第28話 ヘッドフォン/荒鷹さんは覚悟を決める(上)
なんでお前なんだ。
いつだって、その時のことは思い出せる。ひとりの時も、誰かと話している時も。意図していなくとも、かつての記憶は脳裏にフラッシュバックする。それだけ時間が経とうとも、欠けることなく鮮明に。
蘇るのは父の言葉だ。母を喪い、その側にいながら生き残ってしまった私への落胆。何故母ではなく私が生きているのかと嘆き悲しむ父の姿は、私の記憶に焼き付いて離れない。
私は両親が好きだった。愛されていると思っていた。実際、母は私を大事に思ってくれていたのだろう。でなければ、台風が近付く暴風雨の中、私を迎えに来たりはしない。倒木から私を庇って亡くなることだってなかったはずだ。
父は、そんな母が好きだったのだろう。だから、私のことも大事にしていた。そうすれば、母が喜ぶから。
彼は母が亡くなって悲しんだ。自分に似た娘ではなく、愛する人が生き残ることを望んだ。父が愛したのは私も含めた家族ではなく、母ただ一人だったのだ。
申し訳ないことをしてしまったと思う。どうして私が生き残ってしまったのだろう。母が生きていれば、私の代わりになる子供だってできたはずだ。父と母は離れることなく、幸せでいられたはずなのに。
大好きな父は、それ以降私への興味関心をなくしてしまった。私はいないものとして扱われ、やがて父が帰ってくることはなくなった。かけた言葉が行き場をなくし、目線のひとつも合わせられず、放棄されたことに気付いた時──父から嫌われたのだと理解した。私が生きている──その過ちのせいで、私は父からの信頼と好意を一気に失ったのだと。
人から嫌われるのは恐ろしい。私が好ましいと思う人間が相手なら、尚更喪失が怖くなる。
何がきっかけで嫌われるかわからない以上、私はできる全ての対策で身を守るしかない。相手の感情を大きく動かすだけの範囲に入らない。相手に非を突き付けるような振る舞いをしてはいけない。私はいつだって、人の顔色を窺い続ける。嫌われないように、去られないように。いつか離れる時があったら、きれいなまま自然に忘れてもらえる、そんな存在を目指した。
でも、いくら私がただの親切で無害な人になりたくっても、私という個が見えてしまう一線を越えてくる人はいる。特に鼎ちゃんや星良ちゃんは、何かといっしょに行動することが多いばかりか、貴重な休日をいっしょに過ごしたり、時には星良ちゃんの家にお呼ばれされることもあった。一年生の頃、鼎ちゃんから試合を見に来て欲しいと言われた時は驚いた。私なんかが一人増えたところで、何も変わらないのに、どうして?
どうやら二人は、私のことを他の友人とは少し異なる、特別なものとして扱ってくれているらしい。いっしょにお泊まりする友達は私が初めてだと星良ちゃんに言われた時、決勝戦で勝利した後、笑顔で真っ先に駆け寄ってきたかと思うと、鼎ちゃんが私を抱き上げてくるくる回った時──私はとても申し訳ない気持ちになった。こんなに特別で、他に望む人もいるであろう立ち位置に、私が居座っていてごめんなさい。
でも、この二人は高校からの付き合い。鼎ちゃんはプロのバレーボール選手を、星良ちゃんは医者を目指している。二人の人生と深く交わらないように、酒ながら生きていくことは難しくない。そうすれば、私はいずれ忘れられる。記憶に残っていたとしても、おとなしくて目立たなかった同級生という、朧気な虚像しか残らない。
私に関わる人間が、皆そうであったらどれだけ気が楽だったろう。誰の記憶からも消え去って、全てリセットできたなら──私は、今よりも思い悩むことはなかったのに。
「……律貫君……」
斜向かいに暮らす幼馴染みの顔を思い浮かべ、私は溜め息を吐く。
真金埼律貫君。私と同い年で、切っても切り離せない位置にいる人。私の予想を裏切り続け、そして私を裏切らない。
理由はわからないけど、律貫君は私の側にいようとすることが多かった。母を喪い、父に愛想を尽かされ、関わったところで迷惑をかけるしかできない私を、彼や彼の家族は何かと気にかけてくれた。そのことには心から感謝しているし、お返しができるならしたいと思う。
それでも──律貫君は、私の隣にいてはいけない人だ。将来を嘱望され、憧れを一身に浴び、光を背負いながら真っ直ぐ前へ進むあなたに、私は相応しくない。
幼馴染みだというただひとつの理由から、律貫君は私に関わろうとする。私たちは、もう子供じゃない。同じ道は歩めない。あなたが良いと思っても、私や世間は許さないの。どうかわかって。
中学生になって、私は律貫君から距離を取り始めた。おかあさんとおにいちゃんもいるから、もう律貫君に頼る必要はない。光の中にいる律貫君と、一生影を背負わなければならない私は、本当なら交差してはいけないのだ。
今の高校に決めたのも、律貫君から離れるため。彼が進学するなら、強豪と言われる剣道部のある学校だろう。それに、今までの私を知る人がいない場所に行きたかった。私という人間を埋没させる場があれば、私の心はきっと揺らがない。
でも、律貫君は再び私に関わろうとしている。びっくりしたし、深入りしてはいけないと思ったけど……どうせあと数年で離れることになるのだから、きれいな思い出だけでも作っておこうかな、と思った。律貫君の中で、荒鷹千代子という人間が、楽しい記憶の一部になってくれたのならそれで良い。
だから、この限られた時間の中で、私は律貫君に嫌われないよう努めなければならない。血の繋がった父でさえ私に失望し、放棄しても構わない存在と見なしたのだ。どんな些細なことで、律貫君の心が離れてもおかしくない。それだけは駄目。律貫君に嫌われたら、私はどうにかなってしまう。
その目に留まったのなら、いつだって手を差し伸べてくれた律貫君。強くて揺らがず、自己を確立させた人という印象が強い彼だけど、本当はそれだけじゃないってことを、私は知っている。誰にも教えたくない、渡したくない、私だけの宝物。
律貫君。私の大切な人。私はこの世に生きていることすら嫌で、すぐに目を閉じ、耳を塞ぎ、それができないのならアイマスクやヘッドフォンを使ってでも全てから自分を遮断したくてたまらないけど、律貫君が生きているなら、きっとあなたを支えにどうにか生きていける。
「──千代子」
ふと顔を上げると、待ち望んだ人の姿があった。もともと背の高かった律貫君は、高校に入ってからも成長しているらしい。会う度、目線の位置が高くなっているように思う。
律貫君は、この夏休み、私と過ごす日を作りたいようだ。その旨を伝えるメールが届いた時には、私もひどく驚いたけど……何時間も悩んで、メールを返して、保健室で休んでいる時に、これはいい機会なんじゃないかと思い至った。来年は三年生、私は受験生になり、律貫君は本格的に主将として部を引っ張っていく立場になる。今みたいに会うことは、きっとできない。
思い切って、夕方に公園で会わないかと持ちかけた。いつも家に帰りづらくて、逃げ場所にしているベンチ。おかあさんとおにいちゃんは優しいし、私のことを気遣ってくれるけれど、私が二人の空間を邪魔していることが申し訳なくて、家への足が遠のいてしまう。最近、律貫君が公園付近でロードワークしているとわかったから、この頃は真っ直ぐ帰ることにしているけど……私にとっては、馴染みのある場所だ。ここでなら落ち着いて話ができると思い、待ち合わせ場所に指定した。
微笑み、隣に座るよう促す。律貫君は目力が強い。目を合わせると、こちらの考えが何もかも見透かされてしまうのではないかと、不安になる。私の本心なんて、律貫君に知られてはいけない。ひとつでも明らかになってしまえば、律貫君も父と同じように失望し、私を嫌いになるだろう。
「部活帰りなのに、呼び出してごめんね。夏休みのこと、話し合っておきたくて……。インターハイも近いし、長引かないようにするね」
「いや、長くなっても構わない。お前と話していれば疲れなど吹き飛ぶ」
私は付かず離れずでいたいのに、律貫君はそんなのお構いなしだ。私の気遣いを一蹴するどころか、思わず増長してしまいそうな言葉まで付けてくる。私があなたを特別だと思っているように、あなたも私のことを特別扱いしているんじゃないかって、勘違いさせようとしているんじゃないか。
律貫君と程良い距離感を維持していたいのは、紛れもない本心だ。でも、それでも、私の中の汚い──とても人には見せられない、エゴというのもおこがましい程身勝手で醜い欲は、律貫君と近付けば近付くだけ舞い上がる。律貫君が積極的に関わってくれると、自分よりも私を優先してくれると、嬉しいと思ってしまう。一歩間違えれば、律貫君に嫌われてしまうかもしれないのに。
「あのね、もし予定が合えばなんだけど……。たなばたさん、いっしょに行きたいな。真金埼君はインターハイもあるし、無理だったら全然いいんだけど……最終日なら、間に合うかなって。だから、できたらでいいんだけど、真金埼君の予定も聞かせて欲しいな」
ずっと練習していた切り出し方は、概ねうまくいった。無理って断られても、この聞き方なら気まずくならないだろう。もとより、律貫君は忙しい人だ。絶対に約束を取り付けられるとは思っていない。
む、と小さく唸って、律貫君は考え込む姿勢を見せた。時間をかけて考える時や不満な時、律貫君は先のように唸る。もう声変わりしてしまったし、威圧感と風格にあふれる彼ではあるけれど、む、と口にする仕草は昔から変わらなくて、可愛らしく思える。本当に昔、『う』の形になった唇を人差し指でつついたら、律貫君はびっくりしたのか目をまん丸にしていた。可愛い人だ。
「……実は、俺も誘おうと思っていた。先を越されたな」
神妙な顔をして何を言い出すかと思えば、どうやら私たちは同じ事を考えていたらしい。少し寄った眉毛からは悔しさが滲んでいる。
何かを始める時、律貫君はその口数の少なさもあってか、なかなか言い出せない子供だった。いつも切り出すのは私で、律貫君の手を引いたことは何度だってある。今では考えられないことだけど、たしかにそういう時代はあったのだ。
とにもかくにも、律貫君も私をたなばたさんに誘うつもりだったのなら、予定をすり合わせる手間は省けたと言っても良い。内心でほっと胸を撫で下ろし、私は随分高いところに行ってしまった幼馴染みの顔を見上げる。
「良かった。それじゃ、最終日に行こう。今から楽しみだな」
「俺も同じ気持ちだ。しかし、良いのか? 友人もいるだろう」
「初日と二日目もあるもの。私こそ、真金埼君の貴重な時間をもらっちゃって申し訳ないな」
「気にするな。お前といられれば、俺はどこだって楽しい。来年はお互い忙しくなるだろう。ならば遊べるうちに遊んでおくべきだ」
「……そうだね」
そうだ。律貫君が自由な時間を取れるのは、ごく僅か。その限られた時間内で、私は踏ん切りを付けなくちゃいけない。
すう、と息を吸い込んだ。己を戒めるつもりで、何でもない風に笑顔を浮かべる。作り笑顔なら慣れたものだろう。今更本心を滲ませてはいけない。
「あのね、真金埼君。今まで、本当にありがとうね」
こんな風に改まって感謝を伝えられる機会は、この後そうそう訪れないだろう。たなばたさんの時に切り出すのは、さすがに雰囲気をぶち壊しにしかねない。だから、今伝える。これまでの感謝と、せめてもの
「真金埼君には、たくさん助けられてきたって思ってる。残りの時間で、どれだけお返しができるかはわからないけど……真金埼君が少しでも楽しいって思える時間を提供できたらいいな。短い間だけど、よろしくね」
一息に言い放つと、いつになく胸がすいた。こんなに話したのっていつぶりだろう。思えば、いつも相槌を打つ方に回っていたから、律貫君とまではいかないけど口数が少なくなっていたのかもしれない。
本当は、許す限り律貫君といっしょにいたい。でもそんなことってあり得ないから、せめてこの夏くらいは隣にいさせて。隣じゃなくてもいい、後ろを付いていくだけでも、私は嬉しい。幼馴染みという免罪符が効いているうちは、その特権に
「──は、」
淡い期待と共に律貫君を仰ぎ見ると、彼はいつになく目を見開いて、口を薄く開いていた。
何か、驚かせるようなことがあっただろうか。やっぱり、私なんかが律貫君の時間をもらいたいなんて、身の程知らずだったかな。
私から何か言い出せたら良かったのだけれど、不用意な発言で嫌われたらと思うと恐ろしくて、私は何も言えずに待つしかできなかった。律貫君が口を開くまでの間──本当なら数秒間に満たなかったのだろう──私は生きた心地がせず、永遠に沈黙が続いてしまうような気さえした。
「……俺は、そうは思わない」
やっと破られた沈黙。静かに放たれた一言は、たしかな否定を持っている。
ああ、私たちはここで終わるのだろう。私はそっと覚悟を決める。次の瞬間、さよならと笑って言えるように。律貫君の前でだけは、少しでも見栄を張っていたい。
律貫の大きな手が伸びる。拒絶を想像していた私は何がなんだかわからないまま、柔らかく手を取られる。
「千代子。俺はお前が許す限り、側にいたいと思っている。お前は、他の誰とも替えのきかない──唯一無二の、特別な存在だ。できることなら、離れたくない」
律貫君が身を乗り出す。一点の曇りもない眼差しが、真っ直ぐに私を射抜く。
これは都合のいい夢なのかな。現実でなかったとしても、醒めてしまうまでこの幻の中に浸っていたい。律貫君が私の望む言葉を口にして、私だけを見つめている。こんなことって、どれだけ私が善いことをしても、手に入れられるはずがない。
頭の芯が、じりじりと焼ける。日中よりも気温は下がっているはずなのに、私はのぼせている。体が熱くて仕方ないのに、どうしてだろう。すごく心地いい。
何か言わなくちゃ。これは夢で、本物の律貫君は別にいるんだから。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
嫌われたくない。当たり障りのない、ちゃんとした答えを選択しなければ。律貫君の中で、私がきれいな思い出になれるように。
目の前で、律貫君が顔をしかめるのがわかった。ぎり、とかすかに歯ぎしりの音がする。
私は何を間違えたのだろう。悲しいけれど、もう挽回のチャンスはない。私は失敗したのだ。
「────」
ここで逃げるのは卑怯だとわかっていたけれど、私は思わず目を伏せた。かつての父のような顔をした律貫君なんて、見たくない。
全部なかったことにしたいな。叶わない願いを心に押し止め、瞼を閉じようとしたところで、私の頭上から影が降りかかった。それなのに、体は熱を持ったまま。まるで、二人分の体温を共有しているような──。
いや、ような、ではない。私は今、本当に律貫君から抱き締められている。
信じがたいことではあるけど──これは現実だ。だって何もかもがリアル過ぎる。律貫君の体温も、柔軟剤と汗の混じったにおいも、汗ばんだシャツの質感も──私の五感を確実に刺激する。
私はどうにかなってしまうのかもしれない。その事実の恐ろしさと多幸感に、私の体は知らず震えた。
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