愛とセックスのパラドックス、そのエゴのゆくえ

愛野ニナ

第1話



 本当はまだ誰も愛したことがない。

 それは私が自分で自分を愛せないからという事実とも深く関連している。



 とても単純なこと。

 自覚していながらもずっと目を背けていたこと。

 自分の内面を晒すのはとても恥ずかしくつらいけど、そうしなければ私はいつまでも変われない。

 自分の中で折り合いをつけるために今回は赤裸々に語ってみよう。



 私はいわゆる「恋愛体質」

 私はずっと自分の中に価値をまるで見出せないという虚ろを他人の中に無理矢理見いだす…つまり恋人という存在に依存することで空虚な自分を埋めようとしてきた。

 恋人は誰でもよかったわけではないけど、あるタイミングにおいていちばん強く言い寄って来た人と付き合っては別れる…を繰り返した。

 私は誰かに求められたかった。

 どうでもいい存在としてではなく「私」という存在を認めてくれる人を求めていたから、

 強く言い寄ってくる男に愛されているのだと錯覚してしまうのだ。



 私の家庭環境は劣悪だった。

 他のブログ等でも書いているので詳しくは省くが、重複障害者の親と貧困という問題は誰のせいでもなく、それを恨んだところで何も解決するわけでもなく、怒りをぶつける先さえ無かった。だから私は幼い頃から諦めることを当然として生きてきた。

 それでも心の底では誰かに優しくしてもらいたいとどこかで願っていた。誰かに抱きしめて欲しい…と望んでいた。

 いや、この際はっきり言ってしまおう。

 抱きしめて欲しいと思ったのは親や親族にではなく、男に抱きしめてほしいのだと小学六年生の時点ではっきり自覚していた。ちなみに初潮が中一だったので、初潮前からこれを自覚していたということだ。

 中学生になって学校へ行かなくなった。家にも帰らず深夜徘徊を繰り返し言い寄って来た男と付き合った。中学生でもメイクをしていたし男に媚びる方法は本能でわかっていて年上の男の人とも対等に付き合える…付き合えている、と当時は思っていた。(今にして思えば女子中学生と付き合おうとする大人の男なんてまともじゃないとわかるのだが)

 男の人はみんな優しかった。知識も人生経験も足りない私のつたない話をきいてくれた。ちょっとしたものを買ってくれてごはんを食べさせてくれて。

 そして何より「可愛い、愛してる」と言って私を抱きしめてくれた。

 私が子供の頃に諦めてしまったもの、でも本当は望んでいたものをくれた。

 正直、セックスは嫌いだった。二十代の中頃くらいまでは本当にただ苦痛だとしか思っていなかった。

 それでもセックスは男の人に優しくしてもらうための手段だったから我慢した。

 私が本当の意味で欲しかったものはそんな体の繋がりでは無い。

 心で繋がるのは難しくても、体で繋がるのはずっと容易いから。

 体で繋がっているうちに、心が好きなんだと、私はこの相手が好きで自分は愛されているのだと…「錯覚」してしまう。

 

 

 子供の時ならいざ知らず、成人しても私は

男に依存し続けた。

 愚かだと自分でわかっていながらも、別れたりうまくいかなくなれば、そのタイミングでいちばん強く言い寄ってきた男をすぐ好きになってしまう。

 そして私はとんでもなく嫉妬深い。相手が病気になるレベルで束縛さえしてしまう。

 それがなぜなのか考えていたらわかったことがあった。

 私が好きではないはずのセックスにその一因はあった。



 私はセックスがあまり好きではない。

 今さら純情ぶってるわけでは決してなく、先も述べたように、

 私にとってセックスは男に優しくしてもらうための手段でしかない。

 セックスについて真剣に考えてみようとも普段は思わないのだが、

 この際真剣に考えてみて今さらながら気づいたのだ。

 それは「距離」

 人との付き合いで心の距離を縮めたり計算したりというのはそれだけで多大なストレスがかかる。

 しかし、セックスはそれを全てショートカットしてしまう。

 何せセックス中の体の距離というのはゼロを超えてしまうのだから。

 セックス中の距離をどう表現したらいいのだろう…?

 ゼロを超えたからマイナス?自分の中に相手の体の一部があるわけだからもはや同化に近いのか?

 それを考えていたとき突然、私は思い至ったのだ。

 私が付き合ってる彼氏のことを「自分の体の一部」みたいに思ってしまうのはセックスに起因していたのだということに。

 もちろんそれはセックス中のことではなくて、普段の生活の会ってない時間でさえも、彼氏の存在は自分の体の一部としての感覚なのだ。自分と相手の境界の感覚認知がおかしくなってしまう。

 私の相手に対する過剰な嫉妬と束縛はそこに起因しているのであった。



 恋人に限らず他人である以上、家族でも友人でも完全にわかりあえるわけがない。

 自分のことさえ百パーセントわかっているわけでもない、他人とわかりあえないことぐらい当然である。

 それでも愛したくて愛されたい。わかりあいたいと願ってしまう。

 そんなことは美しいだけの幻想に過ぎないのに。

 だから、体で繋がろうとする。

 心の距離がなくならないという現実を少しでも忘れたくて。

 心の距離は永遠に、絶対にゼロにはならないのに、

 そんな、わかりあえない相手でも、

 セックスは容易く体の距離を無くしてしまうから。

 ゼロを超えて境界が溶け合ってしまうようなあの感覚…あれは間違いなくただ体の、単なる肉の繋がりなのに、

 愚かなことにそれを心の繋がりだと錯覚してしまう。

 人間は愚かで罪深い。もちろん私も含めて。

 人間だけだよね。生殖目的以外でセックスしてしまうのは。

 少なくとも私は、愛という幻想を求めてセックスしてしまうのだから愚かだ。

 本当に欲しいものは体の繋がりではなく、心の繋がりなのに。

 抱きしめて欲しいと願うのは心なのに。

 これはエゴ。

 本当は誰も愛していなかった私のエゴだ。

 自分さえ愛せない私が、誰かを愛せるわけがない。

 こんなことを考えているとどうしていいのかわからなくなってしまう。

 本当にひたすら苦しくて悲しい気持ちでいっぱいで、

 それでもこんな愚かな自分から目を背けないでしっかり自覚していようと思う。

 変われないかもしれないけど、変わりたいとは思っているから。

 そうしなければ生きてはいけない。

 世界にあらゆる厄災が広まってもただひとつ残ったもの、神話の終焉の時より現代に至るまでずっと、それはいつだって「希望」なのだから。

 

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