父の本音

@nkft-21527

第1話

 今思い起こしても、私の記憶の中の父は寡黙な人だった。寡黙な上に不器用でもあった。

 子供の頃、父と一緒に遊んだ思い出が私には全くない。よく父親の影響で、幼い頃から将棋や囲碁に勤しんだとか、あるプロ野球チームの熱烈なファンになったとかの話を聞くが、このようなことは、私にとっては全く別世界の出来事で、父は将棋や囲碁、麻雀などの室内ゲームも、野球やサッカーなどのスポーツなどにも全く興味を持っていなかった。男の子なら誰もが経験する父親とのキャッチボールなども、私には全く無縁だった。

 小学校の頃、自宅には風呂がなくて、家族は銭湯を利用していた。夕方になって銭湯に行くと、父親に連れられて来ている同級生によく出くわした。

「もっと長くぬくもりなさい」とうるさく言われたり、「背中にまだ泡が残っている」と言われながら、洗面器でお湯を掛けられたりする同級生様子を横目に見ながら、いつも私は一人で身体を洗っていた。

 父は子供と一緒に行動することを、まるで恥じているように避けていた。けれど、子供の頃の私は、うちの父親はそんな人なのだと早くから諦めていたのか、寂しいとかもっと関わって欲しいとか不満に思ったことは一度もなかった。

 やがて、中学生になり高校生になると、元々小柄だった父の背を超えて、体重も私の方が大きくなった。その頃から私は父のことを嫌悪するようになった。

 身体の成長をそのまま精神の成長と勘違いしていたということは、その後社会に出てすぐに思い知らされることになるのだが、その頃は勘違い真只中だったのだ。

 それまでは一緒に囲んでいた夕食の席も、父と一緒に食べるのが嫌でわざと遅く帰宅して、一人で食べるようになっていた。

 こうした関係は就職をして家を離れるまで続き、結婚をしてからも盆暮れの帰省の時以外には特別に長い会話を交わすこともなかった。

 そんな父の身体に変調が起きたのは、父が七十六歳の時だった。

「突然父さんの声が出なくなったのよ」

 母が、電話口でもはっきりとおろおろしているのが判るくらいの様子で電話をして来た。

「いつも母さんは大袈裟だからなあ。ちょっと風邪を引いているだけだろう?」

「咳もしていないし、熱や鼻水もないから違うと思う」

「医者はなんて言っているの?」

「それが、病院には行っていないのよ」

「えっ、どうして病院に行かないのさ。すぐに行くように言ってよ。何やっているんだよ」

「母さんだって何度も何十回も病院に行くように言ったわよ。それでも父さんは頑として『行かない』と言い張るんだもん、母さんではもう説得は無理なのよ」

 母は私に帰省して、父に病院に行くように説得して欲しいと言う。

「分かった、今週末に一度帰るよ」

 そう答えて電話を切ったが、正直荷が重かった。母がいくら言っても駄目だった病院行きを、私が説得したくらいで父が承諾するわけはないと決めつけていたからだ。「無駄骨」「徒労」という言葉が脳裏をかすめた。

 母との約束通り、この週末に帰省をした。

「ただいま」

 居間に座って新聞を読んでいる父に声をかけた。

「おお、どうした?」

 このひと言を聞いた瞬間に私は大きなショックを受けた。全く声が出ていなかったのだ。電話で母親が言っていたことは、決して大袈裟でも、誇張でもなかったのだ。声がかすれるという生易しい状況ではなく、石と石を擦り合わせたような、声というよりも音が出ているだけだった。

「父さん、その声どうしたの。いつからそんなになってしまったの?」

「うーん、十日前くらいかな」

「病院には?」

 知っていながら敢えて訊いた。

「病院なんて大袈裟だよ。そのうちすぐに治るさ。別に喉が痛いわけでも腫れているわけでもないし。ただ、声がちょっと出難いだけだから」

「その声、ちょっと出難いレベルじゃないと思うよ。風邪の症状もないのに声だけが出ないなんて、明らかにおかしいよ」

「若い頃に毎日のように大酒を飲んでいたから、その頃の無理が今頃来たんだろう」

 父は無理に笑顔を作って冗談を言ったが、無理に振り絞った音で言われる冗談は、私の耳には泣き声のように響いた。

「父さん、とにかく一度病院に行こうよ」

 私は父の真正面から強い視線を送りながら、半ば命令口調で言った。

「それを言うために、わざわざ帰って来たのか?」

 やっと聞き取れるくらいの声で、父は弱々しい目で私を見ながら訊いた。

「ああ、そうだよ」

「じゃあ、行くしかないな」

「えっ?」

 拍子抜けするような呆気なさで、父は病院行を承諾した。

「明日にでも総合病院に行くよ。でも、一緒に来なくても良いからな。用事が済んだのなら、お前も仕事が忙しいんだから、もう帰れ」

 父は突き放すようにそう言った。

「わざわざ四時間以上もかけて帰って来たんだから、もう少しくらい居させてくれてもいいだろう」

 病院に行くことを承諾してくれた安堵感もあって、私がそう言い張って昼食を一緒に取ることにした。

 懐かしい母の手料理がテーブルに並んだ。昼食とは思えないほどの豪華な品揃えだった。

「すごいご馳走だね。何から食べれば良いのか迷うよ」

「どうだ、ビールでも飲むか」

「僕は良いけど、父さん、飲んでも大丈夫なの?」

「声がかすれているだけで別に大した病気でもないんだから、ビールを飲むくらい大丈夫だよ」

 父は母にビールを持って来るように言った。

 互いのグラスに注ぎ合って、軽くグラスを合わせた。考えてみれば、こうして二人で酒を酌み交わしたのは何年振りだろう。子供が生まれてからは盆暮れの帰省の時にも、実家でゆっくりすることもせず、一緒に食事すらしていなかった。

 ビールのロング缶を私が七割くらい飲み、料理の大半も私が平らげた。子供の頃から馴染んでいる母の料理はやはり格段に美味しかった。酒が入っても食事中の父は殆ど会話に入って来なかった。

「ちょっとトイレに行って来る」と言って、父が席を立った。

 暫くして帰って来たが、その表情が心なしかくすんでいるように私の目には映った。

「そろそろ出た方が良いんじゃないか」

 父の言葉に急き立てられるように私は玄関口に行った。父は見送りには来なかった。

 靴の紐を結んでいる時に、「トイレで吐いたのよ」と、母が耳打ちをして来た。

「あなたに心配を掛けたくないから無理してビールを飲んでみたけど、ここ二、三日はまともに食事も取れていなかったのよ」

「えっ、そんなに悪いの?」

「明日病院でしっかり診てもらって来るから。また、連絡するわ」

「病院から帰ったら、仕事中でも構わないから連絡を待っているからね」

「分かった。今日はわざわざ帰って来てくれてありがとう。父さんがやっと病院行きを承諾してくれて助かったわ」

 母の声に送られて、私は実家をあとにした。

 父の診察結果は翌日の夜に母から報告を受けた。簡単に治る病気ではない可能性が高いので、別の大きな病院で精密検査を行うことになった。

 その精密検査の結果はちょうど一週間後に聞いた。その日も仕事で外を飛び回っていて、帰宅したのは二十二時を過ぎていた。

「お義母さんから、何時になっても構わないから、電話をして欲しいとの伝言があったわ。お義父さんの精密検査の結果のことだと思う。待ってらっしゃると思うから、すぐに電話をしてあげて」

 家内にはそう言われたが、ぐったり疲れていて、強い空腹も感じていた。「先にご飯を食べてから電話をするよ」と言ったら、「何を言っているの、あなたのお父さんの病気のことなのよ」と家内に叱られて、渋々母に電話をした。

「帰って来られる?」

 電話が繋がった途端、母は「もしもし」でもなくそういきなり切り出した。

「帰れるかって、検査結果の話でしょう」

 電話で話せないということ、つまりは良くない結果だということだ。

「そう。詳しく説明をした方が良いと思って」

「週末なら都合がつくと思う。土曜か日曜」

「病院のベッドが空き次第入院することになるから、出来るだけ早い方が良いんだけど」

「えっ、そんな緊急な話なの。だったら構わないから、この電話で話してよ」

 今週はすでに出張や会議の予定で、スケジュールがびっしり詰まっている。平日に休みを取るなんて絶対無理だ。

「父さん、癌が出来ていたのよ。しかも、すでにかなり進行しているという説明だった」

「癌?喉に癌が出来ているということ。だから声が出ていなかったの?」

「ううん違う。癌は喉ではなくて食道の上の方に出来ていて、それが進行をして声帯まで広がっているから、声帯の機能を妨害していて声が出せなかったのよ。だから、あんな声になってしまったの」

 癌は食道の上部に出来ていて、それがすでに声帯にまで進行をしている。これほどまで酷くなっているのに、何故、父は頑なまでに病院に行くことを拒み続けたのだろうか。

「でも、声が出なくなるまで、父さんは別に身体の不調を訴えていたわけではないんだよね。痛いとか辛いとか、怠いとか。食欲だってきちんとあったわけでしょう」

 私はまるで詰問するように矢継ぎ早に母に質問を投げた。顔が見えない分、言葉に小さな棘が混ざり易くなることも、一番辛いのは父であり、母であることも忘れて。

「母さんにはそう見えていたんだけど、実際にはそうではなかったみたい」

「そうではなかったみたい……って?」

「今日、検査結果の説明を受けた後、入院の手続きをして体重計に乗ったのよ。そうしたら」

 ここで母の言葉が切れた。耳を澄ましてみると、かすかに泣いている声が聞こえて来た。

「母さん、辛いならもうこれ以上話さなくても良いよ。僕、なんとかして時間を作って帰るから」

「あっ、ごめん、ごめん。ううん大丈夫だから。体重計に乗ったら、父さん五十二キロしかなかったのよ」

「五十二キロ……」

 軽すぎるよ。父はいつの間にこんなに痩せてしまったのだろう。

「かなり長い間、辛いのを我慢されていたのではないでしょうかと先生に言われた。本当、失格だよね。女房失格よ。毎日、こんな近くで一緒に暮らしていたのに、父さんが辛い思いをしていることに少しも気づいてあげることが出来なかったんだから」

 母の声に涙が混ざって来た。

「そんな風に自分のことを責めないでよ。母さんは少しも悪くないんだから、そんな風に責任を背負い込むようなことを考えたら駄目だよ」

 いくら慰めても、母は自分を責め続けた。このまま永遠に終わりそうにない押し問答を続けるわけにはいかないので、終止符を打つように、「入院の日が決まったら連絡して欲しい」と言って、私の方から電話を切った。

 約束通り、「明日入院することに決まった」と母から電話があったのは、それから三日後のことだった。

 意外に早かった入院に安堵をしながら、病院に駆けつけるために仕事を調整するために、頭を切り替えた。

 父が入院する当日、始発に乗っても入院の時間には間に合わなかった。母と地元に住む妹が付き添ってくれて、入院の手続きは済ませてくれることになっていた。

 父の病室は五階の四人部屋だった。入り口を入って左側奥の窓側のベッドで、私が病室に入った時には、すでに南側の窓からは眩しいほどの光が差し込んでいた。

「窓側のベッドで良かったね」

 同室の人たちに挨拶をしながら辿り着いた父のベッドで、私が最初に口にしたのは、そんな差し障りのない言葉だった。

「お前も忙しいのに、わざわざ来なくても良かったんだよ」

 私の顔を見るなり、まるで台本に書かれた台詞を読むような不愛想さで、父はそう言った。一瞬むっとした気持ちが過ったが、嬉しさの裏返しなのだと無理やり自分自身を納得させた。

「父さん本が好きだから、お見舞いに何を持って来ようかと色々考えたけど、結局本にしたよ」

 私は新幹線に乗る前に駅構内の書店で買った単行本や雑誌を、ベッドの上に設置されたスライド式のテーブルの上に袋ごと置いた。

妹も同じことを考えたのだろう、すでにテーブルの上には、今話題になっている人気作家のミステリー小説の上下巻が置かれていた。

「こんなに沢山の本があるなら、入院生活も退屈はしないかもね」

 これには父は何も答えなかった。

 ここでもう会話が続かなかった。気の利いた励ましの言葉とか、頑張って病気に勝つぞと奮起させるような優しい言葉を、移動中の新幹線の中で色々考えて来たのだが、病室のベッドに横になった父の姿を間近に見て、その小ささと、その痩せ方に、頭の中の言葉が口から出て来なくなってしまったのだ。

 父と息子の間に沈黙の時間が流れて行く。ただ、私の肩や背中を、ますます強くなった太陽の光が照らし続けるだけの時間が確実に流れて行く。

 何か会話のきっかけを作らなければと気持ちは焦るのだが、これに反して気の利いた話題が浮かんで来ない。この気不味い沈黙を破ったのは父の方だった。

「お前も忙しいんだから、もう帰った方が良いぞ」

「そんなつれないこと言わないでよ。せっかく来たんだから」

 私はすがるような気持ちでそう言った。

「疲れたから少し眠りたいんだよ。だからもう帰ってくれ」

 父は目を閉じたままそう言った。

「ああ、気が付かなくてごめん。じゃあ、僕、そろそろ帰るよ」

 そう言って席を立つ私に、父は目を閉じたままでひと言の言葉もかけてくれなかった。もう眠ってしまったのかなと思ったが、その真意を確かめるのが怖くて、私はそのまま病室から出て行った。

 病室から出て一階のフロアに下りた時に、運よく偶然に母と妹に会うことが出来た。

「父さん、今眠っているよ」

 二人にはこれだけ伝えた。

「そう。昨日の夜も父さん殆ど眠れなかったみたいだしね」

 母がそう教えてくれた。

 三人で病院内の喫茶店でコーヒーを飲みながら、他愛のない話をして、私は、「ありがとうね」「気をつけて帰ってね」という二人の言葉に送られて、たった一時間しか滞在しなかった病院を出た。

 入院をした次の日から、父は連日検査を受け続けた。

 毎日夜八時すぎに母から定期便のように、父の様子を報せる連絡が私の携帯に入って来た。

「検査から戻って来ると、父さんもうぐったりしていて、これじゃあ、検査をしているのか体力を消耗しているのか分からないわよ」

 母は毎回病院の対応に対する愚痴を口にした。半ばうんざりしながらも、これに適当に相槌を打ちながら、「いつ終わるんだろう」と、長々喋り続ける母の話が一段落つくきっかけを伺うことが日課になっていた。

「ところで、今度いつこっちに来るの?」

 ひとしきり愚痴を言った後に、母はそう訊いて来た。

「いつって、この前見舞いに行ったばかりじゃないか」

 まるで近所にでも住んでいるかのように、気軽に言う母に向かって、「こっちだって仕事が忙しくて、この前の見舞いの時も調整するのが大変だったんだぞ」と言い返したい気持ちをぐっと我慢した。

「父さん、もうすぐ抗癌剤の治療が始まるのよ。そうなったら副作用で辛くなってしまうから、その前に一度顔を見せてくれると、父さんも喜ぶと思うけどなあ」

 父さんも喜ぶと思うけどなあという、取ってつけたような母の言葉が、私の耳に不快な雑音のように響いた。

「僕が見舞いに行っても、父さんは喜ばないよ」

 先日見舞いに行った時の父の態度を思い浮かべながら言った。

「そんなことないでしょう、親子なんだから。嬉しいに決まっているわよ」

「親子だから、父親と息子だから、お互いの心が通じ合っていると考えるのは、母さんのただの妄想だよ」

 その場の感情に任せてこう言ってしまったことを、私はすぐに後悔をした。でももう後の祭りで取り消しが利かないことも同時に理解していた。

「どうしたの。なんでそんな悲しいことを言うの?」

 今にも泣き出しそうな声で母は言った。

「言い過ぎたよ。分かった、仕事を調整して明後日には見舞いに行くよ」

 それだけ言うと、私は母の返事を待たずに逃げるようにして一方的に電話を切った。

 かなり無理をしたが、なんとか仕事を調整して母に宣言した通り、私は二日後に父の見舞いに行くことが出来た。休みを取る前日は、終電までオフィスに残って仕事をした。

 当日病院に到着すると、すぐに病室に直行をした。

 けれど、父は病室には居なかった。付き添っている母の姿も見当たらない。主が不在のベッドを見た瞬間、私の背中を冷たいものが走った。

「まさか?」

 父の病状が急に悪化したのではないか、こうした不安が一瞬のうちに脳裏を駆け巡った。

「和田さんの息子さんですよね。お父さんなら今検査に行っていますよ」

 隣のベッドの鈴木さんにそう言われ途端に、全身の力が抜けて行くように安堵感が広がった。

「ありがとうございます。そうですか検査ですか。ご挨拶が遅くなりまして済みません。父がいつもお世話になっております」

 私は後先になりながら、鈴木さんにお礼と挨拶をした。

「朝一番から行かれているから、もうすぐ終わって帰って来ると思いますので、少し待っていてあげてください。息子さんが来られるのを昨日から楽しみにされていましたから」

 まるで自分のことのように、嬉しそうに鈴木さんは言った。

「えっ?」と声には出さなかったが、口の形だけでそう訊き直していた。

「明日は、わざわざ仕事を休んで息子が見舞いに来てくれるんだと言って、お父さん、昨日から楽しみにされていましたよ。仲の良い親子で羨ましい限りです」

 鈴木さんの言っていることが全く信じられなかった。父がそんなことなど言う筈がないと心の中で全面否定していた。

 この時にポケットに入れているスマホが振動をした。

 着信を見ると会社の部下からだった。

「電話が入ったので、ちょっと出て来ます」

 鈴木さんにそう告げて、私は会話が出来る休憩スペースまで移動をし、電話に出た。

 電話を終えて病室に帰りかけた時に、ちょうど通りかかった看護師の方に声を掛けられた。

「512号室の和田さんの息子さんですよね」

 胸の名札には「君塚」と書いてあった。

「ええ、そうです。父がお世話になっています」

 君塚さんとは初対面のはずだが、どうして自分のことを知っているのだろうと思った疑問は、次の君塚さんの言葉ですぐに解決した。

「やっぱり親子ですね、お父さんに目元がそっくりです」

 君塚さんはまるで身内の話でもするように嬉しそうにそう言った。

 確かに父親似だと親戚には言われている。歳を重ねて来る毎にお義父さんの面影が濃くなって来ていると家内にも言われている。けれど、君塚さんは、沢山の入院患者を見舞う人たちが訪れている中で、歩いている自分を見ただけで、どうしてすぐに和田の息子だと気づいたのだろうか。父が特別に目立つ存在だとは思えないし、それが不思議だった。

 この疑問を問いかけようとしたら、ちょうどナースステーションの前に来ていた。

「みんな、この方が和田さんの息子さんよ」

 ナースステーションの中で忙しそうに働いている他の看護師に向かって、君塚さんは大きな声で私のことを紹介した。

「わあ、本当だ。目元が和田さんにそっくり」

 廊下に面したカウンダーに身を乗り出して私を見た看護師が、そう言った言葉が合図だったかのように、中に居た看護師が全員カウンターに集まって来た。

「きゃあ、本当、良く似ているわ」

 看護師たちは口々に「似ている」を連発した。

「あの、一つ質問してもいいですか?」

 ずっと聞きたかったことをやっと口にすることが出来た。

「どうぞ」

 君塚さんが、「看護師の立場でお話出来ることなら、なんでも答えますよ」と付け加えた。

「どうして私のことを和田の息子だと、すぐに見抜いたのですか。確か君塚さんとは初対面ですよね」

「ああ、そのことですか。実は今日、和田さんの息子さんが見舞いに来られることを、このフロアの看護師は全員知っていたからですよ」

 私が今日、父の見舞いに来ることを看護師全員が事前に知っていた。そういえば、同じ病室の鈴木さんも当たり前のように、私のことを「息子」だと見抜いていた。今日、私が見舞いに来ることを、社交性のある母が周りの人たちに話していたのだろうと、私は勝手に推測をした。

「母親がみなさんに、今日私が見舞いに来ることを事前に話していたんですか」

 違いないと思いながら訊いた。

「いえ、教えてくださったのは和田さんご本人ですよ」

「えっ、父が、ですか?」

 君塚さんの言うことが信じられなかった。別の誰かと間違えているのではないかとさえ思った。

「ええ、とても嬉しそうに、明日息子が忙しいのに仕事を休んで見舞いに来てくれるんだと、わざわざナースステーションまで話に来てくれたんですよ。今日、来られるのを朝から待ちわびていました」

 さらに信じられない言葉が君塚さんから出て来た。父が、私が来るのを「待ちわびていた」と言うのだ。

「まさか、冗談ですよね」

「いえ本当ですよ。私たちだけじゃなくて、他の患者さんたちにも同じ話をされていたみたいですから」

 確かに同室の鈴木さんには話していたようだが、他の病室の人たちにも息子が見舞いに来ることを話していたということだろうか。

「あのう、もう一つだけ質問をしても良いですか?」

「一つと言わず、いくつでもどうぞ」

「入院中の父は、看護師さんや他の患者さんたちに対して、どのように接しているのでしょうか?コミニケションは上手く取れているのでしょうか?」

 これまで君塚さんが話してくれた父親像が、私がずっと持っていたそれと大きくかけ離れている。まるで、全く別人の父親がいるようにさえ思える。

「和田さん、ご自分の病室の中だけでなくて、このフロア中で人気者なんですよ。和田さんが入院をして来てからこのフロア全体が明るくなったと、私たちスタッフだけでなくて、入院されている患者さんもとても喜んでいるんです」

「・・・・・・」

 君塚さんの話す父の姿が、私の頭の中を滑り落ちて行き、思考の中になかなか浸透して来なかった。おそらく、そんな様子が表情に出ていたのだろう、それを君塚さんが感じ取ってくれてさらに話を続けた。

「和田さんはとにかく底抜けに明るいんですよ。ご自分の検査が無い時には別の病室に出向いて、初対面の患者さんにも積極的に話しかけてくれて、和田さんが居る病室からはいつも笑い声が聞こえて来るんです。まるで病院ではないような楽しそうな笑い声が」

「笑い声ですか……?」

「和田さんが入院して来るまでは、病室から笑い声が聞こえて来ることなんてあり得ないことだったんですよ。息子さんもご存じのように、このフロアに入院をされている患者さんは例外なく、難しい治療を要する方たちです。ですから、必然的に暗く落ち込んでしまう要素をすでに持っています。それに、治療だって強い副作用を伴うものもあって、しんどい思いや辛い思いをされている患者さんも多いです。

 それに最も患者さんを苦しめているのは、『こんな辛い治療を受けているのに、本当に自分の病気は治るのだろうか』という、治る保証を確認出来ない不安です。この不安に押しつぶされそうになる人が殆どなので、患者さん同士が交流することも無かったのです」

 君塚さんの話には私も肯けた。もし自分が同じ状況に置かれたなら、きっと誰とも交流したいとは思わないだろうし、他人と関わる心の余裕がなくなるだろうと思った。

「患者さんの気持ち、理解できるような気がします」

 私は大きく肯き返した。

「でも和田さんが入院して来て、そんな重くて暗い雰囲気を、まるで閉じたままだったカーテンを開くように、このフロア全体が一気に明るくなったんです。和田さん、ご自分の検査が無い時には自分の病室だけに留まらないで、自ら積極的に別の病室に出向いて行って、他愛もない、いやこんな言い方をしては失礼ですね。でも、本当に普通の世間話をしているだけなのですが、それを和田さんがすると、まるで特別に楽しい話をしているように感じられて、つい笑いが込み上げて来るんですよね。たまたま、私も検温の時に病室に居合わせたことがあって、和田さんの話を聞きながら大きな声で笑ってしまいましたから。

 健康な方には取るに足らない、なんでもない日常の些細な世間話が、長く入院をされている患者さんたちには、何にも勝る宝石のように輝く話なのだと、和田さんに教えられました。実際に和田さんが入院をされてから、患者さんたちもそれまでより治療に対して前向きになって、現在受けている治療方法について先生に積極的に質問をされたり、要望を出されたりもするようになっているのですよ」

 自分は今の今まで父の何を見て来て、どんなところを見逃していたのだろう。君塚さんの話を聞きながら、何度もそう思った。

「とにかく和田さんの存在は、この病院に大きな太陽が出現した感じです。素敵で素晴らしいお父さんですね」

 そう言うと、君塚さんはすぐ横の病室に入って行った。

「はあ、どうもありがとうございます」

 実感は全く伴わなかったが、身内を褒められることの嬉しさを久しぶりに感じた。

 大分時間がかかってしまったが、私が病室に戻った時には、すでに検査を終えた父がベッドで横になっていた。母の姿はなかった。

「検査、お疲れさま」

 明らかに疲れて見える父にそう声をかけて、ベッドの横に置いてある丸椅子に腰を掛けた。私の声掛けに、父は無言で肯いただけだった。先ほどの君塚さんの話とのギャップが私の中で強くなって行く。

「今日和田さんが受けた検査、以前私も受けたことがありますけど、すごく大変で、終わった途端に一気に疲労感が全身を襲って来るんですよ。今、お父さんはとても疲れていると思います。私も口もきけないくらいだったから」

 父の代弁をするように、同室の鈴木さんが私にそう説明をしてくれた。

「ありがとうございます。そんな大変な検査を受けて来たということですね」

 私は鈴木さんと目を閉じている父の顔を交互に見ながら言った。

「でもこの検査を受けた結果で、本人に一番適して治療方法を決めることが出来るので、受ける方は大変ですが有効で重要な検査なんですよ」

 鈴木さんはさらに詳細にこの検査について説明をしてくれた。この説明が正しいことは鈴木さんの顔色や溌溂とした話し方を聞けばすぐに判る。このフロアに入院しているということは父と同類の病気だろう。きっと治療が上手く進んでいることを、体調の良さで実感しているからこその、先ほどの話になるのだろうと私は理解した。

「鈴木さんのご説明をお聞きして、安心をしました。ありがとうございます」

「いえ、そんな」

 鈴木さんは照れた笑いを浮かべた。

「検査、お疲れさま」

 私は父に向ってもう一度そう声をかけた。父は相変わらず目を閉じたまま、今度は肯きさえしなかった。

 でも、鈴木さんの話を聞いた後では、この父の無言は、そのまま私の気持ちの中で父への労りに変わった。私もまた無言でベッドの横に座り続けた。

 どれくらいの時間が流れただろうか。父の寝顔を見続けていたら時間の流れさえ忘れてしまっていた。この間に何度かスマホの着信があったが、これは無視することにした。

「まだ居たのか」

 目を覚ました後の第一声がこれだった。まあ、私の中の父のイメージそのままだったが。

「お前も忙しいんだから、もう帰れよ」

 入院した当日と同じことを父は言った。

「まだ、居るよ。当然でしょう、長い時間かけて来ているんだから。僕が帰りたいと思わない限りずっと居るよ」

 この前みたいにすぐに引き上げたりはしないからなと、咄嗟に覚悟を決めた。

「疲れているから、少し眠りたいんだよ」

「眠ったらいいよ、起きるまで待っているから」

「親父の寝顔を見ていても仕方ないだろう」

 父は少しだけ笑顔を見せた。いや、それは私の贔屓目だったかもしれない。

「それがさあ、さっき思ったんだけど、父さんの寝顔をこうしてまじまじと見たのは生まれて初めてだということに気が付いたんだよ。こうした機会でもないと、父親の寝顔を見ることなんて出来ないもんね」

「急に気色の悪いことを言うなよ。そんな風に言われると、眠れなくなるじゃないか」

 私にではなく、二人の会話に聞き耳を立てているだろう鈴木さんに聞かせるように父は言った。

「僕に遠慮なんかしないで眠ったらいいよ。病気を治すための入院をしているのに、無理をして体調を悪くしてしまったら、それこそ本末転倒でしょう」

「じゃあ、遠慮しないで少し寝るよ」

 そう言うと、父は私が座っている側とは反対方向に体勢を変えた。息子に寝顔を見られないように小さな抵抗をしたのだろうと思うと、父の無邪気な部分を垣間見たような気がして少し嬉しかった。

 父は一時間近く眠り続けた。その間、私はベッド脇のテーブルに置いてあった父が読みかけの自分が見舞いに買って来たミステリー小説を読んで過ごした。でも、帰りの新幹線の時間を考えるともうそれほど長居は出来ない。そう思い始めた時に、大きく寝返りを打って父がこちらに身体を向けたと同時に目を覚ました。

「少しは疲れが取れましたか?」

「なんだ、まだ居たのか。帰りが遅くなってしまうぞ、もう帰れよ」

「もう少し大丈夫だから、まだ居るよ」

「……」

「父さんは、子供の頃、大きくなったら何になりたいと思っていたの?」

 これまで生きて来た中で、父にこんなことを聞くのは初めてだった。

「うーん、何になりたかったのかな。具体的には思い出せないけど、子供の頃になりたかった職業に就いている奴なんて、この世中に殆どいないぞ。お前だってそうだろう」

「そうだけど、僕の場合は宇宙飛行士になりたかったから、元々合格率は著しく低かったかもしれないね」

 笑いながらそう言った。

「子供の頃は、望めばどんな者にもなれると思う夢があったよな」

「身の程知らずだということを実感したのはいつ頃だったろう」

「それを知ることが大人になった証だとしたら、大人になることは悲しいことでもあるなあ」

 父はしみじみとした声で言った。

「まあ、人間嫌でも大人になってしまうから」

「大人から老人になる時も、相当な葛藤があるぞ」

「経験者は語るというやつですか」

 笑いながら言うと、父も笑った。

「おい、本当にそろそろ帰った方が良いぞ」

 父に言われるまでもなく、そろそろ暇(いとま)の時間だと考えていた。

「じゃあ、父さんそろそろ帰るとするよ」

「ああ」

「しっかり治療を受けて、元気になってよ」

 これには返事はなかった。

「送らないからな」

「構わないよ」

 そう言って出口に向かって歩き出した。

「今度、いつ来るんだ?」

「えっ?」

 父から想像もしていなかった言葉が飛び出して来た。慌てて振り向く私に父が言った。

「ほら、まだ父さんが子供の頃になりたかった者の話をしていないだろう」

 そうだった。無邪気な年頃の時には訊けなかった話を、大人と老人になった今、思い切りしよう。

「これから何度も来るよ。僕にも話したいことが沢山溜まっているから」

「そうか。待っているぞ」

 父のこの言葉を、私は背中を向けたまま聞いた。振り向いてしまえば流れ落ちる涙を見つけられてしまうからだ。

 病院を出て駅に向うタクシーの中で思った。何度も来よう、そして、この病院を明るくしたと言われている、これまで私が一度も見たことのない、父の太陽のような姿をこの目で見たいと。病室を出る時に私の背中に言った、「待っているぞ」が父の本音なら、こんな嬉しいことはないと、私は心の底から思った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

父の本音 @nkft-21527

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ