第19話 トマト/おにいちゃんは問答する(下)
久しぶりに食べる母ちゃんのご飯は美味しかった。炊きたての白米って最高だね。行きたくて行った留学なので有意義な時間を過ごせたけど、ご飯に関しては実家に勝るものはない。
お風呂も済ませ、髪の毛を拭きつつ、俺は仏間を覗く。暗い廊下に白い光が漏れ出ていたから、誰かいるってことはすぐにわかった。あそこに進んで行こうとする奴なんて、この家には一人しかいない。
冷蔵庫から持ってきたトマトジュースの缶を頬に当ててやると、千代子の小さな肩はぴくんと跳ねた。一瞬見開かれた目はすぐに見慣れた苦笑へと変わる。
「びっくりした。おにいちゃん、どうしたの?」
「べっつにー? 千代子と話したいから来たってだけ」
しばらく見ない間に、千代子は髪の毛が伸びた。ずっと伸びるままにしていたのだろうか、ウルフカットみたいになっている。ボブでいる千代子ばかり見てきたから、何だか新鮮な気持ちだ。
うつむいている千代子に目線を合わせる訳にもゆかず、俺はそっと飾られている遺影を見上げる。
荒鷹家の遺影はふたつしかない。三十代から四十代と思わしき男女──千代子の両親だ。
俺と千代子に血の繋がりはない。義理の兄妹にあたる。千代子の父親が、母ちゃんと再婚したのだ。
俺はこの新しい父親が大嫌いだった。死んでくれてハッピー──とは思わないけど、今でもこいつが生きていたら、果たしてお利口に過ごせていただろうかと不安になるくらいは、嫌いだ。
「俺が留学してる間さ、どうだった? 何か困ったこととかなかった?」
パックのコーヒー牛乳を飲みつつ、千代子に尋ねる。俺が飲み物に口を付けたのを確認してから、千代子もトマトジュースの缶を開ける。
「うん、概ね大丈夫。学校でも、問題なく過ごせたよ。誰にも迷惑をかけないっていうのは、難しかったけど……」
「それは仕方ないよ。人ってのは、生きてたら誰かに迷惑かけるものなの。怪我とか病気もしてない?」
「何もなかったよ。花粉症はしんどかったけど、あとは特に何ともない」
それなら良かった、と俺は笑って相槌を打つ。
ここまでは前置き。俺は一度息を吸い込み、何でもない風を装って次の問いを用意する。
「ねえ、千代子。家には、まだ帰りづらい?」
「────」
ほんの僅か、それこそ一秒にも満たない間だけど、千代子の顔から表情という表情が抜け落ちる。
真面目で、勤勉で、非行とは無縁の千代子。そのはずだけど、彼女にはひとつだけ問題というか、健全な学生像からは外れたところがある──帰宅時間が妙に遅いのだ。
この理由を、俺は、いや母ちゃんも把握している。千代子に嫌な思いをさせたくはないから、面と向かって言及することはないけど──どうにかしたいのは本当だ。
実の両親が亡くなって、血の繋がった親族がいなくなってしまった生家。千代子は、自分がここで暮らし続けることを後ろめたく思っている。
──私が出ていくべきでしょう。
俺と母ちゃんがここに越してくるという話になった時、まだ小学生だった千代子は不気味なくらい大人びた口振りでそう言った。これから家主は母ちゃんになるのだから、部外者の自分がいてはいけないのだと。
勿論、俺も母ちゃんも、千代子を追い出そうなんて思っていなかったから、この発言にはひどく面食らった。どうにか二人で宥めたものの、今に至るまで千代子は納得できないのだろう。彼女が帰宅する時は、大抵暗く沈んだ顔をしている。
「ここは千代子の家でもあるんだからさ。気兼ねなくいていい場所なんだよ。まあ、高校生って遊びたい盛りだし? 母ちゃんに怒られないギリギリラインを見極めるのも醍醐味だけどね~」
冗談交じりでフォローを入れると、千代子はようやく纏っていた空気を弛緩させた。うん、とうなずく横顔は憂いに陰っている。
「……ありがとう、おにいちゃん。おかあさんにも、迷惑かけて申し訳ないと思ってる。……でもね、やっぱり私はここにいるべきじゃない。私はこの家に収入を納めていないし、むしろ労力をかけさせるばかりで」
「学生のうちからお金のことなんて気にしなくていいよ。それだったら、俺なんてとんだ金食い虫じゃんか」
「おにいちゃんは身内だもの。お金をかけるのは当然だよ」
「千代子だって、俺にとっては身内ですけど」
紙パックの中身がなくなり、少し力を入れるだけでべこっと凹む。千代子の前では優しいおにいちゃんでいなければならないんだから、力に任せて苛立ちをぶつけるのは良くない。ぶつけるべき相手は、もうこの世にいないんだし。
「あのね、千代子。あいつに何を言われたか、今となっては知ることもできないけどさ。俺も母ちゃんも、千代子と同じ荒鷹家の一員だよ。線引きなんてない。お互いが心地よく暮らせるように話し合う口も、意見を聞く耳も、何をすべきか見極める目もある。何もかも明らかにさせなきゃいけないってことはないけど、時々でいいから、俺たちのことも信じて欲しいな。迷惑になるとか、負担がかかるとか、そういうことはなしだよ」
本当なら千代子と目を合わせたかったけど、流れるように逸らされてしまう。昔に比べたら心を開いてくれるようにはなったけど、俺たちの間にはどうしても乗り越えられない壁がある。
ありがとう、と千代子は微笑んだ。力ない、困ったみたいな苦笑い。千代子の笑顔は大抵こうだ。
「帰ってきたばかりなのに、気を遣わせてごめんね。おにいちゃんやおかあさんを困らせないように、私も頑張るよ」
立ち上がり、千代子は仏間を出て行く。逃げられたなあと思ったけど、こればかりは仕方ない。
千代子は母親を事故で喪った。それ以降、父親は千代子への興味を一切なくしてしまい、母ちゃんと俺がここに越してくるまで、ほとんど放置される形で過ごしていたという。
母方の祖父母が様子を見に来てくれることもあったらしいけど、いかんせん高齢ということもあって、頻繁に行き来はできない。父親から見放され、保護者のいない中で、千代子がどれだけ傷付いたか……俺には、想像しかできない。その想像が現実を超えることはないと、理解してもいる。
あいつは──千代子の父親は、母ちゃんとの再婚にあたっても何も思っていないようだった。ろくに家に帰らず、ほっつき歩いてばかりだった男は、夜中に足を滑らせ、川に落ちて死んだ。我が子のことも、家のことも何も顧みず、反省も謝罪もしないまま、あの世に旅立ちやがった。
だから俺はあいつが嫌いだ。大嫌いだ。千代子を傷付けるだけ傷付けておいて、自らの非を認めることなく死んだ男を、誰が許せるもんか。
握りすぎてだいぶ形が変形してしまった紙パックを見て、俺は少し冷静になる。長く息を吐き出してから自室へと戻り、ゴミ箱に紙パックを捨てた。
まだ苛立ちを完全に消化できない中で──俺はふと、昼間に会った幼馴染みを名乗る大男の顔を思い浮かべる。
「……あいつは、どこまで知ってるのかな」
何が起こっても表情を変えず、誰にどう思われようとも構わない、とでも言いたげな顔をしている真金埼。あいつは、千代子のことをどれだけ把握しているのだろうか。
剣道一筋のあいつが、他人の家庭の事情に首を突っ込むとは考えにくいけど……それでも、千代子が独りの間、真金埼家が度々面倒を見てくれていたと聞いている。それもあってか、母ちゃんは真金埼の母親と仲が良い。よそ者である俺たちが上手くご近所付き合いできているのは真金埼家が良くしてくれるからなのだと、母ちゃんからは口酸っぱく言われる。
世俗から距離を置き、己の剣を磨くことにしか興味のなさそうな真金埼──最近になって千代子に接近してきたあいつが何を考えているかなんて、本人以外にはわかるはずないと思うが──あれで少しでも千代子の心を軽くしてやれるなら、幼馴染みってのも案外頼りになるんじゃないかなって思わなくもない。……個人的には、あいつの気質が非常に気に食わないから、できることなら余計なことはしないでおとなしくしてもらいたいのだけども。
まあ、千代子が何にも脅かされず、心穏やかに日々を過ごすことができるのなら、おにいちゃんはそれで満足だ。そういうことにしておこう。
……ああでも、やっぱり真金埼が俺より先に行ってるって思うと無性に腹立つな。脳裏に浮かび上がりそうになった仏頂面は、低反発のベットパッドを殴ることで霧散した。
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