第2章 9話「淡路の使い」

 なにもかもが変わってしまった。もう元に戻すことはできない。

 なにも考えずに野山を駆け回っていた頃には戻れないのだ。

 今思えばあの頃は、不安など存在しなかった。

 ただ日々を消費し、目の前に存在するものだけを見ていればよかったのである。

 しかし、世は変わる。年月は流れる。

 この大地も、年が明けたら芽吹くように、われらも芽吹き、いつかは枯れる。

 それだけのことだ。

 正しいことなんて、誰にもわからない。誰も教えてはくれない。

 われが劣っているわけでもなければ、われが優れているわけでもない。

 あえて言うならば、必要なのは、向き合う覚悟だ。



 しばらく、日々の雑務に追われた。

 父上の遺言どおりであるならば、難波津の務めを隼別に引き継がなければならない。

 隼別を難波に呼び、仕事を見せた。

 相変わらず、ハキハキと威勢のよい弟であった。

 稚郎子がスメラミコトに即位したという報は、未だ届かなかった。

 しかし、以前のように苛立たせることはなかった。稚郎子にも事情があってのことなのであろう。異母兄とはいえ兄上を討ってしまったのだ。混乱するのも致し方ない。ここは焦らず待とうと、何度も自らに言い聞かせた。

 ただ、日が経つにつれて、大鷦鷯をスメラミコトと思い高津宮に謁見に訪れるものがあっては、さすがの大鷦鷯も参った。

 大鷦鷯はその都度、直接殿上に出向き説明した。

 先日の淡路からの海人の使いもそうであった。


「こちらをスメラミコトさまに献上しにやってまいりました」


 男は大きな器に乗せられた魚介類を差し出した。

 海辺の男らしく、陽の焼けた屈強な男が嬉しそうにこちらを見上げていた。


「すまぬな。われはスメラミコトではないのや」


 大鷦鷯は率直にそう詫びて、差し出されたものを引き下げさせた。

 男は事態を飲み込めぬようで、うしろについている従者の方を向き、「あっしが聞き間違えたのか?」と問うた。従者は首をかしげるだけであった。


「手間をかけさせたな」


 大鷦鷯は殿上を下りると、海人の前に座り込んだ。海人と従者は驚いて見た。


「ほら、われはスメラミコトではないからこんなことができるのや」


 二人はふむふむと頭を上下に振った。


「菟道の桐原日桁宮を訪ねてくれ。その主である稚郎子がスメラミコトであるのだ」


 男は嬉しそうな顔をして、「はい。そのようにいたします」と頭を下げたのであった。



 それから数日してのことだった。

 謁見のものが訪れていると伝えられたので、「またか」と大鷦鷯に言いながら殿上に出てみると、あの先日引き下がらせた淡路の海人と従者であった。男は申しわけなさそうに頭を下げ、人懐っこい笑みを浮かべながら大きな器を差し出し言った。


「あっしら、言われたとおりに菟道の稚郎子さまの宮へ向かったのでありますが、稚郎子さまにお会いすると、スメラミコトは大鷦鷯さまであるとおっしゃられまして。それで急いでこちらに戻ってきたわけであります」


「なにっ!」


 大鷦鷯が思わず凄むと、男と従者は「ひっ」と声をあげ、体は座ったままでうしろに引き下がった。

 大鷦鷯は体を震わせた。あの稚郎子め。準備に手間がかかっておるとみて待っておったのに、われがスメラミコトだと。やっていることと言っていることがあべこべではないか。ではなぜ、兄上を討った。それほどまでしてスメラミコトを辞退したいのなら、兄上に頭をさげ座を譲ってやればよかったのだ。


「それは間違いなのだ」


 大鷦鷯も意地になった。

 男は顔をあげ、従者と顔を見合せた。


「まことに悪いが、勝手にわれがそれを受け取ることはできぬ。もう一度菟道に向かってくれないか」


 極めて冷静を装い、穏やかな声でそう言った。

 そして大鷦鷯は頭をさげた。

 悲鳴をあげて後ろに引き下がったのは男と従者である。


「わかりました。もう一度向かいます。どうか頭をあげてください」


 男が泣きそうな声で懇願した。

 大鷦鷯は顔をあげた。


「すまぬな。今度はわれの使いも一緒に行かそう」


 そう言うと、男と従者は少し安堵する表情になった。

 しかし、やはり数日して男たちは戻ってきたのであった。

 大鷦鷯が殿上で迎えると臭気がした。何度も難波と菟道を行き来するうちに魚介類が腐ってしまったのだ。


「どうか、スメラミコトさま、これを受け取ってくだされ」


 海人の男は、うつろな目をして訴えた。

 大鷦鷯は一緒に行かせた使いの舎人に目をやった。舎人はただ首を横に振るだけであった。


「困ったな…」


 大鷦鷯は大きくため息をつき、腕を組んだ。


「もう魚は腐ってしもうた。こんなんじゃもう淡路にも帰れん!」


 海人の男がとうとう、「うわーん」と大声をあげて泣きだしてしまった。

 何事かと驚いた舎人が宮中から集まり、男に向かって槍を突き立てた。


「待て待て。大丈夫だ」


 大鷦鷯は手を振り、舎人に槍を下ろすように指示してから、


「わかった。わかったからもう泣くな」


 と殿上を下り、海人の男の肩をやさしく撫でた。

 男は次第に声を小さくし、肩で息をしてシクシクと息をひきつらせた。

 ガタイはあるのに女子のようになく男であった。

 しかし、それも仕方ないかもしれない。すべてわれと、そして稚郎子のせいだ。

 大鷦鷯は唇をかみしめ、こぶしを握りしめて言った。


「わかった。もう泣くな。今度はわれも一緒に菟道へ行こう。だから今日のところはゆっくと休め」


 舎人たちが驚いて顔を見合わせた。

 海人の男は泣きっ面の顔をあげ、「へっ」と驚いたあと、大鷦鷯を見た。

 大鷦鷯は、「うむ」とうなずき返した。

 すると男が、「嬉しい!」と言って大鷦鷯に足元に抱きついた。

 足を締め付けられ、大鷦鷯は「うぎっ」と声をあげた。

 舎人が一斉に男に向かって槍を突き立てる。

 大鷦鷯は振り返り、「大丈夫だ」と手を振り、また舎人の槍を下ろさせたのであった。

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