第8話 雷雨/芦口君は策を巡らせる


「む」


 あ、これは喜怒哀楽で言えば喜の「む」ですね。一言かつ表情があまり変わらないので付き合いの短い方はどの感情だろう? と悩んでしまわれるかもしれませんが、僕にはわかります。見えないけれど、顔の周りに喜びのお花が舞っていることだって、すぐに感じ取れます。

 真金埼先輩は、僕にとって憧れの人です。同じく剣道部に所属しており、先輩以降は意という立ち位置にある僕らですが、ただの先輩で済ませるにはもったいない人だと思います。僕も、先輩、なんて軽々しくお呼びするのは恐れ多いので、初めは敬意を込めて賢台と呼称させていただこうと思ったのですが、真金埼先輩は先輩呼びの方が好ましいとのことだったので、謹んで先輩とお呼びさせていただいております。

 さて、今は部活動が終わり、更衣室で下校の支度をしているところ。天気予報では一日晴れとのことでしたが、局地的なゲリラ豪雨でしょうか。外からは雨音だけではなく、雷鳴も聞こえます。余程急ぎの用事でもない限り、雨脚が弱まるのを待ってから下校した方が良さそうです。

 いつ何が起こっても良いように、僕は大抵のものを普段から取りそろえています。折りたたみ傘もばっちりです。しかしひとつしか持っていないので、いざという時は真金埼先輩にお貸しして、僕は走って帰らなければなりません。貸さないという選択肢は、端からないのです。

 これは僕にとっては当たり前のことなのですが、周囲の──特にチームメイトの皆さんからは、まるでマネージャーだと評価されます。剣道部にマネージャーはおらず、僕もれっきとした選手の一人なのですが……ここまで献身的な部員はなかなかいない、とのこと。僕としてはあまりピンときませんが、悪い意味ばかりではないのでしょう。これからもマネージャーに負けない働きで、真金埼先輩をサポートしていく所存です。

 そうこうしているうちに、真金埼先輩は着替えを終えていました。荷物を手に取り、更衣室を後にします。先輩はいつも自己研鑽を欠かさず、練習が終わってからも自主練をしてから帰るため、専ら戸締まりを担当しています。いずれは部長となる方ですから、練習場の管理をしないに越したことはありません。僕も必要とあらばつつがなく対応できるよう、今のうちから手順を学んでおかなければ。


芦口あしのくち


 ここで真金埼先輩が僕に呼び掛けました。はい、と間を置かずに返事をすると、先輩は泰然自若とした中にほんの僅かな期待を込められた様子で、僕へと問いかけます。


「今日は傘を持参しているか」

「はい。ご入り用でしょうか」

「いや……持っているなら問題ない。忘れてくれ」


 真金埼先輩は短く告げると、ふいと顔を逸らしてしまいました。不満や苛立ちは見受けられませんが……どことなく、悲しげなお顔をされているように見えます。

 もしや僕は、返答を間違えてしまったのでしょうか。

 真金埼先輩は一度の過ちで他人を責め立てるような方ではありません。今だって、何事もなかったかのように昇降口へ歩を進めています。僕がただ、うじうじと悩んでいるだけです。

 マネージャーのようと形容されたからには、真金埼先輩に対して当意即妙に対応しなければなりません。誰に課せられた訳でもないけれど、僕が納得いかないのです。同じ道場で学び、鍛練を積んできた者として、僕は真金埼先輩の手を煩わせたくはありません。

 そうこうしているうちに、僕たちは昇降口へと到着しました。雷雨はまだ収まる気配がなく、もう七月だというのに外は真っ暗です。日の入りが遅くなったとはいえ、雨雲に隠されれば一気に夜のようになるものなのですね。


「千代子」


 素早く靴を履き替えた真金埼先輩は、一直線にある方向へと歩みを進めました。急いでその後を追うと、そこには小柄な──小さい小さいと言われる僕よりも背の低い、一人の女の子がいます。

 千代子、というのが彼女の名前なのでしょう。うちの制服ではありませんから、他校生だと一目でわかります。本来ならば関係者以外が校内に立ち入ることは認められていませんが……この天気に加えて、待ち合わせ相手が比類なき剣の才を持つ真金埼先輩だということもあってでしょうか、守衛さんは彼女を通したようでした。


「わざわざすまない。濡れていないか」

「気にしないで。おばさんにはお世話になってるし……この前は、こっちに来てくれたから。そのお返しみたいなものだよ」


 なるほど──もしかしたら彼女が、真金埼先輩が度々口にされている幼馴染なのかもしれません。

 千代子さんは僕の存在に気付いたのか、ぺこりと軽く会釈をしました。見た目で人を判断するのはよろしくないと理解していますが、真面目そうな出で立ちに見合った礼儀正しい方のようです。

 真金埼先輩を慕う方々の中には、己こそが先輩の一番になりたいと思われる方もいらっしゃいます。彼らの気持ちは痛い程よくわかりますが、時に同志や、真金埼先輩と親しい方を妬むが故に攻撃的な言動を見せるのは、いかがなものかと思うのです。真金埼先輩とて、意思を持つ一人の人間。個人的な交遊関係をお持ちでも良いと、僕はそう考えています。

 何より、これまで幼馴染の話をされる真金埼先輩は、総じて感情表現が豊かでした。それだけ、先輩が心を入れ込んでいるということなのでしょう。僕は嬉しく思います。そして、真金埼先輩がその幼馴染の方と、いつまでも仲良くいられることを願ってやみません。

 千代子さんが件の幼馴染かはさておき、彼女を見つめる真金埼先輩は優しげな眼差しを注いでいます。どれだけ親しくとも、この学校に同じ視線を注がれる相手はいないことでしょう。故に、僕はこう推測します──千代子さんは、真金埼先輩の唯一無二なのではないかと。


「最近の学校はどうだ」


 雨が弱まるまで待つつもりなのでしょう。軒下で並びつつ、真金埼先輩は簡潔に問いかけます。それは同年代の幼馴染に向けるもの──というよりも、親子の会話のようです。


「学校か……特にこれといった問題はないよ。真金埼君が心配するようなことは何も──あ、」


 こういった質問には慣れているのか、千代子さんの受け答えはごく自然なものです。何やら話題を思い出したのか、彼女は僅かに視線を上げてから切り出します。


「この前ね、私の机にラブレターが入ってたよ。びっくりしちゃった」

「!」


 千代子さんにとっては、何気ない世間話のつもりだったのでしょう。しかし、この話を耳にした真金埼先輩はというと、目の前にきゅうりを置かれた猫のように驚愕をあらわにされました。言葉はなく、微動だにしませんでしたが、僕にはわかります。ここまで動揺する真金埼先輩はなかなか見られません。


「本当は、私の前の席の子に渡すつもりだったみたいだよ。そんなことだろうとは思ってたけどね。でも、本当にラブレター書いて入れる子っているんだねえ」


 千代子さんが見つけたラブレターは彼女宛のものではなかったようですが、真金埼先輩はきっとそれどころではないのでしょう。置物のように硬直してしまっています。効果音で表すなら、ポカーン、です。目を見開き、口は半開き。ご友人や部員の皆さんが目の当たりにしたら、真金埼先輩以上のリアクションを示すかもしれません。

 ここで僕は察してしまいました。真金埼先輩は、千代子さんに並々ならぬ思いを抱いているにちがいありません。

 一括りに恋愛感情と断定するのは早計です。しかし、こうも心動かされている真金埼先輩を前にしては、疑惑が確信に転じざるをえません。


「そろそろ行けそうだね。帰ろうか」


 真金埼先輩は誰の前でも寡黙なのか、千代子さんが黙した先輩にかかずらう様子はありません。傘を手渡し、自分の分の傘を開きます。

 このままではいけない。部外者ながら、僕は焦りを覚えました。真金埼先輩の口数が少ないのは通常運転ですが、この時ばかりは悪い方向に働いています。


「あれ? おかしいですね……傘が開きません」


 それ故に、僕はお節介ながらも先輩に助け船を出すこととしました。僕の持つ折り畳み傘は問題なく使用できますが、ここは一時的に調子が悪いという体でいきましょう。

 長らくフリーズしていた真金埼先輩は、慌てる僕の姿を前にして我に返ったようです。大きな体を屈めて、様子を窺ってきます。その後ろから、千代子さんがひょこりと顔を覗かせました。


「壊れたのか?」

「どうでしょう……この間は問題なく使えたのですが、何か引っ掛かってしまったかもしれません。もう少し雨が弱まってから、走って帰ります」

「俺の傘を使え」


 計画通りです。本音を言えばガッツポーズをしたいところですが、試合中と思って我慢します。

 真金埼先輩は寡黙な性分でいらっしゃいます。それで迷惑をかけている訳ではないし、千代子さんも受け入れてくださっている模様ですが、彼女にアプローチを仕掛けるにしてはデメリットになる機会の方が多い。感情の起伏が人より薄いことも、これに作用していると考えられます。

 では真金埼先輩のアドバンテージとは何か? それは、千代子さんの幼馴染という称号です。ただの同級生であればなかなか許容されない距離感でも、幼馴染であればするりと入り込めます。親御さんに容認されているのならば尚更です。普段から交流があるとすれば、家同士も近いにちがいありません。

 であれば、すべきことはひとつ。この雨天さえも味方につけてしまえば良い──いわゆる相合傘です。


「そんな、わざわざ申し訳ないです。先輩のお手を煩わせる訳には……」


 まずは固辞の姿勢を見せますが、実のところは形だけ。ここですぐさま首を縦に振れば、いつもと様子が違うと怪しまれかねません。


「後輩の面倒を見るのも俺の仕事だ。雨に打たれて体調を崩したらどうする。傘なら次に雨が降った時にでも返してくれれば良い」

「そうですよ、遠慮しないで。私は部活に入っていないから、少し風邪を引いたくらいでどうということはありません」


 お二人の気持ちはありがたいのですが、千代子さんの認識には少々──いえ、かなりの問題があります。まさか、真金埼先輩お一人に傘を預けて、自らは雨に濡れて帰るおつもりなのでしょうか。

 これには真金埼先輩も納得できなかったのか、む、と不満げに唸られました。本日二度目の『む』です。


「それはいけない。お前が風邪を引いたら俺はどうなる」

「え……? うつらないように距離を取ればいいのでは……?」

「もっといけない案を出すな。より良い手がある」


 ああ、真金埼先輩の凛々しい眉がきゅっと寄っておられます。大抵のことでは心を乱さない先輩ですが、千代子さんが関わると気を揉まずにはいられないようです。


「同じ傘に、二人で入れば良い。それならお前も芦口も、雨に打たれず帰れる」


 そして、僕の思惑は先輩に伝わっていた様子。目標達成まであと一押し、といったところでしょうか。

 千代子さんは何度か瞬きすると、困ったように僕と真金埼先輩を交互に見ました。何の差し障りがあるのでしょう。まさか、真金埼先輩と同じ傘に入るのはお嫌なのでしょうか。


「たしかに、道理にはかなってるけど……でも、私、真金埼君に比べたら、見ての通り小さいし……。真金埼君、かなり屈まないといけないかも……」

「俺が傘を持てば良いだけの話だ。それとも、同じ傘に入るのは嫌か」

「嫌って訳じゃないよ。ただ、真金埼君に傘を持たせるのは、申し訳ないというか……」

「幼馴染に要らぬ気を遣うな。嫌でないならそれで良し。帰るぞ」

「な、なんか、今日は強引だね……? 急ぎの用事でもあるの……?」


 僕の目の前では、真金埼先輩が傘を持っていない方の手で千代子さんの手首をやんわり──力加減していると露骨にわかる手付きで──掴むという劇的な光景が繰り広げられている訳ですが、この程度のスキンシップは日常茶飯事なのでしょうか。千代子さんは全く動じません。むしろ真金埼先輩の様子に違和感を覚える程の余裕。これは果たして単なる鈍感で済ませて良いのでしょうか?

 かくして、二人は相合傘にて帰路につかれました。僕はその様子をしばらく見送った後、ありがたいことに拝借することとなった真金埼先輩の傘を堪能しながら下校することとなったのです。

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