第63話

 健太が窓際に立って景色に目をやっていた。


 背後で扉の開く音がする。


 オートロックのホテルの部屋に誰が侵入したというんだ?……アメリカの諜報機関のイメージが頭を過った。


 振り返るとアムロがいた。


「あれ、IAEAとの打ち合わせは?」


「君の仕事は終わった」


「エッ?」


 その瞬間、健太の視界から彼女の姿が消えた。


 前傾した彼女は素早く動いて、健太の腹に強烈なパンチを放っていた。


「グヘッ……」


 身体が〝く〟の字に曲がり、呻きと唾が飛んだ。


 どうしてアムロが?……意識が遠のいていく。




 意識が戻ったのは、激しい上下運動で胃がギリギリいたんだからだった。開けた目には床が見えた。床は階段だった。それで大きく上下に揺れているのだ。誰かに背負われているのは間違いなかった。


 吐きそうだ!……でも我慢した。大人がTPOをわきまえず吐きまくっては恥ずかしい。


 冷静になると担いでいる者の足が見えた。緑色、水かきのある足だ。


「アムロ、降ろしてくれ」


 頼んでも、彼女は降ろすどころか階段を駆け下りる足さえ止めることなく、返事もしてくれなかった。ただ、身体を抱える腕に力を込めるので、健太の息苦しさが増した。


「ぼ、僕が何をしたというんだ?」


 非常階段を下りたアムロは裏口へ向かう。


 ホテルのスタッフとすれ違った。外に出ると、沢山の通行人とすれ違った。彼らの半分は人間を肩に担ぐカッパに目を白黒させ、半分は拍手をもって見送った。多くの野次馬が楽しげに写真や動画を撮った。


「助けてくれ!」


 健太は助けを求めたが、「What?」彼らは首を傾げた。


 助けては英語でなんだっけ?……気が動転していて、簡単な単語も思い出せない。そうしている間に目の前にイースト川が視界に映った。


「お前は日本に帰れ」


 アムロが言った。


「何を言うんだ?」


 訊き返すのと同時に彼女がピョンと跳ね、健太は舌を噛んだ。


「テテテ……」


 ――ドボン――


 水しぶきが派手に上がった。


 健太が驚いたのは、水中に潜ったアムロが健太の身体から手を離したことだった。直後、周囲から空気はなくなり、健太は水にのまれた。


 ――ブクブクブク――


 自分がおぼれる音を聞いた。


 最悪な日だ!……薄れる意識の中で叫んだ。そうして再び完全に意識が途絶えた。




 ベッドに寝かされていた健太。意識が戻って初めて見たのはヒカリゴケの天井だった。


「気づいたようだ」


 声はコマツのものだった。


「健太、大丈夫か?」


 アムロに見降ろされ、「ヒッ……」と声が出た。腹を殴られ、イースト川でおぼれさせられ、今度は何をされるのか……。思わず目をつむった。そうしたところで、彼女の暴力から逃れられるはずがないのだけれど……。


「助けてくれ。命ばかりは、ご勘弁を……」


 目を閉じたまま、両手をあわせて命乞いをした。


「ばかなことを言うな」


 アムロの呆れた声がする。


 額に何かが触れた。それがアムロの小さな手だということはすぐに分かった。


「熱はないね。ボクだよ、アムロだ」


 それは分かっている。そのアムロに、僕は殺されかけた。


「昨日はすまなかった」


 ん?……その声はアムロとよく似ていたが、少し違った。目を開けると、アムロの顔が二つあった。


「え?」


「彼女はボクの従妹のムロイだ」


 右側のカッパがしゃべった。アムロだ。


「従妹?」


 二つの顔を見比べる。目と目の距離が少し違っているだろうか? それに嘴の端の青さも若干違う。彼女らの背後にコマツの顔があった。


「ああ、ムロイはタロウの子供だよ」


「僕を川に沈めたのは?」


「私だ。アムロを守りたかったのだ」


 ムロイが言った。青色の濃いカッパだ。


「え?」


 何を言っているのか、分からない。よろよろと上体を起こす。そうして見回すと、そこがナガスクジラ型の船の中だと察した。


「異種族間の結婚は何かと大変だからね。それを阻止しようと思ったんだ」


 ムロイの眼が健太を凝視していた。


「え?」


 健太は、彼女が何を言ったのか理解できなかった。


「結婚してしまったのだろう?」


 ムロイがアムロに目を向けた。


「うん」


 アムロが頬をピンク色に染めた。


「アッ……」


 健太はニューヨークでの4日目の夜のことを思い出した。外皮を脱いだアムロと……。その時、健太は童貞をささげたのだ。それが、ムロイの言う結婚らしい。


「ア……」


 僕は結婚したのか? 両親に断ることもなく、どうしたらいいのだろう? アレ、アレ、アレアレ……。本能のままに行動した結果、カッパ族の法律では結婚してしまったらしい。


 呆然となった。頭の中が真っ白に……。


「健太……」


 アムロの声で頭が動き出す。


「……そ、それで僕の命が狙われた?」


「いや、そうと知っていたら殺さないよ……」と、ムロイ。


 殺すつもりだったのか!


「ムロイ、ボクのことを勝手に決めないでほしいな」


 アムロが抗議した。


「……冗談だよ。アムロの恋人なら泳ぎは達者だろうと思った。少し困らせて別れさせたかっただけだよ」


「同じだよ。SNSに健太が拉致された投稿があいついたので、ボクが捜したんだ。気づかなかったら、健太は死んでいたかもしれないんだよ」


 アムロが強く抗議した。


「それにしてもムロイ、どうしてこんな無茶をしたんだ?」


 普段は穏やかなコマツの言葉は険しいものだった。


「すみません、伯父さま。父親があんなだから……」


 ムロイが項垂れた。


「どういうことだね?」


「父さん、撃たれたでしょ?」


「ああ、アメリカ空軍の……」


 あの女性だ。彼女と僕にどんな関係が?……健太の頭にスカートがピチピチの尻が浮かんだ。

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