画家の爪絵

阿賀沢 周子

第1話

 「カフェ・セレーヌ」は国道5号線に面して、小樽に近い住宅街のはずれにあった。レンガ色の壁と褐色の扉に、散りはじめたユキヤナギの白が浮き立って見えている。西側の二十四軒手稲通りに面した庭には、新芽を吹いたツルバラが、生垣風に誘引されていた。

 裕貴はカフェの前の空いた駐車スペースに紺色のプリウスを入れた。降りる前に腕時計を見る。約束の午後2時には少し早いが、10年来の友人である知保子は、いつも約束の時間にぴたりと合わせてくるので丁度よい。車を降りて店の扉を開けた。ドアベルが柔らかな音を立てる。

 知保子はやはり来ていない。カウンター席に2人の客がいた。オーナーの声に頭を下げて奥の丸いテーブルの席に着いた。そばの両開きの窓は少し開けてあり、網戸が下りていた。四角い硝子の器に一輪草が活けてあり、可憐な花びらが風に揺れている。


 2時丁度にドアベルが鳴った。知保子だった。

「祐貴、変わらないわね。相変わらず早く来ている」

「今来たばかりよ。久し振りね」

 数年振りで会うことになったのは、二人の共通の知人である画家が亡くなったからだ。知保子と祐貴が独身で会社の同僚だったころ、画家の守井正男が経営している絵画教室へ通っていた。

「先生のこと、知らせてもらってよかったわ。びっくりしてしばらく落ち着かなかった」

 そう言って知保子はメニューを手に取る。

「心臓がお悪かったようよ」

 祐貴は守井の死を知った経緯を説明した。

「新聞のお悔やみ欄で知って、すぐに先生のお宅に電話したわ。そしたら弟さんという方が出て、最期の様子を教えてくれたの。入院中に発作を起こして駄目だったんですって。心筋梗塞だったそう」

「三年前の個展が最後になったのね」

 祐貴は頷く。

 教室へ通い始めたころは、二年ごとに個展が開催されていた。三年前の個展のころには二人とも教室通いはしていなかったが、例年のようにPホテルのギャラリーで催されると案内のハガキが来た。その時は祐貴と知保子の予定が合わず、別々に行ったのだ。その後、二人は会う機会がなく、個展の案内も来ていなかった。

 珈琲が運ばれてきた。知保子は一輪草をテーブルの脇へ移す。目の前に異なる器の二杯のコーヒーが置かれた。芳しい香りが気持ちを落ち着かせる。二人はしばらく無言でコーヒーを味わった。

「知保子、先生の絵、飾っている?」

 祐貴は訊ねた。二人とも、守井の個展で作品を購入している。

「ええ、『雨の巴里』と『タオルミーナの薔薇』。ホール階段の一番目立つところに掲げているわ。あと、出産祝いで頂いたスケッチは額に入れて、私の机に飾ってあるわよ。パリから送ってくれた直筆の絵葉書もね」

 祐貴が教室に通うようになって、何回目かの個展で初めて購入した作品『秋の巴里』は、知保子も欲しがった油彩だった。ギャラリー内で二人とも譲らず守井を困らせ、結局は知保子が折れて祐貴のものになった。それまでは何かと譲るのは内気な祐貴のほうだったから、後味の悪さが残った。あとから、知保子は結婚直前で物入りだったというのがわかって納得したものだ。

 絵を習っていた時分、守井はやはり二年ごとにフランスやイタリアへ絵を描きに通っていた。雪の残る春先や、雨の日、真夏が好きで良く描いていたが、秋の絵は珍しかった。二人とも燃えるようなマロニエに魅せられたのだった。


 最期となった個展は守井が二度目の妻を亡くして半年ばかり経った秋にあった。知保子は、初日に守井の好物のチーズケーキを持参した、と話した。

「先生ね、いつもと違っていたの。お洒落な紳士だったのに、ワイシャツがセーターからはみ出していて、直してあげようかと思ったぐらい。まさか今風にシャツ出ししていたわけじゃないわよね。それにね、眼鏡の右のつるに絵の具がいっぱいついていたのよ。奥さんが亡くなって、身の回りのお世話をする人がいなくなったのね」

 知保子はそう言って眼を瞬いた。

 祐貴は最終日の前日に行った。守井は一人で入り口横の黒革のソファに座っていた。

「祐貴、来たか。子ども達は元気かね」

 手塚治虫似の守井の笑顔は、教室で教えて貰っていた頃と変わらなかった。深い緑のセーターの裾から、生成りのシャツがはみ出していた。眼鏡のつるばかりか右の耳たぶにも絵の具がこびりついていた。

「知保子もきたよ。あの子は相変わらず美人だ」

「ワハハ・・・」笑うと奥歯がほとんど無くなっているのが見えた。

 知保子と自分は、結婚したり子育てで忙しくなって、だんだん教室へ通えなくなった。守井に会えるのは個展の時だけになって久しい。それでも会ったときには、何年経ても以前と変わらぬ親しさでいられるのが不思議だった。守井の懐の深さや広さが変わらないからなのだろうか。

 祐貴はいい絵があれば購入したいと会場を見て廻ったが、惹き込まれるような強さ感じる絵はなかった。知保子が購入した『雨のパリ』に似た絵があった。薄紫の服を着た女性が黒い傘をさして雨の中に立ち、そばには大木がある絵だ。先生が好きな構図だ。今回はどの作品のキャプションボードにも、赤い売約済みのマークはついていなかった。


 守井はソファに座って、両手の指を組み親指をくるくる廻していた。以前からの癖だ。

 ひととおり見てから守井の横の椅子に腰かけ、教室での思い出話や子どものことを話した。小一時間ほど過ごして、祐貴は「友達の家へ子どもたちを迎えに行くので」と帰る支度をした。

「元気でな。知保子とアトリエに遊びにおいで」

 ソファから立ち上がらず、手を挙げて祐貴を見送る。くるくると廻すのを止めた親指の爪に、絵の具が着いていた。よく見ると、濃い緑淡い緑、薄紫、黒、少し白が見える。まるで『雨のパリ』。指にも色とりどりに、油絵の具が染みたままだ。


 知保子が空のカップをソーサーに置きながら言った。

「先生は、全うしたのね」

 祐貴は深く頷いた。『あのときの作品の中で、一番心を打たれたのは先生の爪絵でした』祐貴は心の中で呟いた。

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画家の爪絵 阿賀沢 周子 @asoh

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