蕭々と降る

月見 夕

それは雨とも涙ともつかない何か

 分厚い雲から落ちてくる雨は糸のように細かくて、まるでロンドンみたいだと溜息を吐いた。

 あの街は年中そう陰鬱な天気で、よく十年も住んでいたと思う。

 重たい雨は山道を煙らせて蕭々と降る。

 歩くだけで気落ちしていたあの頃を思い起こし、私は濡れそぼった杖を握り直した。


 足取りが重いのは、履き古した草鞋が泥水を吸ったからなのか、或いは。

 思索を巡らせるより息が上がり、それでもただ老体を引き摺って先を目指して行く他ない。

 それが今、私にできる事なのだから。


 妻がいた。確かに彼女は存在した。

 若き頃から歴史研究に明け暮れていた私の人生でした、唯一の寄り道のような存在だった。

 両親が勝手に仕組んだ見合いとやらで、私の伴侶は五分で決まった。よく知りもしない私と生涯を共にすることが決まった彼女のその時の表情は、もう覚えていない。

 大人しく貞淑な妻は、文句のひとつも言わず私の後ろをついてくるような女だった。客員教授として異国の地に渡った時も、帰国して日本中の大学を転々としていた時も、彼女はいつも隣にいた。気づけば四十五年もそうしていた。


 歴史学とは、百年も千年も連綿と続く人類の営みを解釈する学問だ。人が生まれて生きて、最後には必ず死んでいく。だからそれを専門にしていた私にとっては、生きていた人間が死ぬのは自然の摂理でしかなく、たとえ肉親だろうと人の生き死にに対して大した感慨など抱けるとは思っていなかった。きっと妻もそうなのだと、何故か信じて疑わなかった。


 妻は数年前から癌を患っていた。

 見つかるのが遅く、医者に見せた時には手遅れだった。

「具合は、どうだ」

「……ご迷惑をおかけします」

 日に日に弱る妻に、私は何と言葉を掛けたら良かったのだろう。

 あっという間に立てなくなり、寝たきりになり、そして息を引き取った彼女が煙になって空へ昇るのを見て、ふと隣に誰もいないことが痛切に心に染みた。

 彼女は私といて楽しかったのだろうか。

 こんな朴訥とした、つまらない男の帰りをじっと待つだけの人生を終えた妻を、今更想う。が、涙の一滴もこぼれなかった。それほどに私は彼女のことを知らなかった。

 知っていれば、私は泣けただろうか。


 考え事をして宿を取り損ね、気付けば辺りはとっぷりと日が暮れていた。明かりなどない山道は真の夜闇が黒々と広がっていて、そこにはただ無遠慮な雨音だけがしている。獣と雨が支配する領域に足を踏み入れたようで、途端に身が竦む思いがした。

 叫び出したくなる衝動を堪えて、ずぶ濡れの私は駆け出した。

 こんな泥だらけになり山道を駆け下ったところで、妻は戻りはしない。分かっている。どんなに白装束を濡らそうと念仏を唱えようと、死んだ人間は生き返ったりはしない。分かっているんだ、そんなものは。

 どんなに学術を極めようと、終生を捧げて研究に打ち込もうと、この世の真理なんてものはなかった。あるのは先駆者の「未だ真理には程遠い」という言い訳めいた辞世の句だけだった。

 じゃあ私のしてきた事は、彼女の心を置き去りにしてまで打ち込んできた私の人生とは、何だったのだろう。

 教えてくれ、教えてくれよ。誰か。どうか――

 酸素を求めて水中で藻掻くように、土砂降りを直に受けてひた走る。走る。走れ。消えろ、私など、こんな老いさらばえたひとりの男など、打ち付ける雨に消えてしまえ。


 突如そばの藪に二条の横槍のような光が差し込み、私は虚を突かれて立ち止まった。真向いから悪路を突き進む四駆のエンジン音が迫り、やがてそれがヘッドライトだと分かった。

 思わず路肩に退き道を譲った私と、運転席の若い女性との視線が交錯する。

 車が通り過ぎる数瞬の間――彼女は片手で手刀を切り、神妙な顔で頭を下げた。

 白い光の中で見たそれは、清廉な合掌だった。


「お遍路とは、弘法大師さまの教えを慕い足跡を辿る旅路です。距離にして三百里あまりの途方もない距離……その中では悪路も苦難もありましょう。しかし孤独の旅路は、己を省みる鏡でもあるのです。誰だって、本来の自分と向き合うことは難しい。だからこの土地の人間は、我々の代わりにそうした修行を積む貴方がたに感謝と尊敬の念を抱き、温かく見守り、敬意をもって相対するのです」

 立ち寄った寺の老僧がそう言っていたのを、実感の湧かぬままに歩みを進めていた。

 あの女性の合掌は、彼女の瞳は、まっすぐに私へ向けられていた。それは暗闇を彷徨う私に差した、救いの光のようだった。

 私はまだ、生きていて良いのか。彼女を失ってもなお彼女との記憶を抱いて生き永らえることが、赦されるのか。

 雨とも涙ともつかない何かが、幾筋も頬を流れていく。再び訪れた夜闇に、もう心は震えなかった。


 嗚咽と共に絞り出した言葉は、雨煙に消えていく。

 そこにはただ、あたたかい雨に打たれる男だけが佇んでいた。

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蕭々と降る 月見 夕 @tsukimi0518

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