百舌の早贄 後編

 彼の出発の日は、たまたま仕事がない日でした。もう赤紙が届くことも少なくなった小さな町ですから、朝から浮き足立った雰囲気に包まれていました。

 近所の人々や婦人会が見送りに来ているようで、隣の我が家にも伝わるくらいの騒々しさでした。私は元々それに出るつもりはなかったので、部屋の中でざわめきを聞いているだけでしたが。人前に出たって、どうせ冷たい視線を向けられるだけなので、お祝いの雰囲気に水を差してしまうからです。

 目が覚めても昨日の気分は引きずられたままで、瞼も心も重くのしかかるようです。休みだから良いだろう、と言う怠けた気持ちも相まって、午前いっぱいは布団を被って微睡みの中で時間を潰していました。父も母も仕事の日は気に掛けてくれますが、休みの日は私が起きるまで声を掛けてくることはありません。

 どうしてあの時、気づかれてしまったのか……。いや、最初から嘘なんてつかなきゃ良かったんじゃ……。そんなどうにもならない後悔を頭の中に浮かべては、打ち消すように瞼を閉じて眠る。その繰り返しでした。

 時間も経ち、朝と昼の境目に差し掛かろうという時。眠気も流石に打ち消えてはっきりした頭が、ひとつ気づきました。

 そういえば、昨日結ぼうとした手紙。あの場所に置いてきたままじゃないか?

 その瞬間、まだ霞のように残った眠気もすべて飛んだのが分かりました。しっかり思い起こしてみても、持ち帰った記憶がありません。あのまま枝に引っかかったままなのか、それか勇次君が持ち帰った可能性もあります。それなら良いのですが、風で飛んだり、他の人に拾われているかもしれません。

 そうなったら、布団で寝ているわけには行きません。急いで起き上がり、顔を洗ったり服を着替えたり、外へ出るのに最低限の身支度だけ済ませます。

 適当な草履を引っかけて外へ出る頃には、お祭り騒ぎはすっかり収まっているようでした。その反動で、むしろいつもより静かにさえ感じられます。

 ああ、もう勇次君は出発したんだ、と。静まった隣の家を見て、今更ながら実感が湧いてきました。昨日会ってしまったのなら、いっそそこで別れの挨拶だけでもしておけば良かった。そんな新たな後悔を抱え、いつもの木まで向かいました。

 日が高くなった冬の中に、木枯らしが吹きすさんでいます。道の途中でも、くうを舞う落ち葉に混じってあの手紙が無いか目を凝らしてみるものの、どこにも見当たりません。この寒風に吹き飛ばされたか、あるいは誰かが拾ったのか。辺りを見渡すうちに、例の木の枝が目に止まりました。

 そこには、何度も見かけた光景がありました。短冊状に折られた紙が、緩く結ばれていたのです。私の記憶が間違っていなければ、昨夜持って行った手紙は結ぶ前に彼と鉢合わせてしまったはずです。それならば、この紙を結んだのは私以外の誰かで、それは限りなく高い可能性で勇次くんでしょう。動かない左足を急かして、その枝まで近寄ってみます。片手でなんとか紙をほどいてみると、私が書いたものとは別のもののようです。

 中にはこの二週間で何度も見た、薄い鉛筆書きの文字が敷き詰められていました。


浅沼あさぬまみのりさんへ』


 宛名に書かれていたのは、彼に教えていないはずの私の名前でした。


『名前が分からなかったので、母から聞きました。勝手にごめんなさい。あの夜も驚かせてしまってすみませんでした。

 僕は稔さんの隣の家に住んでいる、斉藤勇次と言います。

 実は、貴方が最後の手紙を結びに来ていた数日前から、あの木を見張っていたんです。

 見ず知らずの僕へ親切にしてもらったのに、このまま出発したらもうそれきりになっちゃうんじゃないかって思って。最後に顔を一目見て、できたらお礼も言いたかったんです。

 そうしたら、あの木の側に貴方がいました。顔は帽子でよく見えなかったんですが、杖と脚ですぐに隣に住んでる人だって分かりました。

 本当は追いかけたかったんですけど、僕の方も相手を完全に知らない人だと思い込んでたので、驚いて足がすくんでしまいました。稔さんもびっくりしたと思います。本当にごめんなさい。

 直接言えないのが歯がゆいですが、あのとき言えなかったことをここで書かせてください。

 僕を励ましてくれて、ありがとうございました。すごく勇気づけられました。それに、僕が帽子だけ見て早とちりしたから、話を合わせてくれたんだと思います。何とお礼を申し上げればよいか、言葉もありません。

 長い間隣同士で生活していたのに、話したこともなかったけど、この町を発つ前にお話ができたことを嬉しく思います。

 ただひとつ心残りは、稔さんと顔を合わせて言葉を交わせなかったことです。

 もし僕が命あって帰って来れたときには、手紙じゃなくて直接話してくれませんか。その時は、僕が予科練や戦場で見てきたことを話させてください。稔さんの話も聞かせてください。

 それでは、行ってきます。

                      斉藤勇次』


 一文字一文字が、水に沈みゆく小石のように私の胸へと落ちていくのが分かりました。

 私の胸中へと最初に浮かんだのは、嘘をついていたことを咎められなかった、と安堵する浅ましい気持ち。次に、喜びとも形容できる感情が、いくつもの波紋となってはない交ぜになっていきました。

 だって、こんな手紙なんてもらったこともなかった。

 私の拙い作り話が、彼の一助となり得たこと。文面という形にされてお礼を伝えてもらったこと。何よりも、また会おうと約束をしてくれたことが一番嬉しかった。架空の軍人ではなく、脚を悪くして戦うこともできない私を知ってなお、また会おうと言ってくれたのです。思えばそんなことを言ってもらえたのは、初めてかも知れない。それが嬉しくなくて何だというのでしょう。

 しかし、それと同じくらいに私の心を占めていたのは、落胆の気持ちでした。短い間ながら、せっかくこうやって交流を持てたのに、すぐに絶たれてしまったことへの落胆です。運が悪ければ、彼はもう帰ってこないかもしれない。微かに芽吹いたよすがの終わりとしては、あまりにも絶望的でした。

 そんな後ろ向きな考えを振り払うように、かぶりを振りました。勇次君はまだこの町を出発しただけです。無事に帰ってくる可能性だって十分にあるはずでした。

 ただ、分からないのです。この先、どんな運命が彼を待っているのか……。それに、私の方だって空襲やら何やらで命を落とす可能性は考えられます。

 私が彼のことを知れたのは、果たして幸運だったのでしょうか。もしかしたら仲良くなれるかもしれないと希望を抱くくらいなら、帽子を落とさなければ良かったのでしょうか。

 ここで考えても、答えが分かることはありません。ただ、また会えることを静かに願うのみです。

 私は手紙を今までで一番丁寧に折りたたみ、家の方向へと踵を返して歩き始めました。日はいよいよ頂上へと昇ろうかという時分で、私の気持ちとは裏腹に澄んだ空気を柔らかく照らしています。

 家に帰ったら、この手紙も文箱にしまおう。恐らくはもう新品の便箋が減ることも、代わりに皺だらけの手紙が入ることもない文箱に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

百舌の早贄 / 雪 六華 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る