第3話

 季節は初夏を迎えていた。


 健太は自分が除染作業に加わった河原を散歩していた。一昨日に続き2度目の散歩だ。相変わらず一日おきの除染作業員の仕事を続けていた。


 ――ふわぁ――


 日差しの暖かさにあくびもこぼれる。


「良い天気だ」


 気候は穏やかで、髪をなでるそよ風も心地よい。しかし、気持ちの内は違った。健太のアルバイト暮らしに、両親が不安を隠さなくなっていた。いつ就職するのだと頻繁に電話をよこす。散歩に出たのは、そんな電話があって苛立っていたからでもあった。


ったく!……胸の内でぼやき、チェッと舌を鳴らす。言われるまでもない。不安なのは健太も同じだった。


 学生時代も気分が滅入ると川べりを散歩したものだ。大河がたゆたう姿は、小さな不安や不平不満など忘れさせてくれる。そこにはコイやフナ、時にはアユを釣ろうと糸を垂らす釣り人がいて、人間関係を気にせず語り合うこともできる。絶好の気晴らしの場所だ。


 原子力発電所の事故以来、川面に糸を垂らす人の姿はなくなった。当然だ。そこは放射線量が高く、立ち入りを禁じられていた。雨水と共に周囲から砂や泥が流れ込む川は、事故で降り注いだ放射性物質の集まる危険な場所となったのだ。立ち入りが許されたのは除染が済んだ数日前のことだった。


 ふと見れば、放置された釣竿があった。グリップに皮を巻いたそれには見覚えがあった。以前、何度か言葉を交わした小松土門こまつどもんの物だ。その釣竿は、今でもその人が握っているように川面に糸を垂れている。いつからそれが置き去りにされているのか、見当もつかない。無人の釣り竿がヒソとたたずむ景色は、まるで原発事故の前のあの日を切り取ったようだった。


 僕以外の誰も気づいていないのだろうか? それとも、気づいたうえで放置しているのだろうか?……いぶかりながら釣竿を手に取ってみた。


 みがいた竹に革のグリップをまいたそれは、どうやら自作のものらしくシンプルな作りでとても軽かった。


 いつから置かれているのだろう? 昨日は風が強かった。一昨日からあったのなら吹き飛ばされたに違いない。きっと、今日だ。……健太は周囲を見回し、小松を探した。が、人影はない。


 トイレにでも行ったのか、あるいは弁当を買いに行ったのか?……釣り竿が誰かに取られないように、その横に腰かけた。




「釣れますか?」


 一昨日、健太は釣り竿の持ち主に声をかけた。釣り人に対する決まり文句のようなあいさつだ。


 小奇麗な緑のシャツとモスグリーンのズボン姿で大きな石に腰かける釣り人は五十歳前後に見えた。おそらく家族もいるだろう。そんな彼が糸を垂らして時間が経つのを待っているのは、仕事がないからに違いない。


 健太は自分を見るようで、少し安堵し、少し絶望した。


「入れ食いですわ」


 その中年男性は答えを示すように、しなる竿を引き上げて見せた。糸の先では大きなコイが暴れている。


 彼はコイの口から釣り針を外すと、川面に向かって思いっきり遠くへ放り投げた。

コイは空を泳ぎ、川面に高い水しぶきを上げた。


 彼が糸を川面にたらすと、2分と経たずに糸に付いたウキが沈んだ。


「これほど掛かると面白さも半減です」


 彼はまたコイを釣り上げ、針を外すと川面にほうり投げた。釣れるのはコイだけではなく、大きなフナの時もあれば、大ナマズの時もあった。


「何故、これほど釣れるか分かりますか?」


 中年男性が釣り上げた黒いナマズをぶらぶらさせながら訊いた。


「さあ、わかりませんね」


「川が死んでいるからですよ」


「魚がこんなにいるのに?」


「魚たちは、新しい世界を求めているのですよ。だから釣り針に食いつく」


「哲学ですね」


「哲学などであるものか。生物の欲求だよ。君だって、こんな世の中からは逃げ出してしまいたいだろう?」


 彼の問いに答えることができなかった。逃げ出したいが、自分が弱いと認めたくもない。


 釣り人はナマズを針から外すと流れに放り込んだ。


「新しい世界を求めている魚たちを、また、元の川に戻してしまうのですね」


「結局のところ、人間であれ魚であれ、自分がいるべきところは決まっているのだよ」


 彼は応えると、また釣り針を川面に沈めた。


 健太は尊敬の念を覚えて彼に名前を尋ねた。


「小松、小松土門です。あなたは?」


「福島健太です」


「学生さんかな?」


「いいえ……」声がノドに詰まった。


 ゴクンと喉が鳴る。「……事故で、就職先がつぶれました。今は除染作業で食いつないでいます」


「そうでしたか。私の会社も倒産しました」


「まさかと思いますが、×××社?」


「ええ、×××社です。御存じですか?」


 彼が目を細めた。


 ×××社は健太が就職するはずの会社だった。


「はい、原発事故なんて、運が悪かったですね」


「そこで出た汚染物質を君は集めているわけだ。運というのでもなさそうだ。……そして私たちは居るべきところにいる」


 彼はどこまでも哲学者だった。

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