家出船長

泉野帳

家出船長

 


 雪がしんしんと降り積もる地方都市に、雪丸ゆきまるという少年が住んでいた。

 雪丸少年はある日、家出を決意した。

 全てを投げ出したくなるほど嫌なことがあったわけじゃない。みんなのものより給食の唐揚げが小さかったとか、仲良しの友達が休みだったとか、理科のテストで悪い点だったとか、ちょっとしたことだ。

 ちょっとしたことが積み重なると、大きいことも連れてくる。

 理科のテストがあったことを隠していたら、雪丸の母にテスト用紙が見つかって怒られた。

 テストの点以上に、隠すんじゃないわよと怒られた。

 母が怒ると鬼のようになる。目は吊り上がり、お説教する口は回り続け大きく開かれる。顔は興奮で赤く染まる。角も生えていても、不思議ではないくらいだ。

 母に怒られてから、雪丸は自分の部屋のベッドで不貞寝をしていた。

 ややあって雪丸は遠足用のリュックサックに、家中のお菓子と缶詰を詰めた。考え付くかぎりオシャレで暖かい服を着た。理科のテスト用紙を裏返して、書置きとした。


「さがなさいでください」


 習っていない漢字があったから、ひらがなで書いた。

 雪丸は理科のテスト用紙を使ったことで、怒られたことを暗に抗議をしたのだ。

 母はこの時間になると、スーパーへ買い物に行っている。

 誰もいない家を出るのは落ち着かないが、それよりも少年の胸は冒険への期待で燃えていた。

 冒険には仲間が必要だ。雪丸は犬小屋へ立ち寄った。雪丸の家族が飼っている秋田犬のサブがそこにいる。雪丸の姿を見るなり、わんと鳴いた。


「これから冒険に行くんだよ」


 サブは尻尾を振った。

 雪丸は犬小屋に立てかけてあったソリに目を留めた。こいつを船としよう。大きな下り坂を滑ったら、さぞ気持ちいいに違いない。


「行くぞ、サブ」

「わんわん!」


 雪丸はソリを引きずって、サブはその後を追いかける。雪には子どもの足跡と犬の足跡と、ソリの跡が残された。

 サブの真っ白な毛並みで、雪が降っても毛と区別がつかない。ピンクの鼻先に雪が落ちると、クウーンと鳴く。


「ここらでいいかな」


 雪丸は坂の頂上で止まった。父のグレーのダウンコートは、雪丸の身体には大きいが十分暖かかった。

 サブの毛の間に入り込んだ雪を取り払い、リュックに入れていたドッグフードを与えた。

 坂から下の道を見下ろした。急斜面になっていて、その下は分からない。道には柔らかな雪が固まっていきて、ソリで滑るには絶好のコンディションだ。

 雪丸はソリに乗る席順を考えた。前に乗りたいけれど、サブがソリから振り落とされては困る。


「サブおいで、おすわり」


 雪丸はソリの先頭にサブを座らせた。サブは大人しく座る。雪丸はふとももにサブを挟み、ソリの紐をつかんだ。リュックサックは背中から下ろして、一番後ろに乗せた。

 出発前に雪丸は饅頭を食べた。口の中がパサパサになったけれど、甘くて美味しい。


「出発進行」


 雪丸はそう言ってみた。乗組員(サブ)がいて船荷があって、船(ソリ)に乗っている。自分が船長になったような気がして、わくわくする。

 雪丸は両足で雪面を蹴った。だがソリは滑り出さない。もう一度蹴ると、のろのろと進みだした。

 のろのろと進んでいては、あまり面白くない。


「わん!」

 サブは後ろを振り向いて鳴いた。

「そっか! 荷物が重いんだ」


 雪丸はリュックをソリから取り除き、斜面に放った。今度こそはと雪面から両足を離すと、面白いように速く進み出した。

 風を切って、吹き付ける冷気もなんのその。身体を傾ければ、傾けた方向にソリは曲がる。スピードを抑えたければ、紐を引っ張って両足をブレーキする。

 雪丸は全身でソリを操縦し、とても高揚していた。彼は船長だった。ソリは船で、坂は世界の海で、綿雪は雷で、風は海獣だった。サブは忠実な相棒だった。

 坂の困難な箇所を乗り切ると、雪丸は海賊に囚われたお姫様を救い出したことを想像した。


「わんわん、きゃんきゃん!」


 サブの鳴き声は、船長を称える声だった。

 少年がここまでの全能感に酔いしれるのは、初めてのことだった。さぞ痛快で、甘美だったに違いない。

 坂は途切れても、またその先には同様の坂が続いていた。

 雪丸とサブは歓声を上げて、沈んでゆく夕陽に気づくことなくソリ遊びに興じていく。

 

 全ての坂を滑り切って、雪丸はソリから降りて地面に寝転がった。疲れと充足が同時に広がって、体育の後のように気持ちがいい。

 サブは雪丸の頬を舐めて、すり寄ってくる。

「楽しかった」

「わん!」

「よしよし。お腹減ったよな」

 雪丸はお菓子を食べようとしたが、リュックサックを置いてきたことを思い出した。

 辺りは日が暮れていた。滑り落ちてきた道の上は暗闇で覆われていて、なんだか不気味に思えた。


「わん?」


 ここはどこなんだろう。車が通っている音がする。道路は近くにありそうだ。家の明かりも遠くに密集して見える。

 でもここから動いたら迷子になってしまいそうだ。いいや、もう既に迷子なのかもしれない。

 来た道を戻るには、暗闇が怖い。

 雪丸は心細くて、泣き出してしまった。

 サブが焦ったようにぐるぐる回ると、雪丸を置いてどこかに行ってしまった。

 雪丸とて本気の家出ではない。家出という響きに少年心がくすぐられて、やってみただけなのだ。母のことは大好きだ。父のことも大好きだ。家族に会えなかったらどうしよう。


「サブ……」


 サブも雪丸のところからいなくなってしまった。一人きりになってしまった。

 雪丸はしゃくりあげた。父のダウンコートを両手で抱きしめて、孤独に耐えようとしている。

 朝早くに出かけて、夜遅くに帰ってくる父。休日は雪丸と一緒に遊んでくれる。ソリもサッカーも、野球だって遊んでくれる。ソリのやり方は父が教えてくれたんだっけ。

 ――父さんと母さんに会いたい。寒い。






「わんっ、わん!」


 サブの声がする。

 雪丸はいつの間にか、眠ってしまったようだ。

 ぼうっと顔周りを舐められるがままにされていると、一台の車が停まった

「雪丸! よかった。無事だったんだな」

「お父さん!」


 雪丸は父に飛びついた。


「母さんから雪丸が帰っていないって言われるし、サブも慌てた様子で帰ってくるし、こりゃあ何かあったなと思ってな。さ、帰るぞ」


 雪丸は父が運転する車に乗った。ウィンカーの音、聞きなれたラジオの音、走行音。安心する音ばかりだった。


「それは父さんのコートじゃないか」

「ごめん、格好良かったから……」


 雪丸が借りた父のコートは、雪まみれになっていた。


「あとでよくはたいておくから大丈夫さ。雪丸に怪我がなくてよかった」

「うん……お父さんは僕のことを怒らないの?」


 父は愉快そうに眉を上げた。


「父さんも雪丸みたいに、ソリでどこか遠くへ行きたいこともあったのさ。その時父さんはヒーローでもあったし――」

「船長でもあった?」

「船長でもあったよ」


 車は雪丸の見覚えのある道に出た。あと数分で家に着く。

 ソリは雪をよくはたいて、トランクに置かれている。サブは後部座席で大人しく寝ていた。


「お母さんは怒ってたよね?」

「怒ってたというより、心配していたぞ」

「心配?」


 雪丸は首を傾げていると、父はにやりと笑った。


「怒るのは雪丸が家に帰ってからだな。うん、鬼みたいに怒るぞ」

「やだなあ……」


 悪いのは全て雪丸なのだが、気が重い。

 駐車場に車を停めて、二人と一匹は帰ってきた。


 サブは雪丸の袖を引っ張っている。ご飯が食べたいようだ。

 チャイムを鳴らすと、すぐに雪丸の母が出てきた。


「あんたって子はもう! 心配したんだから!」


 母は雪丸を強く抱きしめた。


「お母さん……ごめんなさい」


 雪丸は母が泣いていることに気づき、自分も泣いてしまった。疎ましく思ったことを恥じた。


「……冷えてるでしょう、早く中に入って。今日はおでんだよ。サブもご飯あるからね」

「く~ん」


 サブは嬉しそうにステップを踏むと、座って待っている。

 その毛を優しく撫でてやり、雪丸はおでんに心をときめかせた。雪丸は味が染みたちくわぶが好きだ。

 リュックサックはサブが持って帰ってきてくれた。

 三人と一匹で囲む食卓は、笑いあり涙ありおでんがあって、最強で鬼に金棒だった。

 雪丸は金輪際家出をしないと誓った。


 だが彼は青年期の荒波をまだ知らない。

 誓いは破られるかもしれない。それでも紆余曲折を経て帰ってきて、仲直りをして食べるおでんの味は不変なのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

家出船長 泉野帳 @izuminuma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ