第24話 朝凪/月浦さんは回生を希う(下)

 部活の有る無しに関わらず、朝のロードワークは毎日の日課だ。天気が悪くなければ、まだ暑さが控えめなうちに走りに出る。

 今日も一日晴れ。からっと乾いた空気は心地よく、そよ風が背中を押してくれる。すうと息を吸い込めば、緑のにおいが体の中に満ちた。

 絶好のジョグ日和だ。体を温めて、澄んだ空気で心身を満たし、帰ったら朝ご飯とプロテイン。そして、完全に整った状態で部活に臨む。これで今日のコンディションはばっちり。

 ──あいつさえ現れなければ、そのはずだった。


「む」

「げ」


 信号待ち中、車道を挟んだ平行線上。明らかにあたしと同じくロードワーク中と思わしき屈強な大男──真金埼律貫と目が合った。

 知らないふりをしたい。でもあっちは絶対気付いている。人が全然いない朝、車すらまばらな中で、奴の発したむ、の一言はばっちり聞こえてしまった。あれって確実に捕捉してるよね。さっきからずっとこっちを凝視してるし。

 ああ、最悪だ。なんでよりにもよって真金埼と鉢合わせしちゃうんだ。朝っぱらからこいつの顔を拝むばかりか、すれ違う羽目になるなんて!

 引き返すことはできるけど、あたしが自主的に逃げているみたいで嫌だ。なんでお前なんかに背中を見せなきゃなんねえんだよ。どんだけ剣道強いか知らないけど、それだけであたしが弱い証左にはならねえからな!

 信号が青に変わる。心を落ち着かせよう。真金埼を気にしてるみたいに見られるのは癪だ。お前なんて端から眼中にないってことを思い知らせてやる。そうだ、あたしは今、朝ご飯のことを考えてる。何にしようかな。煮込みハンバーグ。オムライス。オムカレー。カレー。ビーフカレー。ポークカレー。チキンカレー。ドライカレー。カツカレー。カツ丼。


「もし、君は千代子の友人の、月浦鼎ではないだろうか」

「牛丼!」


 くそっ! 真金埼の奴、あろうことか話しかけてきやがった!

 勢い余って丼もののターンに入ったことを口走ってしまったけど、今はそんなこと気にしていられない。知らないふりしてダッシュ! 天丼うな丼親子丼!


「俺は真金埼律貫だ。何故逃げる」

「鉄火丼⁉」


 嘘だろ⁉ こいつ、並走して来やがる!

 しかも大変遺憾なことに、真金埼はあたしが逃げていると解釈している。ふざけんじゃねえおだつなよ! こっちは朝ご飯のことを考えながら走ってるだけだ! お前が一方的に追いかけてるんだっつの!


「何のつもりだ真金埼ぃ……こっちはお前に用なんかねーのや……」

「いや、俺はある。走りながらで構わない、話をしよう」

「こっちは構うんだよ! お前と話してる暇なんてないってば!」

「話をしよう」

「聞け! その耳ボケ腐ってんのか!」


 話をしようとか言ってるくせに、こっちの話はひとつも聞かない。何こいつ、本当に無理! 大事なことだから繰り返しましたとかそういうレベルじゃないだろこれ!

 衝動に身を任せていれば、あたしはきっと真金埼の横っ面をぶん殴っていただろう。しかしながら、あたしは我慢のできる人間。じゃなきゃ主将なんて名乗れないし、千代子の友人としての面目が丸潰れだ。体内に溜まった苛立ちを息に乗せて吐き出す。……よし、今なら冷静に受け答えできそう。


「……で、話って何? そこまでゴリ押しするってことは、余程大事なお話なんだろうな」

「いや、そう堅苦しいものではない。ただ、千代子の友人ということで、一度腹を割って話してみたいと思っていた。こうして会えたのはまたとない幸運だ」


 こっちはアンラッキー極まりないけどな。今この場の運が真金埼に向いていると思うと、無性に腹立たしい。

 舌打ちを噛み殺しながら、横目で並走する真金埼を見遣る。規則正しい呼吸と共に走る真金埼の眼差しには、一切の揺らぎがない。例えるなら朝凪の海辺。今年は実家に帰省しないから、海を見るのはしばらく先になる。

 憂慮すべきことが何も起こっていない状態というのは、世間一般じゃ安心できる要素になるんだろう。でも、あたしは逆に言い知れぬ不安に襲われる。トラブルが起こるのだとしたら、全く予測できていないまま臨むよりも、何かしらの予兆がある方が良い。その方が対策も取りやすいし、心構えだってできる。いざって時に慌てふためかなくても良くて、ある程度頭が冷えた状態で問題と向き合える。

 だから、先の見えない真金埼みたいな奴は、本当にやりづらい。こういうのが相手になると、変に調子が狂う。


「学校での千代子はどうだ。何事もなく過ごせているだろうか」


 何を聞いてくるかと思えば、お前は千代子の保護者か。子供とぎくしゃくしてる親じゃないんだから。


「幼馴染みなんでしょ? 千代子から直接聞けばいいじゃんか。ちょっとした世間話くらいならできるんじゃないの」

「それはそうだが……やはり客観的な意見も聞きたい。千代子は自己肯定感が人よりも低いからな。聞き出すのが申し訳ないと思うこともある」


 それは……何となくわかる。幼馴染みの前でも千代子が抱える後ろめたさというか、自罰的なところは変わらないのかと思うと、胸が痛んだ。


「今年になってからクラスが別になったから、何もかもわかるってことはないけど……今のところ大きな問題は起こってないよ。最近はちょっと厄介な奴に絡まれてるっぽいけど」

「花鶏昴のことか。多少騒がしいが、悪い奴ではないように思う。……強引な部分と、パーソナルスペースの狭さには難があると言えるが」

「ああ、そういえばお前、花鶏と繋がってたんだったね。千代子に迷惑かけないでよね」

「何故知っている? 花鶏から聞いたのか」


 まさか友人が一部始終を盗み聞きしてました……とは、星良の沽券に関わることなので言えない。星良といい剣道部の高森クンといい、うちの学校……というか千代子と真金埼の周りって奇行に走る人間が多くない? いつかの未来、彼らの名前をメディアで見ることがあった日には、ポジティブな内容でありますようにと祈らずにはいられない。

 というか真金埼、厄介な奴はお前だよお前。まさか自覚がないのか? いや、あったらあたしにこんなこと言えないか。鈍感な奴は幸せだな。


「一応、お前は有名人ってことになってるから。噂が回るのは早いってことだよ。それに花鶏は口が軽いから」

「そうか、ならば口止めには念を入れた方が良いな。千代子に何かあっては困る」

「お前、随分千代子のことを気にしてるっぽいけど、一体何がしたい訳? 幼馴染みで家が近所なら、前々から千代子には近付けるはずでしょ。それなのに、具体的な行動を起こして、千代子に急接近したのは最近になってからだそうじゃん。友人としては、何か良からぬことを思い付いて、千代子をいいように使おうとしてるんじゃないかって心配なんですけど」


 ああ、やっと言えた! 内心で、あたしはせいせいする──真金埼が話題に上がる度、どうして千代子に近付くのか、今になって急に幼馴染みを気にし始めたのか……答えが聞けなくてもいいから、一回問い詰めてやろうと思っていた。

 真金埼は少し目を見開いて、何度か口を開き、直後に閉じるという行為を繰り返した。適切だと思う言葉が決まるまで口をつぐんでいる千代子とは正反対だ。この男は、今まで自分の発する言葉を疑ったことなどほとんどないんだろう。千代子の存在がこいつを逡巡させていると思うと、胸の辺りがムカムカする。そんな顔をするくらいなら、何故前から千代子に寄り添わなかったのか。


「……千代子は、ずっと傷付いている。何年も前から、絶え間なく」


 やっと口を開いた真金埼は、僅かに眉根を寄せていた。なんでお前が苦しそうな顔をする。傷付いているのは、お前じゃなくて千代子だ。


「どうすれば千代子の傷が癒えるのか……俺なりに考えて、実行してきたつもりだ。だが、千代子は俺と距離を取りたがっているようだった……何よりも重んじるべきは、千代子の意思だ。故に、俺は一度千代子と距離を置くことにした」

「そうは言うけどさ、結局お前は千代子に付き纏ってるじゃん。千代子の意思はどうなるの」

「……すまない。自分勝手なことだと理解はしている。だが、一度千代子の顔を目の当たりにした時──やはり側にいたいと思った。彼女が真に幸福を得るまで、俺自身が手を尽くしたいと」


 そこまで告げると、真金埼は不意にあたしの目を見据えた。アイコンタクトに抵抗はないけど、もうちょっとマイルドなやり方があったんじゃないのと思わずにはいられない。口数や感情表現は対照的だけど、人との距離感の詰め方や何でもかんでも自分の中だけで完結させる辺り、実は花鶏と似た者同士なのかもしれない。


「月浦。君が千代子の友人で良かった」

「は? 何、いきなり。褒めても何も出ないんだけど」

「ただの本心だ。見返りを求めてはいない」


 何の脈絡もなく褒められたら、嬉しいとか気恥ずかしいという気持ちよりも気味悪さの方が勝る。第一、こいつはあたしが千代子とどういう風に接しているか、見聞きしてもいないのに……知ったような口を利かないで欲しい。


「これは俺の所感だが、以前に比べて千代子の顔を覆っていた陰が薄まったように思う。高校に入ってから、多かれ少なかれ心安らげる場面があったということだろう。君はその一助となっている。感謝してもしきれない」

「幼馴染みってだけで保護者面はやめてくれない? 偉そうな口利くならお前自身が具体的な成果を得てからにしなよ」

「尤もなことだ。俺は俺で尽力するとしよう」


 あたしは心から真金埼を非難したつもりだけど、何がおかしかったのか奴はふと相好を崩した。鋭さばかりが目立つ切れ長の目元が、笑うとゆるく細まる。

 こいつ、笑うと一気にガキくさくなるんだな。仏頂面よりは幾分かましと言ったところだろうか。


「君が叱咤してくれたおかげで、俺も少しは前向きになれた。ありがとう、月浦」

「別に、お前に礼を言われる筋合いとかないから。事実を述べただけ、勘違いすんなよ」

「わかっている。それはツンドラだろう? 漫画で学んだ」

「ツンデレだよバカ! いやそもそもツンデレじゃねえよ!」


 誰が寒帯に見られる永久凍土を擁する降水量の少ない地域だよ。宮城は温暖湿潤気候だっつの。

 失言のくせに、真金埼は口元に手を添えて静かに笑った。随分とお上品な笑い方しやがって……剣道を引退したら芸人でもやった方がいいんじゃないか? 相方が苦労するだろうけど。


「俺はこちらなので、ここで失礼する。今後もお互い精進しよう」

「いつからあたしはお前のお仲間になったんだよ? 勝手にすれば。千代子に変な真似したらただじゃおかないけど」

「ああ、勝手にやる。息災でな、月浦」


 やりたい放題しておいて、真金埼はあっさり去って行った。こっちはどっと疲れたってのに、妙に満足げだったのがムカつく。せっかくのロードワークが台無しだ。

 溜め息を吐き、額の汗を拭ってから前を向く。とっとと帰って朝ご飯を食べなきゃ。満足に走り込めなかった分、このフラストレーションは筋トレで消化するとしよう。

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