの?」


 パントマが左手を自身の胸元に置く。

 そして、袖の短い上衣から覗く男の太い腕に右手で触れた。柔らかそうな茶髪の大男は、年季の刻まれた皺に囲われているが少年っぽい光を感じさせる瞳をパントマに向けた。人懐っこそうな目だった。


「食べるのも大事だが、寝るのも大事だ。よく食べ、よく眠り、よく遊ぶ。さすれば勝手に大きく育つ」

「どれを一番したの?」


 聞きながら、腕の筋肉を物珍しげに触り続ける。


「遊びかな。娘、俺ほどの遊び人は大陸中を探してもそうそうおらん。この全身、目に焼き付けておくといい」


 大男が豪快に笑う。その声はあまりにも良く響き、キツツキは思わず顔をしかめた。

 パントマも子供っぽくつられて笑うようにしたあと、女の方を向いて首を傾げて言った。


「アーランドの血を飲むためにここに来たの?」

「そうよ。血が好きなの。飲むと活力が湧いてくるの」

「血は全身を巡っているものね。生命の源だわ。私たちは森でよく狩りをするから分かるわよ」

「そ。生き物を狩るのは、私も好きでしてよ」


 すると、胸元に手を当てたパントマが前屈みになってグラスを覗こうとした。

 彼女が役を演じるのが上手いのは知っていたが、やけに行動的だとキツツキは訝しんだ。グラスをわざわざ覗く必要などどこにあるのか。


「真っ赤……なんだかむせそうだわ。よく飲めるのね」

「初めは吐きそうになるでしょう。残りを飲んでみる? 口を付けても大丈夫よ」

「遠慮しておくわ。それより、あんなに一杯血を採ったのね。凄い量」


 テーブルの反対側にあるバケツまで覗き込もうとする。四人がけに使えそうなテーブルの大きさ的に無理があったが、パントマは体を曲げて顔を届かせようとした。

 パントマの腰がグラスに触れそうになる。キツツキはその瞬間に手を伸ばそうとしたが間に合わず――グラスが傾いて中身が零れた。

 真っ白なテーブルクロスが赤に染まり、縁から流れ落ちたそれがドレスの足元までも濡らす。

 ――場に緊張感が走る。

 キツツキがそう感じたのは、女が貴族だからではない。給士の反応からだった。明らかに狼狽うろたえ、仰天したような怯えたような顔でパントマを見ている。 

 給士が慌てて拭きものを用意しようとするのより早く、パントマは素早くテーブルの上のハンカチを取るとしゃがんだ。


「あっ! ごめんなさい。いけないわ、すぐ拭かなくちゃ……!」


 ハンカチを綺麗な面に裏返し、血のかかったドレスを拭く。肌を濡らしていることに気付き、すぐにドレスをめくって彼女の白い生足をハンカチで拭き始めた。

 心底申し訳なさそうな顔をして黙々と動くパントマを、初めどこか掴めない表情で観察するように見下ろしていた女だったが、ふと彼女の表情が固まった。


「――何をしたの」


 その一言にパントマも固まる。

 空気が一変したことにキツツキは気付き、彼も固まったまま動けずにいた。

 パントマは固まったまま女の顔を見ない。どういうやり取りかは分からないが、パントマなら普通、すぐに反応をするはずだが……とキツツキは余計に訝しんだ。

 女は言った。


「ディダスティン、この子を担ぎなさい」

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グランドスカイ物語 納豆豆納豆豆 @ibisya

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