第29話 焦がす/真金埼君は壁を飛び越える(上)

 口に出したことはないが、物心ついた時から、俺は千代子とずっといっしょにいるものだと思っていた。

 家が斜向かいで、同い年。となれば何かと関わる機会も多い訳で、幼い頃はお互いの家を当然のように行き来していた。

 スポーツ少年団を終えて畳の上で夕飯まで眠っている時に、千代子が訪問することが何度かあった。夢見心地でも、千代子が側に来ると、中途半端に意識が覚醒する。それだけ、俺は千代子と会うのが楽しみだった。

 瞼が上がらない中で、つんつんと頬をつつかれるのが好きだった。頬をつつかれるという行為よりも、その後に耳元をくすぐる千代子の静かな笑い声が、たまらなく好きで仕方なかった。


「……かわいい」


 今まで、俺を可愛いと評価したのは家族と千代子くらいだ。少し驚いて目を開くと、視界には表情を綻ばせながらこちらを見つめる千代子の姿があった。面映ゆげに視線を向ける千代子は、いつも照れ隠しのようにはにかみ、用件を伝えたものだった。

 千代子はどちらかと言えば、物静かな人だ。しかし俺のように感情表現が苦手という訳ではなく、音をあまり立てずに喜怒哀楽を表現していた。

 千代子が目尻を弛め、目を細めながら、眩しそうに笑う姿が好きだ。嬉しかったり、楽しかったりするのは千代子なのだろうが、俺の心もふわふわと浮き足立った。千代子が笑っていれば、俺も幸せになる。だから千代子には幸せでいて欲しい。その思いは、今も昔もずっと変わらない。

 だが、千代子は変わった。昔のようには笑わなくなった。いつも困ったような苦笑いで、申し訳なさそうにうつむいている。明らかに作り笑顔とわかる、ぎこちない表情を浮かべることも増えた。相手の機嫌を損ねないよう、必死で己を守るための笑み。


 あろうことか千代子は、それを俺に向けた。


 我ながら情けないとは思うが、我慢ならなかった。思考よりも先に体が動き、千代子の小さな体を覆う。

 いつの間に、こうも差ができていたのだろう。久方ぶりに触れた千代子の体は、衣服越しでもそうとわかる程火照っている。中途半端に伸びた髪の毛が、シャツの上からくすぐってくる。


「た……律貫君……?」


 突然のことに、千代子は大いに戸惑っているのだろう。昔のように、下の名前で俺を呼んだ。ずっと望んできたはずなのに、今は嬉しさよりも焦れったさが勝る。母親を亡くし、実の父親に見限られたその時から傷が膿んでいる千代子には及ぶべくもないが、俺の心は言い様のない熱に晒されている。

 いや──今に始まったことではない。ずっとずっと、千代子に思い焦がれる度、俺の気は逸っていた。


「……俺は、お前が幸せになれるならば、お前の隣に誰がいても良いと思っていた」


 幼馴染みをかき抱く手に力を込めながら、俺は告白する。独白に近い言葉だった。


「だが、千代子、お前と離れるとどうにも寂しい。況してや、お前が変わらず息苦しげにしているなら、近くに寄り添ってやりたいと思わずにはいられない。お前は俺と距離を取りたいようだが、俺は全くの反対だ。千代子が側にいなければ、ずっと気が晴れない」


 ああ、ついに問わねばならない。ずっと、口にするのも恐ろしかった。

 湯元が初めに持ち出した推測は、先延ばしにしたところで巡り巡ってくるものだったらしい。


「千代子、正直に答えてくれ。お前は俺を嫌っているのか。俺が嫌になったから、避けるように……本心を隠すようになったのか」


 もしも、千代子が俺を拒絶したのなら。それは本当に悲しいことではあるが、受け入れなければならないと思う。俺が千代子の幸福を阻んでいるなら、その壁はたとえ自分自身であっても取り除かねばなるまい。

 腕の中で、千代子が息を飲んだとわかった。小さな両手が胸元へと伸びる。

 このまま突き飛ばされるのだろうか。そうなっても仕方ないと思う。力を抜き、いつでも千代子が逃げられるように準備する。力ずくで千代子を縛り付けるような真似はしたくない。


「──律貫君のわからず屋」


 しかし、千代子との距離は離れるどころか縮まった。胸ぐらを掴まれたと、一瞬遅れて理解する。

 鼻先がぶつかりそうな程に顔を近付けた千代子は、珍しく眉尻をつり上げ、唇を震わせていた。表情を視認し、彼女は怒っているのだと判断する。

 幼馴染みとして長い付き合いになる俺だが、千代子が怒りをあらわにする姿は片手で数えられる程度しか目にしていない。それも最近のことではなく、一番近くとも小学生の時分だ。それ故に、たった今目の前で顔を歪めている千代子の姿は、到底予測し得ないものであった。


「私があなたを嫌う……? そんな訳ないでしょう。私には、律貫君以上の人なんていないのに……」


 睫毛を震わせ、千代子は一度歯を食い縛った。頬が痙攣し、苦しげに眉根を寄せる。


「私は……私はずっと、あなたに嫌われたくなかった。何がきっかけで見放されるかわからないから、それが怖くて……せめてきれいな、余計なものの削ぎ落とされた思い出になれたらと思って、それでずっと我慢してたのに! どうして今になって、また私に近付くの! これじゃ、せっかく忘れられることを選んだのに、また律貫君と仲良くしたいって思っちゃう!」

「千代子、」

「律貫君はいつも味方でいてくれた、幼馴染みってだけで、見返りがなくても手を差し伸べてくれた。それがどれだけ嬉しくて、怖かったか……あなたに嫌われたら、私、もう誰とも関われない。お願い、もう私のことを怖がらせないで。違う世界の住人として、私の心の支えでいてよ……」


 そこまで言い切ると、千代子は荒い呼吸を繰り返した。普段から自己主張の少ない千代子のことだ、怒るという感情表現に加えて、思いの丈をぶつけることにどれだけのエネルギーを使ったことだろう。それが俺、ただ一人に向けられたのだと思うと、脳が焼き切れるような心地さえする。

 肩を上下させている千代子を、腕の中から解放する。涙の膜が張っているのか、千代子の目は潤んでいた。

 ああ、その顔をもっと見たい。両手で柔く頬を包み、強引に視線を合わせる。


「嬉しい」


 へ、と千代子が言葉にならない音をこぼす。その様さえ愛らしくて、自然と口角が上がってしまった。


「お前がそこまで俺を大切に思ってくれているとは……今まで気付けず、すまなかった。今後は、これまでの分を取り返すつもりでその思いに応えたい」

「ちょ、ちょっと待って。私、律貫君にみっともないこと言ったんだよ……? その、そこは幻滅するところじゃないの……?」

「幻滅などするものか。思いを同じくしていたお前を拒絶してどうする? 俺はお前の父親とは違う」


 妻を亡くし、娘を放り出し、呆気なく死んだ千代子の父親。あれが未だに生きていたらと思うと、千代子には悪いが現実に感謝せずにはいられない。もしも俺が成長した時点であの男がのうのうと生きていようものなら、確実にあれの死因は溺死ではなかった。

 そんな男であっても、千代子は父親として慕っていた。だからこそ、過去の傷は今になっても尾を引いている。

 荒鷹千代子として息をしていることそのものが、千代子にとっては苦痛なのだろう。その事実は簡単に覆せるものではない。何より、俺は千代子が存在しない現実など耐えられない。

 故に、俺は祈っていた。千代子が幸福であるようにと。千代子が俺を拒むのなら、彼女から離れることも辞さず、この世界のどこかでたった一人の幼馴染みが幸せを見出だしているのだと信じていようと思っていた。

 だが、千代子は俺を拒絶などしていなかった。むしろ俺を尊重するからこそ、距離を置こうとしていた。ならば、俺のすべきことは決まりきったものだろう?


「必ず幸せにする。だから、千代子さえ良ければまた仲良くしよう。他人の迷惑など考えるな。気が晴れなければ、俺のことだけ思い浮かべていれば良い」

「た……真金埼君、おかしいよ……。どうしちゃったの? そんなに前向きだったっけ……?」

「お前のおかげで前向きになれた。それと、俺は律貫君だ。今更畏まる必要はない」

「い、色んな意味で怖いよ……。もういい、わかった、わかったから、手離して……。私、もう帰るから……」

「わかった。ではいっしょに帰ろう」

「この空気感の流れで……⁉️」

「……? 流れも何も、帰る方向が同じである以上別々に帰宅することは難しいと思うが……」

「…………ずるい…………」


 餅を思わせる頬から手を退けて離れると、千代子はふらふらと力なく立ち上がった。支えてやりたいと思ったが……思い返してみれば、俺は先程から千代子に触れすぎた。これ以上の接触は、あまりにも不公平だ。


「千代子。俺だけもらってばかりなのは良くない。いつでも構わないから、お前も好きなように俺を触れ」

「ええ……? どういうこと……?」

「今日はお前と身体接触をし過ぎたと思ってな。幼馴染みであるからには、分け合えるところは分け合った方が良い。ということでどこでも好きに触って構わない。手が届かなければ屈む」

「…………」


 歩き出そうとしていた千代子は、信じられない程じっとりとした目で白眼視した。こうした不満げな顔も、久しぶりに見ると新鮮な気持ちになる。

 何も言わず、千代子は勢いよく二の腕の辺りを掴んだ。小さな掌にこもる力などたかが知れている。痛みにすら至らない接触に、俺の心はほわりと和んだ。


「ああああもう! 今度星良ちゃんに自慢してやるんだから!」


 ぱっと手を離し、肩を怒らせながら今度こそ千代子は歩き出す。大股で歩けばすぐに追い付ける背中だが、ぷりぷりとご立腹の姿が可愛らしくて、俺は少しの間だけ千代子の後塵を拝することとした。

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