誰が為のさようなら
桜雪
誰が為のさようなら
「あのくそやろうが!!!」
自分宛ではない文を、私はびりびりに破ってしまうと、灰が詰められている箱の中に放りこむ。あとで気づいた侍女仲間の先輩の顔が般若に変わろうが知ったことではない。文が同じような色に変わっても、まだまだ私の怒りが収まらない。
国語の授業で討論会までに発展した太宰治が書いた『走れメロス』のメロス。彼は何故、あんなに激怒したのか。中学生時代はメロス、落ちつけよ。怒りたいのはお前の身代わりになった親友だと草を生やしたものだが、メロスよ、今ならお前と熱いハグを交わしたい気持ちだ。
きっと私が軽い感じで『光子さま。あの浮気どクズ野郎の旦那さまからのお手紙が届きましたぁ』と渡したところで光子さまは悲しげに微笑むだけだろう。彼女にそんな顔をさせるくらいなら、誤って、文を火鉢に放り投げてしまったと伝えて怒られた方がよほどいい。
平成生まれの私がタイムスリップで平安時代だと思う時代に来てしまったのは、今から三年前の話だ。高校受験まであと一年。塾からの帰り道、いつも通り、好きなアーティストの歌を口ずさみつつ自転車で走っていたら、通りすがりの男子学生たちが美味しそうに肉まんを食べていたことに始まる。まっすぐ帰ればお母さんが用意した夕飯が待っていることは分かっていたけれど、買い食いの誘惑には勝てなかった。
冬のコンビニの肉まんとおでんは二強すぎる。少し来た道を戻れば、暖かいコンビニが私を待っている。頭の中が私を誘う肉まんの湯気でいっぱいになって、道を戻ろうとしたとき。昨日、降った雪で道が滑りやすくなっていたのだろう。乗っていた自転車が道に滑って横転し気がついたら、私は光子さまが乗っていた牛車に轢かれそうになっていた。
彼女の従者たちは突然、私が道に現れたことと見慣れないセーラー服を着ていることで、『あやかしだ!』『あなや!』などと騒いでいたが、私の方も牛を引っ張っている時代劇から出てきたような人たちに、頭の中が慌てふためいていた。
突然、自分が撮影現場に来てしまってどうしようと思っていた私と、自分たちの行く道に子どもの妖怪が現れたと騒いでいた従者たちだったが、牛車の格子が少し開かれる。中から鈴の音のような柔らかな声が彼らを嗜めた。
『お前たち。なにを騒いでいるの?』
『ひ、姫さま、大変です! あやかしです! 子どもの姿をした鬼です!!』
『早く、お邸に戻りましょう!!』
『あやかし? 私には人に見えるけれど』
光子さまは彼らの言葉に呆れたように、優しく私に聞いてくれた。
『貴方、お名前は?』
『わ、若葉』
『そう、わかば。私の従者たちの無礼な振る舞いを詫びるわ。貴方、行くあてはあって?』
『わ、分からないんです。此処、どこなんですか⁉︎』
光子さまは黒い目を瞬きすると、従者に私を牛車に乗せるように命じた。
『お乗りなさい』
従者は嫌な顔を隠さず、私の両脇に手をいれて抱き上げると、光子さまの隣に乗せる。彼女は私の服を見てから、詳しい話を色々と尋ねてきた。
『そのタイムスリップ? それはよくある話なの?』
『小説や漫画ではよくあるけど、えっと、それは架空の世界っていうか』
『しょうせつ? まんが?』
どう説明すればいいかと悩んでいた私は、着物の人の話が思い浮かんで口にする。
『あっ、『源氏物語』や『鳥獣戯画』知ってますか? そういうやつです!』
『まぁ! わかばも読んでいるの!』
『えっ、読んでる?』
『ええ。私の侍女たちも続きはまだなのかと待っているのよ。紫式部さまは書くたびに続きを期待されて大変だとお聞きしたけれど』
牛車が傾いて一緒に転びそうになった私を光子さまが支えてくれる。思わず、真っ赤になってしまった私の鼻をお香のいい香りがくすぐった。
暗くてよく顔が分からなかったが、近くでみる光子さまは言い表せないくらいの美人だった。もしも、光子さまが現代がいて同じ学校に通っていても、恐れ多くて話しかけることも出来なかっただろう。学園カーストで言えばきっと、彼女は一軍で周りに人が絶えないタイプだ。
『光子さま。着きました』
『わかば。良ければ私の話相手になってくれない?』
『話相手、ですか?』
『ええ。私、とっても退屈なの』
彼女の実家だという邸に戻り、光子さまの客人だと紹介をされた私は自分の時代とは全く異なる暮らしに慣れることで精一杯だった。慣れたと思う頃には、この平安時代だと思う世界から、自分の世界へ戻れるのかが私は不安になっていた。
初めは私を妖怪だと騒ぎ立てていた光子さまのお供の人たちは、話してみたら悪い人たちではなく『姫さまの暇つぶしのおもちゃ』として私のことを扱ってくれている。彼らに聞けば、同じように突然、現れた奇妙な人物はいないらしい。
自分が暮らしていた時代を説明するため、光子さまを携帯電話のカメラで撮れば『姫さまが箱に閉じ込められた!』『奇妙な術だと』という彼らの反応をみれば、私と同じような現代からこの時代に転移してきた人はいないのだろう。
自分の世界に戻れないかもしれないことに、私は絶望した。光子さまに保護されている今はいいかもしれない。しかし、光子さまから見捨てられてしまえば、私は現代とはまったく違う、この時代で生きていける自信がなかった。
自分の居場所を作ろうと光子さまにお願いをした私は彼女の侍女のひとりとして、雇って貰えることになった。時代が違っても同じ日本なのだから、と光子さまへの文を振り分ける仕事を任された私だったが、考えが甘かった。文を開いてみても文字がみみずのように紙に貼りついているようにしか見えない。平仮名だと思う痕跡を見つけてなんとか読み解いていくものの遅すぎると、早々に仕事から外されてしまった。
「わかばの時代では、私達のような文字ではないのかしら」
「……似たような字ではあるんですが」
試しに私は光子さまの前で例えとして、硯に墨を入れると慣れない筆で自分の名前の『若葉』という漢字と平仮名をたどたどしく書いてみると、彼女は紙を見て頷いた。
「初めはなんにでも時間がかかるものよ? まず、若葉は私の書物で文字に慣れていきましょう」
私が落ちこんでいることが分かったのか。光子さまは私の肩に触れる。
「どうして、辛そうなの?」
「光子さまのお役に立てないから」
光子さまは私の言葉を聞くと、意外なことを言われたような表情を浮かべる。
「私は貴方がいてくれるだけでいいのよ」
私が文をすらすらと読めるようになった頃には、光子さまが言わなくても彼女が抱えている事情は分かるものだ。
光子さまはある高貴な人の北の方として婚姻をしたが夫婦仲は冷め切ったものだったらしい。年齢が離れていることもあったが、信頼していた父すら他の貴族同様、自分よりも宮中での身分が大事だと知ったことへの悲しみ。旦那さまが権力を使い、自分を妻としたこともあり、心を頑なに閉ざしたらしい。
元々、好色な光子さまの旦那さまだったが、光子さまより身分が低い女性と恋仲になり、自分と同じ邸に住まわせることにした。世間で面白おかしく噂をされた光子さまは彼女と同じ邸で暮らすことが耐えられなくなり、実家に戻ることになったときに私を拾ったらしい。最近では言い訳がましく、光子さまの旦那さまが戻ってはこないか? という文をよく送ってくるが今更、遅いと私は思う。光子さまの旦那さまが今、一緒にいる女性より光子さまを恋しく思う気持ちは、光子さまが彼から離れたからだろう。旦那さまと離れた光子さまが彼に未練があるのかは、私には分からない。
「若葉。少し、いいかしら?」
「はい、どうしたんですか?」
彼女は浮かない顔を隠さないまま、私を[[rb:御簾 > みす]]の中へと誘った。
「若葉を見そめた殿方が、貴方を妻にしたいというの」
「はい⁉︎」
ずっと光子さまの傍にいた私に誰かに好かれるような機会はないと思う。邸以外で外に出たのは、彼女のお供として寺に連れて行かれたくらいだ。誰かと会った記憶はないし、今までに恋歌を貰ったことすらなかった。
「私があの人の元になかなか戻らないものだから、殿も手を変えたのね。若葉に求婚してきたのは、殿の家来の方よ。貴方が頷けば、私も共に帰ってくると思っているの」
光子さまの言葉に私は怒りのあまり、顔が赤くなっていく。前から光子さまのことで好きにはなれない野郎だと私は思っていたが、彼女の旦那さまへの好感度が地の果てに落ちた。
「勝手すぎます! 光子さまのことをなんだと思っているんですか!」
私が怒っている姿を見て、光子さまは口元に扇子を開いて笑いだす。
「……光子さま。何がおかしいんですか」
頬を膨らませると光子さまは私の頬を閉じた扇子で軽く、突いた。
「若葉が自分のことじゃなくて、私の為に怒ってくれるのが嬉しいの」
「そんなの当たり前です」
「父も本当は私に次の相手を、と言いたいところなのだろうけど、殿の身分が高い人だから、一度だけ彼を許してくれないかと私に頭を下げてきたの」
自我を持てない人形と変わらないじゃないかという言葉を私は飲みこむ。賢い光子さまが私ですら分かることに気づかない筈がない。
「ただ、私のことはいいのだけれど、若葉のことは気がかりなの。若葉。貴方にはふたつ、道があるわ」
「ふたつ、ですか?」
「ひとつ、好きでもない殿方と夫婦になる。ふたつ、若葉のいた世界に帰る」
「……帰れるんですか?」
「ええ。陰陽師の方に貴方と出会ったときから相談していたの。若葉に期待させてはいけないと思ったのだけど。月が満ちる、その時に私と貴方が出会った場所に道が作られるそうよ」
「みっつ。光子さまの傍にいる、はないんですか?」
光子さまはこの時代に来て、背まで伸びた私の髪に手を触れるとゆっくりと撫でる。その感触が気持ちよくて思わず、目を瞑ってしまいそうだ。
「ないわ。若葉まで私と同じ道をたどるのは耐えられないの」
光子さまは自分と同じように家の為の道具として、私が使われることが嫌なのだろう。光子さまが私に自分の為に嫁いでと言われたら、私は喜んで彼女の為の婚姻をしただろう。けれど、優しい光子さまがそんなことを望まないことは、分かっている。
「光子さま。私、帰ります」
「……寂しくなるわね」
「私、これから好きになる人を見つけるのが難しそうです」
「どうして? と聞いたほうがいい?」
「はい!」
「どうしてかしら?」
「光子さまより素敵な方に会える気がしないから」
『馬鹿な子ね』と少しだけ、怒ったような顔をすると、光子さまは扇子で顔を隠してしまう。私はそんな彼女をそっと抱きしめた。
私が元の世界帰るのは同じ条件が必要だということで、賑わしい光子さまのお供と一緒だ。懐かしいセーラー服を着て、私は持っていた鞄を肩にかける。
「童。帰るのか!」
「はい、みなさんにもお世話になりました」
頭を下げると彼らは遠慮なく、私の頭を乱雑に撫でてきた。
「ちょ! やめてくださいよ!」
髪が崩れると私が逃げようとすると、彼らは揃って泣き顔だ。別れの寂しさを誤魔化そうとしてくれたことに、私までつられて泣きそうになってしまった。『お元気で』と牛車に抱えられて乗せられた私は光子さまとふたりきりになった。
「光子さまは、これから」
「仕方ないから、私も帰るわ。まだ、あの女もいるらしいから、いじめてやろうかしら」
意地の悪い顔をわざと浮かべる光子さまだが、彼女がそんな人じゃないことを私は知っている。光子さまと初めて、出会った場所に訪れると『驚かないでね』と光子さまに言われた私は背を押され、牛車の中から外へと転げ落ちた。
微かに耳元で囁かれた『ありがとう』という言葉に振り向いたとき、目に入ったのは懐かしい私の自転車だ。
固い地面に横たわっていた私が辺りを見渡せば、見覚えのあるコンビニに行くまでの道。私はゆっくりと起き上がると、足についた土埃を手で振り払う。
鞄の中から切っていた携帯電話の電源を入れると
、私があの時代に行ったときから、時間が経っていないことを知った。写真のアルバムをみても、彼女たちの姿は幻のように消えている。
玉響のような僅かな時。光子さまと過ごした日々を私は決して、忘れないし、忘れられないだろう。
両の頬を叩くとコンビニに行く道を引き返し、私は家に続く道へ、ペダルに足をかけた。
誰が為のさようなら 桜雪 @sayuki_f
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