第43話

 地球の温暖化は進んでいて、田舎町とはいえ窓を閉め切っていてはエアコンなしに暮らせない。


 ――グオーン――


 コンプレッサーの音には背徳感がまとわりついている。


 ――グオーン……こうして僕は地球を殺そうとしている。


 しかし、だ。季節は夏、エアコンを止めたら、熱中症でやられるだろう。地球が死ぬ前に、僕が、アムロが死ぬだろう。ついでに、いつの間にか居ついたタロウも……。実際、アムロはベッドでぐったりしている。


 タロウは、と言えば、「暑い、暑い」と愚痴りながら、インタビューに応じて手に入れたビールを飲んでいる。


 健太はタロウの話し相手をさせられていた。


「地上は暑いな。海底のカッパ国はここより20度は低いぞ」


 そう言うと、「ガァガァガァ」と笑った。それからカレンダーに視線を向けて、真ん丸な目を細めた。8月は青い海の写真だ。沖縄の海だろう。


「だからエアコンをかけているじゃないですか。嫌なら、沖縄でも北極海にでも行ってください」


「ふん、その時が来たらな」


 彼はビールをあおる。


「その時って、どんな時ですか?」


「その時は、〝その時〟だ」


「禅問答ですね」


「〝その時〟は、来てみなければ分からない。それまでに、人類が〝ゆでガエル〟にならなければいいのだがな」


「〝ゆでガエル〟って何ですか?」


「なんだ、そんなことも知らないのか?」


 彼がホッとため息をこぼした。


「鍋に入れられたカエルが、まだ大丈夫、まだ大丈夫と、水が暖かくなるのに逃げ出さずにいると、いつか跳ねる体力がなくなって鍋から逃げ出せず、煮え死んでしまう。慣れや中途半端な対応を戒める例えだ」


「人間がそんなことをしているというのですか?」


「例えばそれだ」


 タロウはエアコンを指した。


「快適さを求めて電気を使う。だから地球が熱くなる。暑さが不快で、家に、車に、エアコンを装備する。すると外気はさらに熱くなる。不快さが増すから歩いていた人間までが車を使うようになる。みな、自分一人ぐらいはエネルギーを使っても大丈夫だと思う。しかし、ちりも積もれば山となる、というだろう。ん、そのくらいは知っているだろう?」


 顔を覗き込まれ、健太はうなずいた。


「地球には物理的な限界がある。鍋と同じだ。鍋の下の炎のひとつひとつは小さくても、たくさん集まれば大火力。いずれ、地球は沸騰する。いや、すでに沸騰しているのかもしれない。……そこにいるのが〝ゆでガエル〟だ」


「そんなこと……」


「分かっているというのだろう? 確かに多くの人間は理解している。ここでは、なぁ……」


 彼は、ここでは、と健太の額を指した。


「……分かっていても行動しないから〝ゆでガエル〟」


 その時だ。


 ――ピンポン、ピンポン――


 ――トントントン――


「福島さん……」


 外から声がした。


「ほら、もう一匹〝ゆでガエル〟が来たぞ」


 タロウが玄関ドアを顎で指した。


 健太はホッとして立った。普段ならすぐにドアを開けるところ、数日前の奇襲のこともある。慎重だった。


 安普請のアパートにはドアスコープがないので声で確認する。


「どなたですか?」


「大宅だが…‥」


「ああ、大家さん……」


 健太は大家の名字が大宅だということをすっかり忘れていた。


 ドアを開けると背中をしゃんと伸ばした老人が立っている。その姿から、またクレームだということが分かる。


「……何の用事ですか?」


 老人は身を傾け、健太の身体の横から部屋の奥を覗き込んだ。


「こんばんは。一緒に飲みませんか?」


 タロウが明るく呼びかけた。


 大家は驚き、プルプルと首を振ると背筋を伸ばし、健太を見上げた。


「また、同居カッパが増えたね」


「まあー、大家さん、お上がりなさい」


 タロウがやって来て、老人を部屋に引きずり込んだ。


「何をする。乱暴をすると許さないよ」


 大家の抵抗などカッパ族の力の前には蟷螂とうろうおの


 タロウは大家の手にビール缶を持たせると、「仲良くやりましょう」と自分の缶を当てて乾杯した。


「困るんですよ、酒は。……婆さんがうるさい……」


 大家はそういいながら、ビールを飲んだ。どうやら伴侶に飲酒を止められているらしい。


「見事! さすがだ」


 何がさすがか分からないけれど、タロウがたいそうに誉めそやした。


「あんたねぇ、……契約違反ですよ……」


 大家が、またビールをあおる。


「見事、見事!……近頃の若い者は気合が足りない。そう思いませんか?」


 タロウは拍手した。


「それはそうだが、だからといって、契約を破ることを推奨はできませんな。この部屋は、一人用です」


 カッパの甲より、いや、亀の甲より年の功。大家もタロウに負けていなかった。


「そうそう。一人と一カッパで住んでいる」


 タロウは大家の手から空いた缶を取ると、新しいものを握らせた。


「いや、一人と二カッパだ」


 大家はタロウを指さし、次にベッドで横になっているアムロを指さした。


「なるほど。その通り!……それで、ここは何人用の部屋でしたかな?」


 タロウが改めて尋ねた。


「一人用じゃ」


「そうそう。一人用だ。で、福島君。ここに住んでいるのは何人だ?」


「僕一人です」


「住んでいるのは、一人のようです」


 タロウがビールをあおる大家に向かって微笑んだ。


「そう。一人と二カッパだ」


 大家は右手に指を一本立て、左手に二本立てた。


「そうそう。住んでいるのは一人ということだ」


「そう。住んでいるのは一人?」


 大家が首をかしげた。


「契約書にカッパに関する約定はない」


 タロウが、ニッと笑う。


「確かに、ない」


 大家が笑った。


「そもそも、人間社会にカッパの存在は想定外。空気のようなものだ」


「空気ねぇ。……私、騙されていませんか?」


「いいや、騙してなどいない。大家さんが信じてきたルールの上では、契約は立派に履行されている。私は空気だ」


「空気ねぇ。……原発といい、最近は想定外のことばかりだ」


 大家は、独り言を言いながら席を立った。


「また飲みましょうや」


 彼の背中に、タロウが声をかけた。


「今度は騙されませんよ」


 大家はそう言うと、タロウの方を振り返りながら玄関ドアを開けた。


「大宅老人は、子供や孫が避難してしまったので寂しいのですよ」


 ドアが閉まるのを待って、アムロが言った。


「カッパの生涯に変化はつきものだ。人間だって同じだろう。それを誰かに癒してもらおうなどと、甘えてはいけないのだ。……まぁ、私の説教など、アムロには不要だろうが……」


 そう言った太郎は、健太に目を向けた。


「エッ、僕?」


 タロウの言わんとしていることが、健太には理解できなかった。


 彼は再びカレンダーに目をやった。


「今でも方々で紛争が続いている。6日は広島に、9日は長崎に原爆が落とされた日だ。その変化を人類はどう受け止めたのか……。戦争ほど地球を傷める行為はない」


 彼がグビッとビールをあおった。

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