no title

苫夜 泉

朝のHR後の教室で、文月ふづきは僕の横を通り過ぎるついでに「あ、おはよう」とだけ言って、右肩を軽く叩いてきた。咄嗟とっさのことに理解が追いつかないまま、彼の言った「う」がちゃんと発音されていたかを疑う。その「あ、おはよ(う)」が自分に向けられたものだと理解するまでに二、三秒ほどの時間をかけてしまった僕は、「じゃな」と言って背中を見せた文月を見つめたまま、使い古された2Bの鉛筆をカッターで削っていた。体重をほんの少しかけるだけで簡単に傾いてしまう机に、肘で器用にバランスを取りながら、消しカスみたいに小さな木片を降り積もらせていった。

 きれいな山ができて、崩れてはを繰り返す。よくある水っぽい雪とは違って、ちゃんと積もる。そういえば今年は見ていない気がする。降ったとしても、きっと「降ったな」で終わってしまうんだろけど。積もって学校がなくなれば嬉しいし、帰りの電車が止まってしまえば、きっと怒る。

 そんなものなんだろう。積もっていく雪に希望を抱くのは小学生までだ。

 後頭部をぼりぼり掻かきながら教卓の前を横切った文月は、一号車の前の方でふて寝を決め込んでいた日向ひなたに、僕に告げたものと同様「あ、おはよう」と切り出した。今度は「あ」の発音が若干薄かったような気がした。でもそれは、単に僕が聞き間違えただけで、実際は存在すらしていなかったのかもしれない。

 僕に対しては思いつきの定型文でしかなく、日向に対しては故意的なものだったからだろうか。日向の寝ている席に向かうまでの「ついで」でしかなかったからだろうか。どちらにしても、大した違いはなかったように思う。

 いかめしい両手で肩を揺さぶられた日向は、かすれた声を漏らしながらも少しだけ頭を上げ、廊下側の窓から入ってきた日差しに目を細める。日差しを浴びた時の猫のようにはいかなかったのか、流れるように机に突っ伏し直した。猫のようにはいかなくとも、猫みたいだった。猫というより、寝子。寝る子は育つというのは、存外迷信ではないらしいと、彼の膝から下あたりを見て思う。自分はどうだろうか、と分かっていながらも目を向け、前を向き、長くため息をついた。

 黒目の部分を必死に縮小しながら、まぶたの下辺りを擦る日向と、彼の両脇に手を差し込み、強引に立たせようとする文月。最終的には文月の望んだ通りになり、前のドアをガラガラと音を立てて開け、その隙間から出ていった。行き場を失った女生徒の視線が宙を舞い、名前しか知らないような人と目が合う。気まずそうに眼をそらされ、僕もだんだん鋭くなっていく鉛筆に視線を戻す。

 引きずられる形で僕から見えなくなった日向に、合意の意志はこれっぽっちも見て取れなかったと思う。ただし、抵抗もしていなかったように思う。

 その頃にはもう、黒板横の掛け時計は一限開始二分前の時刻を示していて、半分くらいの生徒は既に席に着いていた。机に教科書を並べ、辞書がないだとか、前回のノートを取り忘れただとか、文法が一切理解できないだとか、寝てないだとか、誰のためでもない自虐を振りまいている。「まじか」なんて相槌を挟み、誰のためでもない傷の舐め合いをする。こっちが哀れんでしまうほどにくだらなくて、笑ってしまうほどに滑稽で、ただただくだらなくて、それでいて、どうしようもなく羨ましい。

 僕だってあまり寝ていないし、英語より日本語の方が良く分からない。いっそ全部数式なら楽なのに。そんな誰にも届かない、届けるつもりもないし届ける努力もしない戯言が、僕の頭の中をずーっとぐるぐるしていた。

 クラスのもう半分、授業準備という真面目な行為をかっこ悪いとさえ思っていそうな彼らは、時計を気にすることなく、何人かで立ち話を続けていた。次第に静かになっていく教室では、彼らの高らかな笑い声がよく響いた。一つ一つがよく目立つ。それに自ら気づいた人もまた、話し相手と「じゃ、また」と別れの挨拶を交わし、自分の席へと戻っていった。

 複雑だった教室内の風景が整理されていく。はっきりとした合図もないのに、クラスの雰囲気は勉強に向かうそれになっていく。勉強だりーなんて言いつつも、自分たちがやるべきことは理解している。いつもは子供らしく振舞っていても、大人になる準備だけは欠かさない。それが高校生。限りなく曖昧で、それが心地良い。

「じゃ、また」「おん」「早」「うん。あとで」「え、もう終わり?」「やば。なんも準備してないんだけど」「じゃね」「おう」「宿題あったっけ」「ふあぁ~。……あ、二限ってなんだっけ?」「え、何それ?」「は?まじ?」「ばい」「見してくんね?なんもやってねえわ」「それじゃ」「でもアイツおせえしな」「いけるいける」「それな」「それなぁ」

 立っている生徒の数が半分から瞬く間に三分の一になり、やがて四分の一を通り越して二割にも満たなくなる。静かになった分話し声が目立つようになっていき、次第に一つになる。

 椅子を引く時に鳴る不快な音が重なり、その騒がしさに耐えきれなくなって目線をあげると、窓際、僕から見て二つ前、左に一つ進んだ場所にある席、桂馬なら、あるいはナイトなら楽にたどり着けるであろう場所にある席が、夏休み明け急に髪が茶色になっていた男子生徒に占領されているのが見えた。怒る訳でもないのに声を荒らげ、見せしめのように笑っている。

 その教室内で、彼とその取り巻きだけが休み時間の最中さなかにいた。悪びれもせず、強がっている訳でもなく、通路側に足をぶらぶらさせながら机に腰掛け、他の生徒と楽しそうに話していた。

 さらに前方に目を向ける。目を向けた、というより引き付けられたに近い。決して惹き付けられた、ではなく、引き付けられた。引き寄せられた、の方がいい。故意も恋もなかった。ただの引力でしかなかった。

 その僕の目が引き寄せられた先、先頭の席のさらに向こうに、一人の女子がいた。櫻井さくらいさんだった。

 標準よりかなり大きめの眼鏡をかけた彼女は、ただ一人黒板付近に佇んでいた。すごく目立っている。決していい意味ではなくて、悪目立ちだ。茶髪グループの人以外がすでに授業の体制を整えた教室では、彼女は些いささか目立ちすぎていた。その姿は、あたかも立ちながら蹲うずくまっているような、矛盾しているようで矛盾していない、形容しがたいとも形容しがたい印象を僕にもたらした。

 茶髪が腰かけていた席は元々彼女のものだった。そして、彼女は見るからに気が弱そうだった。オドオドしながら足を動かし、目はあっちこっちを泳いでいる。息が荒い。口をパクパクさせている。

 僕にも彼女が茶髪に何かを言おうとしていることだけは分かった。しかし、それだけだ。その肝心なところが、彼女の口から出てくることはなかった。

 チャイムが鳴る。まだ教師はこない。彼らもそこをどく様子はない。教室内に嫌な空気が立ち込めていた。

 茶髪達以外は誰も言葉を発しない。彼らの声しか聞こえない。何が面白いのか手を叩いて笑っている。茶髪が櫻井さんの机を叩く。大声で笑う。櫻井さんの顔が、ゆがむ。

 誰もが先生の到着を待っていた。チャイムが鳴ってから既に二分が経とうとしている。時計の秒針がうるさい。

 教室全体ががやがやし始める。他クラスは静かに授業を受けているはずだ。なのに僕のクラスだけがまだ休み時間で、彼らにはチャイムは聞こえていない。だからいつも、頭が痛くなる。

 チャイムがその余韻まで鳴り止んでからも、彼らの下品な話し声は止まらない。僕は未だに鉛筆を削り続ける──ガリガリガリガリガリガリガリガリガリ──破片が積もって──ガリガリ──やがて崩れる───ガリガリガリガリ───さらにカッターの刃を出す──カチカチカチカチ──削る──ガリガリガリガリガリガリガリガリ──また積もっていく──ガリガリカチカチカチカチガリガリ──そしてまた崩れる──ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ──

 形の整った鉛筆を机に置いて、僕は席を立った。周りがザワつく程度に大きい音が出た。茶髪もこっちをみた。僕も茶髪を見ていた。三秒間は目が合った。ただ、それ以降は覚えていない。

 それでも、全てが片付いた後に自分が吐いたセリフだけは覚えている。

「ふっ、貴様は運が良かったな。全盛期の我ならお前など容易く消し炭にしていただろう。力を失ってしまった今だからこんな刃物で済んだのだ。本来なら跡形もなくなっていただろうに。地獄の業火でなかったことに感謝しろ。星に向かって祈れ。さあ、敗北者よ。我に忠誠を誓うのだ」

 気がついた時にはもう遅かった。指を開ききった手のひらを左目の眼帯に当てたまま、血のついたカッターを手に握りしめていた。

 私は加害者であって、異常者だった。




◇◇◇




 始まりはなんとなくだった。

 別にこれといった目的もなく、ただの暇つぶしでネット内を徘徊していた、五月七日。日曜日。町全体が寝静まった、深夜三時。

 正確な日時を告げるのならば、その時は既に五月八日だった。五月八日。月曜日。ゴールデンウィーク最後の休みで、登校日。

 外は静かな暗闇に呑まれ、目の前のモニターが出す青白い光だけが唯一色を持っていた。それが中心となって、僕の世界、僕から見える世界は稼働していた。

 なんとなく、画面に浮かぶその言葉が気になった。なんとなく存在は知っていたが、詳しくは知らない言葉だった。なんとなく知りたいと思った。それだけだった。

 寝ることに疲れて惰性だけで起きて、意味もないサーフィンの末にたどり着いた三文字。なんとなくの行動の末、なんとなく検索した五文字。幅で言えば、六文字。


『厨二病 とは』


───「中二病」とは、中学二年生頃の思春期特有の自意識過剰な状況を揶揄する言葉であり、社会に反抗的になる・流行の逆をする・邪気眼などの特殊能力を信じるなどの特異的な行動を示唆する表現。揶揄または自虐の意味を込めて用いられるスラング。

「中二病」という呼称には、この「病状」が中学二年生の頃に典型的に見られるものである、という含意があり、また「厨二病」とも明記される。中学二年生は第二次性徴のただ中であり、心身ともに子供から大人へと移行しはじめる、またの言葉で「思春期」と呼ばれる時期であり、下級生(子供)と上級生(大人)を同時に認識しながら過ごす時期でもある。大人に憧れつつ、子供っぽさが抜けず、年相応に───


───世間知らずである。

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