9.醜悪の権化
降り止まぬ雨が大地を叩きつけ、ぬかるんだ地面が足元を滑らせる。そんな中、司は決然と一歩を踏み出し、走り出した――
「ハッ……!遅ぇんだよ!」
阿崎は余裕の笑みを浮かべ、悠然と剣を構えた。確かに、司の動きは最初は鈍かった。しかし――
「……!」
次の瞬間、阿崎の表情が驚愕に変わった。司の速度が、みるみるうちに上がってきたのだ。
分かる。沸々と湧き上がる力の源が全身に力を与えていくのが分かる。
ペンダントが光り、体の傷が治ってから、この宝石を通じて未知の力が体に満ちていくのを感じていた。
何も無策で挑むわけじゃない。あいつの力を封じたとて、俺ではあの男には勝てない。
だから俺は、決めた。
人の力ではない、この身体中に溢れるエネルギーを、今だけでも俺のために使うことを。
俺が怒り、恨み続けてきた存在の力を、俺自身が利用することを。
その結果、たとえ、人間を辞めることになったとしても。必ず、目の前の男だけは必ず殺す……!
内に湧き上がる力を全身に巡らせ、司は再び地を蹴った。
「こ、こいつ、急に速くなりやがった……!やっとやる気になったみてぇだなぁ!」
阿崎は構えを直し、迎え撃つ準備を整えながらも、その目に一瞬の焦りを浮かべた。
司は足を力強く回転させ、地を蹴るたび加速していく。ついには、人間には出せないほどの速さで、阿崎へと迫った。
「どれだけ速くなったところで、素手のお前の攻撃が、俺に届くとでも思ってんのかよ!」
阿崎は高笑いを浮かべ、大剣を構える。リーチの長い大剣を持つ阿崎に対し、素手の司では間合いに入ることすら至難の業だ。阿崎は迫り来る司を真っ二つにするつもりで、身の丈ほどもある大剣を勢いよく薙ぎ払った。
しかし、剣が空を裂く音だけが響いた。阿崎は振り終えた剣を握ったまま、目の前から司が消えていることに気づく
「――っな!?」
目の端で消えた司の姿を探る。次の瞬間、上方からの気配に気づき、顔を上げた。司は阿崎の頭上を捉えていた。司は阿崎が剣を振り抜いた瞬間に高く跳び上がっていたのだ。
空中にいる司の足が、弧を描いて阿崎の顔面へ向かって急接近する。人間の枠を超えた蹴りが、阿崎の横顔を捉えた。爆発するような衝撃が、阿崎の顔面と司の足を通して響き渡る。
しかし――その一撃を受けた阿崎は、表情一つ変えずに踏みとどまっていた。阿崎の顔は、司の蹴りをまるで石のごとく受け止めていたのだ。
「――痛えじゃねぇか」
「……何っ!?」
驚愕する司が気づくと、自分の足首が阿崎にがっちりと掴まれていた。阿崎は片手で大剣を捨て、空いた両手で司の足を完全に制した。
阿崎はそのまま豪快に跳躍し、無力化した司を手にしたまま宙に浮かび上がる。そして、渾身の力で司を振り上げ、地面へ向けて勢いよく叩きつけた。
轟音とともに地面が粉々に砕け、衝撃波が周囲に放たれる。司は地面に激突した瞬間、呼吸が止まり、血が口元を染めた。視界が白く霞み、意識が遠のきそうになる。
しかし阿崎は容赦しなかった。傷ついた司を見下ろすこともなく、その体を豪速球のごとく横の建物へと投げつける。司の体が壁に激突し、瓦礫が舞い散る中で、壁が砕けて奥まで叩き込まれた。
常人なら即死していてもおかしくないほどの怒涛の攻撃。それでも、全身に張り巡らせた力がかろうじて支えとなり、司は意識の糸をつなぎ留めていた。瓦礫の山に背中を預け、崩れ込むように倒れ込んだ司は、荒く咳き込みながら、痛みで歪む表情を浮かべる。
ば、馬鹿力め……。俺の蹴りが、まるで通じてねぇじゃねぇか……
己を神と称する阿崎。力を使いこなしていない司とはまるで格が違う。その圧倒的な力に、司は無力感を噛み締めざるを得なかった。
――はっ!
ふと気づけば、阿崎が剣を振り上げ、すでに司の眼前に迫っていた。咄嗟に司は横の壁へと体当たりし、破壊された壁の隙間から外へ転がり出る。
「っぶねぇ……!」
舞い上がる瓦礫と土煙の中、黒い影がゆらゆらと姿を現す。
その顔はいつもの笑顔を全く崩しておらず、嘲笑うように、膝をついた司を見下ろしていた。
「さっきのは効いたぜぇ」
嘘だ。俺の今出せる渾身の蹴りをくらって尚、傷一つついてないってのに。
「おいおい。どうした?しようぜ、続きをよぉお……!」
俺は力をまだ上手く扱えていない。この力に頼るのは癪だが、今はこれしかないのに……!
挑発するように笑う阿崎を睨みつけ、司はふらつきながらも再び立ち上がった。体の奥底に伝わるエネルギーを込め、走り出す。しかし、放った足技は阿崎の片手にあっさりと遮られる。さらに幾度も攻撃を試みるが、そのすべてが軽々と防がれてしまった。
「あんなに粋がっておいて、これかよ……本当に期待して損したぜ……」
がっかりした表情を浮かべる阿崎が、司の腕をがっしりと掴む。そして、不敵に笑った次の瞬間、阿崎の膝が司の腹部に炸裂する。渾身の一撃が内臓を揺らし、苦痛で司は身を丸めた。
腹を押さえて悶絶する司に、さらに阿崎は強烈な回し蹴りを叩き込んだ。司の体が宙に浮き、無惨にも路上の真ん中へと叩きつけられた。
脳が揺れる。息ができない。苦しい。吐きそうだ。
苦悶の表情を浮かべながら、両手で体を包むようにして虚空を見つめる司の体は、震えていた。
動かない司に、阿崎は冷酷な笑みを浮かべながら剣を拾い上げ、ゆっくりと近づいてくる。
そして、足元に転がる司を見下ろし、阿崎はその太い足を振り上げ、容赦なく胴体に叩き落とした。
まるで車が上から落ちてきたかのような衝撃が司の肺を直撃する。衝撃により、息が詰まり、何度も咳き込んだ。苦痛が全身を駆け巡り、思考が鈍くなり、顔は苦悶に歪む。司はもはや、自分がどれほどのダメージを受けているのかを理解することさえできなかった。
そんな司を見て、阿崎は笑いながら何度も、何度も、転がる司の腹部を蹴り上げた。
阿崎の足が腹部に吸い込まれるたびに、全身の感覚が遠のくように感じ、口からドロリと血を吐き出して地面にまき散らした。
酷く寒い。鼻と口の中には鉄の味が広がり、命の危険を痛烈に訴えてくる。
全身を這うような不快感が正常な判断と思考を狂わせ、息苦しさが増して脳に酸素が行き届かない感覚が押し寄せる。
自然と涙が滲んだ司の顔はあまりにも歪で、生気が感じられない。
まるで全身の臓器全てを手で握られ続けているような感覚。常人なら簡単に死んでしまう衝撃だが、この体は死ぬことも許してくれない。
どれだけこの苦痛が続いただろうか。きっと短い時間だっただろう。しかし、あまりにも永い時間のように感じられた。蹴られ続けても意識はギリギリの状態で繋がれており、苦痛から解放されることはない。司の顔面は、雫と呼ぶには流れすぎた涙と、口腔から溢れた鮮血と呼ぶには色の落ちた赤色でぐちゃぐちゃになっていた。
そして――
「おっと、やりすぎちまったなぁ。まーだ死なせねえぞ?お前にはもっと苦痛が必要なんだからなぁ。じゃなきゃ、俺の気が済まねえ……!生まれたことを後悔するほどの苦悶を感じさせてやる。俺、言ったよなぁ?代償を払ってもらうって」
司は体を痙攣させてはいるが、既に阿崎の言葉に反応できるほど、正気ではなかった。
「つっても、同じことばっかじゃつまらねぇよなぁ……」
阿崎は飽きたように腕を組み、何か別の方法で司を苦しめることを考え始めた。しばらく頭を捻った後、彼は突然ニヤリと笑った。
「――あ。いいことを考えた……!ガハハッ!喜べクソガキ。お前がもっと苦しむ方法を考えたぜ……?」
司の虚ろな目が阿崎を捉える。その視線を感じ、阿崎は不敵に微笑む。
「お前と同じクラスに居たあの女のガキ。お前のこと随分と心配そうにしてたなぁ……?」
今まで以上に気持ちの悪い笑みを浮かべる阿崎に、司は眼で必死に睨んで訴えかけた。
「――お。当たり……か。」
阿崎は地面に剣を突き立て、倒れ伏した司の髪を掴んで無理やり顔を上げさせ、嘲りの表情で顔を近づけた。
「俺がそのガキを、お前の目の前で嬲り殺したら、お前はどんな声で鳴いてくれるんだろうなぁ……?」
「――お――まえ……!!」
かすれた声で、司は敵意をむき出しにした。阿崎の醜悪な発言に対し、侮蔑と怒りを精一杯顔に表すが、それがかえって阿崎の嗜虐心を煽る結果となった。
「あぁ……!こいつはいい……!決めた。あのガキ連れてきて、そのガキいじめて殺すところをお前に見せつけることにしたぜ……!お前がわんわん鳴く姿が目に浮かぶぜぇ……!ガッハッハッハ!!!やっぱ、鳥より人間鳴かせる方が楽しい、よなぁ……!」
「ぅぐあああああ!!!!」
阿崎は、司を苦しめるためだけに芹奈を手にかけようと、残忍冷酷な考えを示した。度を超えた凶悪性を披露する阿崎に、司は体中の痛みを振り払うように叫んだが、阿崎はその苦しみを楽しむかのように、薄笑いを浮かべて見下ろしている。
「そんじゃ、ガキ連れてくるから、お前はそこで寝てな」
掴んだままの髪を地面に叩きつけるようにして離すと、司の顔は、自身の血と雨が滲む地面に叩きつけられた。司は抵抗する姿も見せずに、血の雨が混じった水たまりに顔をうずめたまま動かない。
阿崎は剣を手にして立ち上がり、歩き出す。その顔はどこか勝ち誇ったようでありながらも、不機嫌そうであった。
「ったく、早く済ませて、逃げたあのクソガキ追わねえと、あのガキに怒られっかもなぁ……くそっ。あぁ、イライラするぜ……ってか、急ごうにも使えねえんだったな……チッ!何がどうなってやがんだ……!」
雨の降る中、苛立ちを隠せない阿崎は、再び足早に歩き出した。しかし、次の瞬間――
「――待てよ」
「……!」
阿崎が振り向くと、そこには先ほどまで動けなかったはずの司が、ボロボロの体を引きずりながら、こちらを睨みつけて立っていた――
神に与する者たち 四之宮依縁 @iyori_2525
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