第4話
隣で釣竿が揺れている。
魚が掛かっているのだろうか?……福島健太は、どうしても気になって竿を手に取った。皮のグリップの感触が気持ちいい。
引き上げてみると魚は掛かっていなかった。あれほど魚の掛っていた毛針が、糸の先で申し訳なさそうに揺れている。そのさまは、釣竿が放置されていることと同様に不思議なことだった。
もしかしたら、小松さんは淵に落ちたのではないか?……恐る恐る身を乗り出して水底を覗いてみる。少し濁った深い水底で、水草が揺れていた。
ホッとして、竿をもとに戻す。
所有者が不在の物の横に座るのは、少し居心地が悪い。その物を取ったり壊したりする意図などなく、誰かが自分を見ているというわけでなくても……。モノには持ち主の魂がこもっていて、空間を支配する力を持っているのかもしれない。だから、そこにいるだけで他人を犯しているような罪悪感に襲われるのだろう。
その場から離れようと思ったが、立つことができなかった。まるで自分が釣り上げられたような気分だった。
爽やかな風が吹く。それにあおられて釣り糸が弓なりになった。
いや、僕が臆病なだけだ!……そう自分を叱りつけ、
その時、視界の隅に小さな白い影が動くのが見えた。
影は川面にあり、光の反射で形を変えながら少しずつ近づいてくる。やがてそれが白い円形の何かだと分かった。川の流れに進路を変えられることもなく、確固とした意志を持った生物のように、健太の足元に迫った。
それは一瞬止まったかと思うと、早くかつ静かに水中から跳ね上がった。まるで巨大なトノサマガエルが跳ねたようだった。
――ゲッ……――
言葉にならない息を漏らして尻もちをついた。
彼の目の前に現れたそれは、身長が1メートル30センチほどの緑色の皮膚の生き物で、大きな黒い眼玉を持ち、口は水鳥の
決して大きくないそれが、尻もちをついた健太には巨大に見えた。
カッパが、ペコリとお辞儀をする。
どうやら敵意はないらしい。
「あ、……どうも……」
健太はあいさつのつもりで頭を下げた。
するとカッパは素早く、彼の頭を小脇に抱え込んだ。プロレスのヘッドロックという技だ。
「卑怯者!」
健太は叫んだ。
しかし、カッパが頭を開放することはなかった。
「ヤ、ヤメテ……」
カッパが頭を締め上げる力は、伝説通りの強さだった。彼の言葉は痛みのために掻き消えた。
――ドボン――
対抗するすべもなく、カッパに頭を抱えられたまま、流れの中に引きずり込まれた。
ク、グルジィ!……頭の痛みは胸の息苦しさにとって代わり、景色は白と黄色と赤の電飾にチカチカ輝いた。そして、それは白と黒の点滅に代わり、やがて真っ黒になる。もちろんそれは、目が見ているものではなく、感じているものだ。そうした苦しみの中では、カッパにあいさつを返した自分の油断をなじったり、後悔したりする余裕もなかった。
そうして健太は意識を失った。
ふわふわと揺れるような感覚があって健太の意識が戻る。まるでうつろな夢からさめたようだった。
「エッ?」
目の前にカッパの白い皿があり、背負われているのだと理解した。腕はカッパの肩の前にだらりと下がり、尻にはカッパの力強い腕の存在を感じた。
カッパは歩くように泳いでいた。
「気がついたか?」
カッパがしゃべった。
周囲を見回すと山も木々も見えた。空もぼんやりとしているけれど、青く見えた。風は無く、葉物野菜のような青臭さと湿度の高い空気が漂っている。その様子は雨上がりの山奥の谷間といった感じだ。
しかし、ここがどこなのか、皆目見当がつかない。場所がどこかわからないうえに相手の力が勝っている以上、逃げるのは無理に違いなかった。
「ここは、どこだ?」
分からないことは訊いてみるものだ。
カッパは返事をしなかった。
「いや、どこですか?」
下手に訊きなおした。
「アハハハハ……」カッパが笑った。「……気を使わないでくれ。君に危害を与えるつもりはない」
「すでに頭を割らせそうになり、窒息しそうになったけど……」
「そうか、それはスマナイ。人間に触れたのは初めてなので、加減が分からなかった」
その詫びに誠意は感じられなかったが、危害を与えられないことを確認できたことは収穫だった。
健太を背負ったカッパは、田舎の景色の中を流れるように進んでいた。
「ここはカッパ族の国だよ。上に見えるのが
健太は見上げた。
空と思っていたものが川だと言うのか?……ふざけている、と思った。
「冗談で言っているのではないよ。ここは水で満たされているから、私から離れたらおぼれてしまう。念のために警告しておくけどね」
「警告、ありがとう」
健太は、水中で生きている自分を理解できなかった。
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