第16話 窓越しの/折立君は観測する

  同じ世界で生きる人だとわかってはいるけれど、絶対にお互いの人生が交差することはないとわかる相手は、たしかに存在する。

 僕にとっての真金埼先輩とは、そういう人だ。遠くて、決して触れられない人。窓越しの景色みたいな、遠目から見て、綺麗だなって思う対象。山や海は実際に行ってみればもっと綺麗な景色が見られるんだろうけど、そこへたどり着くまでの道のりが険しすぎるから、僕みたいな凡人は眺めているだけでいいかなって思ってしまう。真金埼先輩と並び立つには、登山やダイビングよりも過酷な試練を乗り越えなければならない──ような、気がする。

 僕はそんな試練をなるべく避けたいタイプだけど、世の中には進んで受けて立とうとする人もいる。そんな物好きさんに、僕は今から声をかける。


「古沢君、久しぶり」


 ん、と仏頂面で振り返ったのは、眞瀬北中の古沢君。不機嫌な訳ではなく、いつもこういう顔をしているのだ。機嫌が悪い時は、もっと纏う雰囲気が刺々しい。

 古沢君とはちょっとした顔見知りだ。通う中学も、住んでいる県も違うけど、仙台での試合で何度か顔を合わせる。同い年ということもあり、何かと話す機会が増えた。


「そっちは県大会に行けるのか」


 汗で濡れた髪の毛を鬱陶しそうに払い除けながら、古沢君は単刀直入に聞く。余計な言葉を付け足さない話し方は、古沢君らしい。


「うん。でも、東北大会まで行くかは微妙かな。真金埼先輩が卒業してからは、前みたいにいかないよ」

「随分弱腰だな。ならお前と話すのはここで終わりか」

「そうかもしれないね」


 今日の大会は任意参加、公式戦とは違う。今月にある県大会前、最後の対外試合だ。

 うちの中学は、少し前──正確に言えば二年前まで、東北大会までは確定で進めると言われる程の強豪だった。真金埼先輩が在籍していた時期は、それこそ破竹の勢いと言うべき成績を修めており、僕も補欠ながら全国大会に足を運んだ記憶がある。真金埼先輩一人の力で行けたというのはあまりにも大袈裟だけど、先輩はそれだけ規格外の人だった。今の剣道部も弱くはないけど、真金埼先輩がいた頃に比べたらずっと勢いが落ちている。

 古沢君は、真金埼先輩に強い憧れを抱いている。こうして話すようになったのも、僕が真金埼先輩の後輩だからというのが大きな一因だろう。同じ中学生とはいえ、当時一年生だった僕らは先輩たちと試合できる機会なんてほとんどなかった。他校生の古沢君なら尚更だ。大体いつも、同学年の選手同士で当たることになっていた。

 今日の大会、高校生の部には、うちのOBたる真金埼先輩も出場している。彼が進学した辰ヶ杜高校はもともと強豪として有名だったが、先輩が所属してからは毎年インターハイへと進んでいた。やっぱり、あの人は頭ひとつ飛び抜けている。


折立おりたては高校でも剣道やるのか」


 相変わらず古沢君はぶっきらぼうだ。でも、言葉の端にちょっとした期待が込められているとわかる。彼と会って話すのは一年に数回の頻度だけど、それでも人となりを理解できるくらいには交流できている……と、思いたい。

 きっと、古沢君は高校に入ってからも剣道を続けるだろう。口に出すことは少ないだろうけど、古沢君は剣道が好きだ。気持ちなら、真金埼先輩と並び立てるくらいに。

 僕は、古沢君や真金埼先輩のようにはなれない。スポーツ少年団の頃から剣道を続けてきて、僕なりにやりがいを感じてはいる。それでも、今よりも自由に部活動が選べる中で、まだ剣道をやるかと問われたら、すぐにはうなずけない。


「まだわからないよ。まずは受験だし」

「……そうか。そうだよな」


 古沢君は隠し通しているつもりなのだろうけど、がっかりしているのが見え見えだ。何だか申し訳ない気持ちになる。

 古沢君くらいの実力があったら、スポーツ推薦も夢ではないだろう。実際、真金埼先輩は複数の高校からスカウトが来ていた。その中で辰ヶ杜高校を選んだ先輩だけど、県内外を問わず、もっと著名な強豪校もあったはずだ。先輩には先輩の考えがあるのだろうけど、彼の選択をもったいないと言う人は少なくなかった。

 まあ、どこへ行こうとも、真金埼先輩の強さは不変のはず。外野はそっと見守るのが一番だ。


「そういえば、古沢君のところって県大会には何で出るの? 去年は個人だった記憶があるけど」


 何となく気まずくて、僕は話題をすり替える。受験も大事だけど、間近に迫っているのは県大会だ。

 剣道の話に戻ったからか、古沢君の表情が僅かに明るさを取り戻す。割とわかりやすいんだよな。


「男子は団体と個人、どっちでも出る。女子は個人だけ」

「ああ、確か女子は人数少なかったもんね」

「いや、今年は女子が一気に四人も入ったから、団体組めるようになった。三位決定戦で負けて、地区大会止まりだったけどな。一年は学年行事と被ったから参加してないだけで、ちゃんと在籍はしてる」

「そうか、どうりで数が合わないと思った」

「うろ覚えのくせに疑問は覚えるんだな。お前ってつくづ、く……」


 僕に対して何か失礼なことを言おうとしたのだろう古沢君は、背後を振り返って硬直した。僕もまた、古沢君が話している途中で突然現れた第三者に圧倒され、言葉を発せずにいる。

 高校生とは思えない程の威圧感と風格、二歳差だとわかっていても信じられない。どこを取っても圧倒的、ピラミッド型の図があったら、必ず頂点にいる人。

 真金埼先輩が、僕らの前に立っている。


「まっ、真金埼先輩! お疲れ様です……!」


 たとえ個人として認知されていなかったとしても、先輩はうちのOB、礼を尽くさなければならない。一拍遅れてしまったけれど、僕は深々と頭を下げた。

 すごくストイックで、自分に厳しい真金埼先輩ではあるものの、後輩にまで己の価値観を押し付けるような人ではない。先輩はひとつうなずき、僕を責めることなく古沢君へと向かい合う。


「三年生の女子部員は二人いると聞いている。今日来ていない方は元気にしているか」

「…………は、」


 憧れの人を前にした古沢君は、すっかり言葉を失っている。ぱくぱくと口を金魚のように開け閉めして、投げ掛けられた問いに答えることすらできていない。

 気持ちはわかる。僕は同じ中学の先輩後輩という立場だったけど、それでも真金埼先輩に話しかけられたら緊張して喉が渇いた。普段から関わりのない、しかも僕よりも真金埼先輩をリスペクトしている古沢君が同じ状況下に置かれたら、固まってしまうのもうなずける。


「む、聞いていなかったか。二年前、合同練習会で地稽古をしただろう。その際に縁あって言葉を交わした。随分と意気込んでいる様子だったから、その後が気になっていたんだ。息災なら良いのだが」

「……宝井……まさか、あいつが……?」


 古沢君は心当たりがあるみたいだけど、にわかには信じられないらしい。眉間にしわを寄せて、苦しそうな顔をする。

 僕は古沢君とならよく話すけど、彼以外の眞瀬北中生とはほとんど関わったことがない。真金埼先輩に強い興味を持っているのは古沢君だけだし、そもそも男女で試合が分かれているから、いっしょに何かすることがあるとすればそれこそ地稽古くらいのものだ。

 だから、僕も驚いた。真金埼先輩が他校生、しかも関わる機会の少ない女子のことを気にするなんて。


「……まあ、元気は元気です。もう引退したんで、こういう場に来ることはないと思いますけど……」


 一生懸命返す言葉を考えたんだろう、古沢君はぼそぼそと自信なさげに答える。いつもなら素っ気ないながらもはっきりとした物言いの多い古沢君にしては、珍しい話し方だ。

 真金埼先輩は、一拍おいてからそうか、と相槌を打つ。凜とした顔付きはおなじみのものだけど、何を考えているかはさっぱりわからない。口数も少ないし、先輩の思考を読み取るのは余程仲の良い人しかできないことだと思う。


「彼女は試合で勝てたのか」


 真金埼先輩の首筋を、つうと汗が流れていく。自分のものだとべたべたして気持ち悪いし、早く洗い流してしまいたいと思うけど、真金埼先輩の付属品となるとすごく綺麗に見えて仕方ない。

 先輩の質問は、古沢君にとって予想外のものだったらしい。腑に落ちないという顔をするも、相手が真金埼先輩だからか、渋々受け答えに応じた。


「何回かは。けど、勝ちっぱなしではないです。注目されるようなことはしてません」

「そうか……勝てたのだな」


 ふっと真金埼先輩の目元が弛む。なかなか見ない、穏やかな表情だった。

 まだ不思議そうな顔をしている古沢君と僕を余所に、真金埼先輩は毅然とした足取りでその場を去って行った。先輩は時間を無駄にしない。要件は以上だったのだろう。


「……俺は、高校でも剣道をやる」


 真金埼先輩の背中が完全に見えなくなってから、古沢君は誰にでもなくそう宣言する。僕は窺うように彼の顔を見た。


「あの人と、まだ話したりないからな。試合で当たったこともない。勝つにしろ負けるにしろ、自分自身が関わらなきゃ意味がない」


 ああ、古沢君は悔しいのだと、その眼差しを覗き見た僕は憶測する。憧れの人が意識を傾けていたのは、自分じゃなかったから。

 僕には、古沢君のような思いがない。高校生になったら、きっと剣道をやめてしまうだろう。

 でも、選手じゃなくなっても。県を跨いで繋がった友達のことは、変わらず応援し続けたいと、傍観者なりに思ったのは紛れもない事実だ。

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