いわゆる、絶起というやつだったんだろう。

 その日は恐ろしく天気が良かった。起床時間を盛大に間違えてしまったその日。何故か記憶に残っているその日。日付もよく覚えていないけど、窓から見えた景色だけは昨日のことのように思い出せる。カーテンを開けたときの日差しは、思い出すだけでも痛い。

 ロック画面に映る僕の推しキャラだけがいつも通りで、その瞳の輝きが懐かしかった。眠い目のまま見た彼女の小さな口が「まだ起きなくていいよー」と動いているように見えたのは、今こうして僕の目に見えているものが明らかに過去でしかないからだろうか。彼女は子供の時にしか見えないトトロみたいなもので、制服を着ている僕にしか、本来の姿は見せないのかもしれない。

 僕だけを見て、僕だけを許してくれる存在。いつもそこにいて、離れることのない存在。その頭上に見える数字だけは、全然いつも通りではなかったのだけれど。

 もう会えない彼女が、酷く懐かしい。

 

 ベッドを降り、階段を降り、まだ完全に開いていない目のまま顔を洗い、パンを齧って、五人分の食器を洗ってさあ学校の支度でもしようかという時、習慣という無意識の中にまぜこぜになってしまって、自分でももう良く分からない。

 定刻通りのアラームの、それも一時間遅れの優雅な音楽。その響きで初めて時刻を認識した僕は、怒りというより、まだ一時間もあるじゃんラッキーくらいのことを考えていた気もする。

 これすらも曖昧になってしまうのは、この後に来た電話くらいしか、印象に残った出来事がなかったからだろうか。

 

 ひび割れた音のアニソンが流れた。二年前から変えていない着信音。名前を見なくとも分かる差出人。揺れる机に、画面を照らす光。

「……はい。もしもし」

「あ、出た。まだ起きてないと思ってたけど。今日は早起きだな」

「は?いきなり何。ていうか──」

 スマホを通して聞こえるアイツの声には、朝でもちゃんと芯があって、こんな早くから聞くにしては、些か力に富みすぎていた。

 朝に弱い僕としては、その空気が鬱陶しかったんだと思う。この時も多分、不機嫌だった。

「当たり前でしょ。学校まで四十分もかかるんだから。こんな時間まで寝てたら余裕で遅刻しちゃう」

「そうか?でも最近のお前遅刻ばっかじゃん。無断欠席するし。これからは優等生になる、って始業式そうそう宣言してたの、もう忘れたのか?」

「……そんなの知らない」

「図星だな」

 図星だった。

「それよりなんで電話なの。寝てると思うなら先ラインしてよ」

 逸らし方強引すぎだろ、とつぶやいた後(僕もそう思う)、アイツは少し考えるように間をとって、

「いや、したけど」

「え?」

 当時、ビックリした覚えがある。

 その日、僕をあんな早い時間に起こしたのは、紛れもなくアイツのメッセージ通知だったのだ。スマホの明るさは起床後すぐの目には強すぎて、そのまま閉じてしまっていて、忘れたまま過ごしてしまって。

 だとしても、それからの間あんなにも長い時間スマホを触っていなかったなんて、やっぱり僕はどうかしていたのだろう。

「まあとにかく、俺が言いたいのは「「今日の宿題」でしょ」のことだけなんだが、まあ「「分かってる」わよ」のか」

「当たり前でしょ。何回目だと思ってるの」

 まあまああれだよ、と言葉を濁すでもなく言ったアイツが要求してきたのは、先週の金曜日に出された数学の課題だった。

「頼む。今回は言い訳聞かねえから」

 口頭で話しているだけなのに、アイツの両手を合わせた姿が鮮明に浮かんだ。それがまた様になりすぎていて、僕は少し吹き出してしまう。

「休み挟んでるのに何で終わってないの?学習しなよ」

「学習しないのはお前だろ。このやり取り何回目だと思ってんだ」

「確かに」

 全然確かにではなかったんだけど、結局はそのまま、良くないなあと思いながらも従ってしまった。コツコツ問題を解いたノートを写真にして、送信ボタンを押す。その冷たい感覚だけは、何故かはっきりと思い出せた。

 アイツは散々感謝の言葉を述べたあとで、

「別に今送んなくてよくね?後で教室で見してくれりゃいいのに。写真だと見づらいんだよなあ」

 そんな何気ないことを告げる。

 アイツに悪気なんてなかったんだろうけど、そんなことくらい分かっていたんだけど、

「何それ、冗談?」

「あ、いや、⋯⋯すまん」

 画面の向こう側から、アイツが唾を飲み込んだ音が聞こえた気がした。

 アイツが黙りこくってしまうと思ったよりも静かで、決して忘れている訳ではないけど、我が家に誰もいないのを再認識してしまう。それも全部アイツがうるさいことの裏返しで、そのことに少し、僕は救われていたのかもしれない。

「じゃ、ありがと」

「うん。また明日」

 その後は特に何もなく、誰かの声がないとこんなにも静かなのかと、ほとんど会話の起こらないリビングルームで僕は一人、知った。

 印象に残ったとは言ったものの、電話の内容はこれだけだ。この日のことをここまではっきり覚えている理由は、やっぱり分からない。

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no title 苫夜 泉 @izumi_daifuku

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