虹の渚
若菜紫
第1話 虹の渚
『虹の渚』
私の渚に船が漂着する
碇を下ろし
しばし
その場所に留まる様子を見せる
私の海に潮が満ちる
その海は
自身の青い照り返しを背に受け
波となって畝る
波は
揺らめき
弾け
そして
散りながら煌めく
彼方に架かっているであろう
虹と相呼び合うかのように
『海と女と真珠』
真珠しか
身につけない女がいる
と聞いた
彼女は日焼けを嫌うだろう
だから海へは行かぬだろう
真珠は海が恋しかろう
真珠をなかなか
身につけられない女がいる
とことわっておこう
彼女は海を大好きで
たびたび海を訪れる
真珠は潮に弱いので
女の真珠は箱の中
海を慕って待っている
土産話を聞かそうと
女は今日も海へ行く
『今はもうない四つ辻の印よりも』
「重いから気をつけて」
「ありがとう」
人目を憚り
いつもの四つ辻ではない
駅前での別れ
坂の下の四つ辻にあった自動販売機は
つい最近撤去された
彼はあの頃
せめて少しでも逢おう
白熊のロゴマークがついた
ペットボトル入りの炭酸水を一緒に飲もう
と私に言った
その炭酸水が売られていた
あの自動販売機
今はもうない
四つ辻の印よりも
愛しむものがここにある
「待って。俺のマフラー巻いたままだ」
「あ、ごめん」
横断歩道を渡りきった私に
彼が追いつき
スーパーの前で再び別れる
四つ辻の自動販売機では
彼のお気に入りである
ボトル入りコーヒーが売られていた
私に庭の花を持ってきてくれる時
彼が花束を抱え
本を開きながら
行きつ戻りつ
飲んでいたであろう
ボトル入りコーヒー
今はもうない
四つ辻の印よりも
愛しむものがここにある
「送っていく。重そうだ」
スーパーを過ぎ
坂を上り始めた私を
彼が呼び止めて
私は抱きつきこそしないけれど
今はもう印のない
いつもの四つ辻まで
愛しむものを掌に感じながら
『虹の雫降り注ぐ時』
不在と存在のあわいに
虹の雫が降り注ぐ
雨が降り出したね
いつやむのだろう
嵐を抜ける時など訪れるはずもないのさ
馬鹿な夢を見るのはお止め
と
彼方に響く声は
古い書物の一行と重なり
いつしか私自身の呟きとなって
慣れ親しんだ景色をかき曇らせ
窓を叩きつける
雨が降り出したね
よくご覧よ
降っているのは光の粒なのさ
と
梢から響く声が
あなたの声と重なり
近づき
瞼の裏に光が満ちる
熱が唇に伝わり
唇はやがて輝きの中心となる
この日を想い起こすたびごと
雨は光の粒となり
私自身の声と重なり
木洩れ陽のように迸る
不在と存在のあわいに
虹の雫が降り注ぐ
あの場所に
『瞬き』
コツ
コツ
コツ
外階段を途切れ
途切れに
ようやく一段
また一段
ぽつり
ぽつり
イルミネーションが
まだ明るい光の元
光り始める
私を気遣ってくれて
私の子どもを気遣ってくれて
私も何とかして都合をつけ
逢いに行っている人
そんな人への心遣いを
一瞬忘れさせるほどの
小さく愛しい存在は私の隣で
ピピ
ピピピピ
シャッシャ
アイパッドの画面には
一本
また一本
色を塗って
色を変えて
絵が仕上がりに
少しずつ近づき
列も少しだけ進む
ぽつり
ぽつり
イルミネーションが
まだ明るい光の元
灯り始める瞬間を見る
手と手が触れた瞬間や
唇と唇が触れた瞬間を
私は感知していた
のだと
思い出す
手と手が触れた瞬間や
唇と唇が触れた瞬間を
私は感知していたのだと
あの人に伝えるために
ぽつり
ぽつり
イルミネーションが
まだ明るい光の元
灯り始める瞬間を
あの人と眺めたい
と思う
『花の旅ー三ツ池公園から美女桜ー』
墨染に咲いていた
源氏山の桜
あやめ御前の
悲しい恋が込められた
美女桜の伝説
「新入生歓迎行事で、お花見に行きたいです」
「実は、この間行っちゃったんですよ」
「どうして誘ってくれなかったんですか」
手を繋いで
一つ目の池を巡りながら思い出す
二十年前の会話
墨染に咲いていた
源氏山の桜
花見酒を飲みそこねて
いたづらに日々を重ねた
その年の花見
授業のノートを取るように
本のページをめくるように
花びらが降るように
特は流れた
街頭に並ぶ桜色のシャンパン
私の手は本やノートを持たずに
私は一人でベビーカーを押す
手を繋いで
二つ目の池を巡りながら思い出す
十年前の日々
「忙しかったけれど、ようやく一緒に花見酒を飲めたのね」
「大学時代に花見をしなかったの?」
「あの時誘ってくれなかったから。十年以上も遅れたの」
語り合いながら
三つ目の池を巡り土手に腰を下ろし
咲き誇る桜を望む
そんな会話を思い出しながら
手を繋いで登る源氏山
見上げれば
花見酒に酔い
恋に染まり
艶やかに咲く
美女桜
『慎ましい姿を』
私に贈ろうと
恋人が庭に植えた薔薇
私の名前をつけた薔薇
鮮やかな赤色をした
やがて大輪に咲くはずの
蕾をつけた薔薇
「プリンセスRが咲きました」
恋人からのメールと
咲き始めた薔薇の写真
ふと想い起こす
三年前の春の午後
桜の花に覆われた公園で
初めてのキスを交わし
人目を忍んで
できる限り激しく
お互いを求め合った
「プリンセスRがまた咲きました」
送られてきた写真には
それなりに開いた薔薇の姿
ふと想い起こす
三年前の夏の日々
大雨に閉じ込められた部屋で
遊園地を見下ろし
また晴れた暑い日
潮の香りが残る肌を
恐る恐る重ねた
「プリンセスRは花開くにつれて花弁過多になります。私は咲き始めとそれなりに咲いた姿が好きです」
送られてきた写真には
満開の薔薇
花びらが渦巻きのように
幾重にも重なり
一枚一枚の形すらよく見えない
ああ
咲き始めと
それなりに咲いた姿のうちに摘み取り
私の元へと届けてほしい
あなたに摘み取られた
春の午後と
夏の日々の
私のように
慎ましい姿を
『高原の風を』
高原の風を持ち帰ってしまった
その晩
嵐が吹き荒れた
身体の奥で
花が開いていくのは
夢だったのだろうか
一晩中
私の感覚を澄み渡らせていた風の音
青く広がる空に分け入り
戻ることも
進むこともできず立ち尽くすかのように
微睡みながらも
腕枕をされている首筋の感覚に
呼び戻されながらも
風だけが視える
高原の風を持ち帰ってしまった
私に
嵐が吹き荒れた
身体の奥で
花が開いていくのは
夢ではなかった
『初代プリンセスRが復活しました」
初代プリンセスRが復活しました
Rのスマートフォンに送られてきた写真には
薄紅色をした満開の薔薇
三年ほど前
恋の始まりに贈られた大切な花
思わず微笑みを
誰かに見咎められなかっただろうか
緑道へと足を早める
道端に咲くアザミの赤紫
高原にある公園の谷へと
想いは天翔る
幼かった子の姿を必死に追いつつも
別荘に活けてきた真紅の薔薇を想う
私が変身した薔薇
彼が変身した薔薇
イヤホンからは
ドニゼッチの「久遠の愛と誠」が流れている
自室の本棚から
カタログや文庫本を取り出す
順番を入れ替えて本棚に戻す
オペラのパンフレット
恋の始まりに
手を握られることも
握り返すことすらできないまま
共に観ていた舞台
咲いていた薔薇を想う
そう
初代プリンセスRが復活しました
『
「生きる時間が黄金のように光る」
詩が書かれたパネルの前に佇んだまま
私は恋人に手を預けた
「淋しくも何ともない」
彼が何気なく
数年前口にした一言を
今想い起こしながら
まぶたの裏に
草原が広がった
見納めになるとは
まさか知る由もなく
最後に眺めた夕陽が
二度と訪れることもない想い出の庭に
再び落ちた
別荘の裏庭に
ついに置いてきてしまった
足の悪い子鹿を想った
想像の中の黄昏が
掌に輝いた
『紫陽花と蜜蜂』
紫陽花は
蜜蜂の針によって
蜜の在処を識るのだろう
『キスの嘆き』
彼奴め!
僕を残して行きやがった
何処にって?
ああ
珈琲缶にさ
恋人を
彼女の住む町まで
今日も送って行く途中
鈍行に乗り換えようと下車した
プラットフォームの自動販売機で
彼奴が買った
スクリュー式の缶にさ
彼女に渡して
彼女が一口飲んで
彼奴が一口飲んで
彼女の荷物に入れたんだ
こんなんじゃ
いつ
彼女の唇に辿り着けるか
とても知れたもんじゃない
「いただいたお花にキスをします」
数年前にしおらしく言った彼女も
「お花にキスをしておきました。二人のキスが、お花の上で出逢うことになります」
彼奴の言葉に
初々しく頬を染めていた彼女も
今日は
生意気盛りの息子を叱りつけて
さっさと夕飯の買い物に
ほら
見ろ!
ドアがばちんと閉まる
慌ただしく鍵をかけて
行っちまった
僕は
テーブルの上で
珈琲缶の飲み口に
置き去りだ
もう
お仕舞いだ
明日には
古くなった珈琲と一緒に
捨てられちまうのがオチさ
キスの命ぞ儚かりけり
ああ
所詮
実体は彼奴の唇さ
来週明けには恋人と
駅前で落ち合って
旅先の宿で
彼女にキスを
新たに生まれる
僕の同族が
彼女の唇で
彼女の胸で
こん畜生!
僕を差し置いて
あっ
扉が開く
彼女が帰ってきた
自分の席に座って
珈琲缶を
僕の乗っている珈琲缶を
持ち上げて
唇をつけた
『七月八日の天の川』
七月七日に
天の川を渡ることができなかった
恋人と
手を取り合って山道を登る
登りつめた時
伝えたいことが胸をよぎる
その時
愛を交わす床を思い浮かべ
言いそびれてしまう
恋人と
ひとつになって
上りつめた時
伝えたいことを忘れてしまっていた
その時
身体の上に溢れる
天の川の奔流
七月八日に
天の川で溺れてしまった
『秘め事』
約束の十五分前に
約束の四つ辻を過ぎ
緑道へと誘われてゆく
あの人に逢ってお行き
そう呼びかける
あの日と同じ薫りのする
白南風に惹かれて
十分足らずの逢引きをする
瞼の裏に
まるで蜃気楼のごとく浮き上がる
キャンパスの残像
また後で
とも
十年後ぐらいに
とも言わないうちに
夏の日の緑道と
時計の文字盤が
再び網膜に映る
そして
約束の時間に
約束の四つ辻に向かい
あの人と
逢う
『棘の行方』
女が茨の道を抜け
男が茨の茂みを切り
男が女に贈ろうと
庭で育てた薔薇は
女の指を傷つけぬよう
棘を切られ
二人がひとつになる時
棘が
二人を結ぶ
『語られた記憶ー綴じられた草原の風』
線香の香りと
畳の匂いが
私を茶の間へと誘う
炬燵に見送られ
横の戸を開ければ
衣装ケースが
忘れられた日々のように
私を待ち受ける
蓋を開ければ
分厚いファイル
シャッフルされた記憶のような
ある年の年賀状
ページを捲れば
目眩く二十代の記憶が
ぱらぱらと
零れそうで零れることを許されぬ
綴じられた紙であるがゆえの
重さとなって
手のひらに降り積もる
ふいに
風が吹く
記憶にない
草原の緑と
光を揺らして
風が吹く
風上から駈けてくる
一匹の柴犬
「犬を飼っていた」
「よくキャンパスまで散歩に連れて行ったよ」
「柴犬で名前は」
手を繋いで歩きながら
彼が
この一瞬一瞬も
東京で待っている恋人の話したことが
私を
光る草原へと連れてゆく
語られた記憶への訪問者として
そして
緑の溢れる中
私は彼の隣で
柴犬に呼びかける
「リョウくん!」
『雷鳴』
空の雫が
白樺の葉を波打たせる
空の愛撫に慄く枝が
微かに吐息を漏らし
それは激しい喘ぎとなる
雫はやがて
白樺のものとなり
林に滝が満ちる
いたずらっ気たっぷりに
片目を瞑って見せる空
二股に分かれた白樺の枝に
裂け目が走り
喪失のように
儚い輝きを見せる
猫のように喉を鳴らし
空は深い眠りに落ちる
『あの日の雨が』
大きく開かれた
細い足のような白樺の枝
その枝先の空に
奪われたかのような裂け目
そんな輝きが
あの夜にもあったのか
回転木馬を見下ろす
雨に閉ざされた部屋の中にも
「木の葉にささやく雨の声
何を考えているのだろうか
私には分かる」
詩に書いたかつての少女は
数十年後
恋人と結ばれた褥で
己の記した言葉の意味を
知ったのだろうか
果てしなく問いながら
私は呟く
あの日の雨が知っている、と
引用は拙作「The Heart of Rain」より。
『雷雨』
飛び出していって
雨を抱きたい
空が誘っているから
『暗闇に目が慣れると』
扉を開けると
闇が流れ込む
溢れる闇の奔流に抗い
私は一歩を踏み出した
「星空観測会」
そうは書かれてていたものの
空を見上げた私の眼に映るのは
果てしない闇ばかり
彼の手を握ったまま
つまづかないように気をつけながら
一歩一歩と足を前に進める
「暗闇に目が慣れると星が見えてきます」
説明の声に
未だ半信半疑のまま
空を見上げた私の目は
黒い空を群青の重ね塗りに変え
一つ
また一つ
点々と
また点々と
夜空に星座のスクラッチを描き出した
そして指先は
高原の風に
秋の夜の空気を捉え
再び灯る炎を感じていた
『ペアリングとハイヒール』
ライトアップされた階段を降りるために
ベッドに入る時脱ぐために
ハイヒールを履く日
必ずはめているペアリング
ベッドに入る時
外して
ネックレスのチェーンに通し
サイドテーブルに置くために
紺色のワンピースを着て
校門をくぐるために
ハイヒールを履く日
必ず箱にあるペアリング
忘れ物をしたような
錯覚に気づき
引き出しを開けて閉めて
指をきゅっと握りしめて出かけるために
『ガラス張り』
口紅を塗り直しながら横を向いた
ガラス張りのシャワーブースが目に入った
不在の女が
シャワーを浴びていた
身体の奥が
クリスマスに賑わう街のように騒めき
色とりどりの灯りが煌めいた
「名残が消えてしまうじゃないの。ダメね。」
いつもの私に対する
そんな優越感はすぐに消えた
四つ辻で交わすかもしれない
別れ際のキスに備えて
口をゆすいでしまっていたことを後悔した
初雪を含む
雲ひとつない空
帰り道の表情を
ぼかしてくれたであろう
今朝方の小雨と雲は
すっきりと洗い流されてしまっている
「Kくんの下校に間に合うね。良かった。そういえばシャワー浴びてないもんな」
彼の一言で
周りがガラス張りになった
虹の渚 若菜紫 @violettarei
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