クロスロードの鳥 (正義の代償1)

帆尊歩

第1話 正義の代償 1


私はこの交差点を見下ろす鳥、人は私をクロスロードの鳥と呼ぶ。

昔、偉い市長だかがブロンズで私を作り、ここに設置した。

以来、様々な人間を見て来た。

全く人間とは不可解な生き物だ。


一人の男が交差点に入ってきた。

この男は、毎日ここを通っていた。

何だか具合が悪そうだ。

そういえば、ここのところ元気がない。

いや違うな、この男の命は尽きかけている。



具合が悪い。

ここのところ仕事も休みがちだ。

会社の寮に入ってるから、仕事が出来なくなれば、寮を追い出される。

でも、病院に行くことは出来ない。

今日も何とか仕事をしようと会社に向かうが、この交差点で足が動かなくなった。

この交差点は大きく、交差点なのに少し公園っぽく、ベンチなども置かれている。

俺はそこで少しだけ休んでいこうと考え、ベンチに座った。

体が重い。

この状況は、尋常ではないだろう。

本来なら病院に行くべき所だし、仕事だって休むべきだ。

事実、社長は「病院へ行けよ」と言う。

健康保険にも入れないくせによく言うものだが、それは仕方がない。

そういう職場だから、俺は働けている。

その時、視線を感じた。

おそるおそる顔を上げると、そこには交差点を見渡せる所にブロンズの鳥がいる。

全然気がつかなかった。

そういえば、生きる事に必死で、そんな事に気を回す余裕などない。

俺の歳はいくつだ?

いつの頃からか、自分の歳を数えることすらなくなった。

俺の歳。

今の年号から、俺のかろうじて覚えている生年月日を引くと、ちょうど六十じゃないか。

あれから四十年。

世界は不況や貧困、海の先の戦争に喘いでいるが、この国は何も変わっていない。

一時期、我が世の春を謳歌したこの国、それは周辺の国々の人々を蹂躙して発展した、偽りの華やかさだった。

それが今では、アジアの国々に追い抜かれようとしている。

なら、俺たちの目指してしていた正義は?

アジアの国々の開放は成功したのか?

むしろ自らを弱体化させただけなのか?


「君は、今のこの国のあり方をどう思う」

四十年前、社会問題研究会の先輩、沢田にまじめにそう聞かれた。

俺の田舎の高校では、開校以来の秀才と称えられた。

そのおかげで、日本で一番の国立大学に入学することが出来た。

でもそんな故郷の喜びと、俺自身の喜びもつかの間、上には上がいる。

そういう奴らの親は、大企業の経営者だったり、何とか省などの官僚だったりした。

あの頃のこの国は、明らかに階級社会だった。

それが巧みな棲み分けで、誰にも勘づかれずにきた。

それが、最高学府というカゴに入れられた途端、その現実を思い知らされた。

俺みたいな田舎の子供が、ある程度有能だったというだけで、その階級社会の上層にいく足がかりをつかめたというのは、この国の機能が、まだまだ健全だったともいえるが、そこに大きな違和感があった。

この大学を出て、国を動かすことの出来るところに登り、階級の上層に行くことが出来れば、おそらく幸せな人生が待っているだろう。

でもそのために蹂躙された国の人々と、現在はこの国の中の、さほどの恩恵にも預かれない人々。

言えば俺の両親たちのような。

だから俺は、その階層の上層に上るのではなく、その階級を壊すことが正義と思った。

俺は、沢田先輩の手を強く握っていた。



街中に仲間の写真が貼られ、一人また一人その顔に✖️が付く。

捕まったのか、出頭したのか分らなかった。

でも俺は、絶対に捕まらない。

出頭もしないと心に誓い、潜伏生活を続けた。

仲間とは連絡しない。

もしかしたら、そこから居場所がしれることもあるからだ。

だから、誰が捕まったかを知る術は、指命手配の写真に✖️が付くか付かないか。

みんな次々に捕まった。


潜伏が十年になると、支援者からの支援も段々減り、しまいになくなった。

俺はいよいよ食えなくなり、ホームレスに近い状態になりつつあった。

でも正義のためだ。

もし出頭したり、捕まってしまえば、正義が正義ではなくなる。

でも、この生活の困るところは偽名なので、部屋を借りたり、働いたりが出来ない。

支援があったときはまだ何とかなったが、今となっては、結果住民票や戸籍を確認されない仕事しか出来なくなる。

訳ありの人間を、安く使う怪しい業者や会社。

そして、そこに住み込みで働く。

初めはパチンコ屋だった。

その頃のパチンコ屋は、訳ありの人間をよく雇っていた。

それでも、段々風営法とかがうるさくなり、パチンコ屋も健全化して行くに従い、普通の会社のようになっていった。

でも俺のいたところは、ヤクザのフロント企業がやっているパチンコ屋で、そういうところはうるさくなかった。

俺はここで、少しだけ人間らしい生活が出来た。

おかしな奴も多く、仕事は厳しいし、何より組関係の人間がよく来ていたので 気は休まらない。でも、名無しの偽名の男には、安住の場所だった。

俺は、そこで澄江と出会った。

潜伏も十年を超えて、支援がなくなった頃だ。

その時俺は三十になったばかりで、澄江は二十五だった。

でも澄江は俺と違って、偽名ではなく国籍がなかった。

澄江はよく働いたが、俺同様、酷く安い給料でこき使われていた。

それでも、無国籍の澄江にとってここは、生活が出来る場だったのだ。

薄汚いパチンコ屋の寮で、澄江も暮らしていた。

食事は小さな食堂で、出来合の物を食べた。

よくそこで、澄江と一緒になった。

澄江はこんな出来合の物も、本当にうまそうに食べていた。

俺も長い潜伏生活の末だったので、こんな食事でも十分だった。

そんな事をしているうちに、俺は澄江のことが気になりはじめた。

もしかしたら俺は、澄江の事を愛していたのかもしれない。

でも俺は正義にために隠れているので、その思いに気付かないフリをしていた。

そうフリだ。俺自身にも暗示を掛けるようなフリだ。

おそらく俺は、澄江を愛していた。

ある日俺は、仕事帰りに、新たに、たこ焼き屋が開店しているのを見つけた。

普段は安いと思ってもなかなか手が出ないが、その時はこのたこ焼きを澄江と食べたいなと思った。

きっと澄江は喜ぶと思った。

俺は意気揚々と、二人分のたこ焼きを買うと、寮に持って帰った。

寮に帰ると、澄江の部屋は電気が消えていた。

どこかに出掛けているのかと思ったが、俺たちのような人間が、どこかに遊びに行くことなど滅多にない。

その上、暗い部屋からは人の息づかいが聞こえる。

「澄江、たこ焼き買って来たぞ。メシまだだろう。一緒に食べるか」俺はドアの外から声を掛けた。酷く長い間があり、

「ありがとう、でもいい。ちょっと具合が悪いから、もう寝るから」と言う澄江の声は、何だかくぐもっていた。

俺は何も疑わず、自分の部屋に帰って、一人でたこ焼きを食べた。


そのころ、澄江はたまにパチンコ屋の社長に抱かれていた。

無国籍の澄江には、それにあがなう事は出来なかった。

でもその度に、給料一月分くらいの金をもらっていた。

社長は社長なりに、無国籍の澄江に同情していたようだった。

社長は、半分ヤクザの酷い奴だったが、やな奴ではなかった。

澄江はその金を貯めて、ここから出て行こうと考えていた。

そんなとき、澄江が妊娠した。

社長は堕ろさせようとしたが、澄江は泣きながら社長の前で、土下座をして産ませてくれと言った。

社長もそんな澄江に、押し切られる形で許可はしたが、だからといって奥さんのいる社長は、どうすることも出来ない。

子供を産みたい澄江は、ここを出て行った方がいい。

でも、澄江のここを出て行けない理由は、やはり澄江が無国籍だからだろうと思った。

だから俺は、無戸籍の澄江の国籍を作る手伝いをした。

法務省に申請をすると、手続きは掛かるが何とかなることを俺は知っていた。

結局、澄江は社長から結構な金をもらい、寮を出て行った。

社長に気に入られていた澄江が、寮から出て行けたのは、皮肉なことに、子供を身ごもったからだった。

社長は、奥さんの目を気にしたのだ。


澄江は寮を出て、とりあえず寮と託児所のあるデリヘルに行った。

そこは寮とは名ばかりの、たこ部屋だったが、様々な理由で住所が必要な女がみんな来ていた。

理由は様々だ。

田舎の親の手前、住所が必要だったり、他へのステップだったり、果ては俺のように逃亡している人間が、何かのために住所が必要だったり。

さすがに無国籍の女が、国籍を取得するために使うとは思わなかっただろう。

どういう訳か、乳飲み子を抱えながらの仕事が出来た。

他の女たちが、代わる代わる見てくれていたからだ。

俺は仕事の合間をぬって、澄江の戸籍の収得に動いた。俺はアジ演説をしたりしていたので、交渉は上手に出来た。

戸籍が取得できたとき、俺と澄江はささやかにお祝いをした。

お祝いといっても、普通のファミレスだった。

澄江の産んだ子は女の子で、食事の間も澄江は、子供の様子を気に掛けていた。

たまに俺も食べているてを止めて、赤ん坊を見て、あやしたりした。

その姿はどう見ても、家族で食事をしているようにしか見えなかった。

俺はまるで、家族で食事に来ているような錯覚に陥った。

本当に三人で暮らして行けたらどんなに良いだろう。

そのためならどんなに貧乏をしようと、子供があの社長の子供だろうが、そんな事はどうでもいい。

もし今目の前の澄江と子供が、本当の家族だったら。

でも俺は、正義のために逃げている。

家族など持ってはいけない。

その上、俺は指名手配犯だ。何かがあれば、澄江と赤ん坊に迷惑が掛かる。

そのあと俺たちは、近くの安宿に入って、俺は澄江を抱いた。

最初で最後の契りは儀式だった。

澄江は俺への感謝、俺は、澄江との別れの儀式だったのだ。

最後に澄江が、俺の腕の中で満足そうにまどろむと、急に赤ん坊が泣き出した。

澄江は裸のまま赤ん坊を抱き上げると、赤ん坊をあやし始めた。

俺はそんな澄江と赤ん坊を、後ろから抱きしめると、赤ん坊が急に笑い出した。

それが俺にとって、人生最高の幸福の瞬間だった。



澄江がいなくなると、社長は俺が何か関係しているのではと疑うようになった。

後ろに組があるので、俺は正直に話すことにした。

「澄江、無国籍だったんです」俺は、さも俺しか知らない風に話した。

社長がそれをたてに、澄江をしばっていた事はなど知るよしもないというスタンスで話した。

「だから法務省とかに行くことを教えて、国籍をとる手伝いをしただけです」さも良いことをした風に言うと、社長は苦虫をかみつくしたような顔をして俺を見た。

「お前は、良いことをしたと思っているかもしれないがな。澄江みたいな女は、どこに行ってもなかなか幸せになんてなれないんだ。だから俺も、目の届くところにいた方が守ってやれる。お前は、澄江を荒野に追いやったのかもしれないんだぞ」全く言いがかりも良いところだ。おまえが澄江に未練があるだけだろうと思ったが、仕方がない。

「思いも寄りませんでした」と、俺はしまったという顔をした。

「まあ、いい。仕事に戻れ」単純な社長で助かった。とはいえ、俺もそこを半年後に辞めた。



痛くはなかった。いや苦しくもない。

ただ、意識が朦朧としてくるだけだ。

俺はベンチで死んでいくのか。

まあそれも良い。

頭が回らない。気が遠くなるような感覚。

左手がうまく動かない。

これは、脳系かもしれない。

偽名で暮らしてきた俺には、保険証も身分証もない。

今の工場の社長なら、うちの従業員だ。と言うことくらいは、証言してくれるだろうが、それ以上は望めない。

正義のための戦いで、俺は犯罪者になった。

でも何も変わらなかった。

この三十年、俺は死んだように生きてきた。

社長は何かあるということは感づいていたが、何も聞かないし、言いもしなかった。だから雇用契約もない。

社長にとっては良い労働力だ。

衣食住さえ保証すれば、格安で一人の男を雇える。

銀行口座も作れないし、何か登録しなければならない物は何も出来ない。

ここ十四、五年は少し後悔するようになった。数ヶ月の体調不良のせいで、心が弱っているのだろう。少しだけ別の道を考えた。

もし、もっと早い段階で捕まっていれば、きっともう自由の身になっているだろう。

そうすれば、澄江と一緒になっていたかもしれない。

きっと凄い貧乏だっただろうが、楽しい生活が出来たかもしれない。

娘は社長の子供だけれど、そんな事はどうでもいい。

澄江と一緒になっていたらもう一人、本当に澄江と俺の子供が出来てたかもしれない。

そしたら四人で、幸せになれただろうか。

澄江の娘。

あの最初で最後、澄江を抱いたときに横にいた赤ん坊が、もう三十歳か?

澄江と出会った時の俺の歳だ。そして出会った時の澄江よりも五歳も上だと。

いったい、この三十年は何だったんだ。

死んだように生きた三十年。

これが代償か、正義の代償がこれなのか。

もうダメだ、意識が朦朧として、何も考えられない。

脳系なら、このまま俺は死んでいくのか。

誰かに助けを頼めば、ここで死ぬことはないだろう。

おそらくどこかの病院につれて行かれて、そこで死ぬだろう。

でも俺という意識がなくなれば、もう死んだも同然だ。

まあいい。やっと死ねるのか。

死んだように生きてきた俺が、やっと死ねる。

さすがに、脳系で痛くないが、意識が少しづつ消えていく、これは脳梗塞か、いよいよ意識が飛んできたという事か。



男は意識を失った。

全くこの交差点で死ぬな!

イメージが悪くなる。


私はこの交差点を見下ろす鳥、人は私をクロスロードの鳥と呼ぶ。

昔、偉い市長だかがブロンズで私を作り、ここに設置した。

以来、様々な人間を見て来た。

くだらない正義なんて、物に翻弄されて何十年も。

全く人間とは不可解な生き物だ。

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