第2章 10話「仁と徳のあるもの」
大鷦鷯は海人の男たちと共に、菟道川の津に着いた。
菟道は初めて訪れる地であった。目前を流れる川は、東の穏やかな丘陵から流れてきて、下流の方は景色が一気にひらけている。流れは穏やかそうに見えたが、川幅は広く、底も深そうであった。
兄上が沈んだ川…。
大鷦鷯は静かに目を閉じ、柏手を打った。
かつては父上も、敦賀へ行幸の際にこの地を訪れ、その時に和邇の矢河枝比売と出会ったのだ。淀川から近江湖、そして敦賀へつながる路。ここから南下をすれば山背を越えて大和へ入る。重要な拠点であった。
今更ながら、父上もただ矢河枝比売に惚れただけではなかったのではないかと想像する。より大和を強固にするために難波と菟道を抑えようとしたのではないか。そして稚郎子をスメラミコトに…。
もちろん、真意はわからない。しかし、この地に自らの足で立ってこそ、わかってくる感覚であった。
稚郎子の居住である桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)は目と鼻の先にあった。
大鷦鷯はひとまず津に海人らを待たせ、舎人と共に宮に向かうことにした。
門を目指し歩く。すぐに着いた。
しかし、異様な雰囲気に大鷦鷯と舎人は立ち止まった。
門番をしているはずの舎人の姿がないのだ。無人である。
舎人が先に門をくぐり、様子を伺い異常がないことを知らせた。
おそるおそる大鷦鷯も門をくぐる。
宮の中も人気がなかった。
大鷦鷯が真っ先に思い浮かんだのは、稚郎子が逃げたのではないのかと言うことである。
すると殿上に人影があるのに気付いた。大鷦鷯は近づき見上げた。
女子が二人立っていた。まだ幼い二人であった。
片方は背が少し高く、妙に大人びな顔つきでこちらを見下ろしている。
大鷦鷯は直感した。この女子二人は稚郎子の妹に違いないと。
「われは稚郎子の兄の大鷦鷯である」
大鷦鷯がそう大きな声で言うと、大人びた方の女子がうなずき、
「わたしは稚郎子の妹の八田媛と申します。こちらは妹の雌鳥(めとり)」
と名乗った。雌鳥と呼ばれた妹は姉の体に隠れるようにして怯えた顔をしていた。すると、宮殿の中からぞろぞろと人が出てきた。舎人や女孺であった。
「稚郎子に会いにきたのだ」
他にもいろいろ尋ねたいことはあったが、大鷦鷯は率直に目的を告げた。
舎人と女孺はざわついたが、八田媛は表情を変えず、ゆっくりと首を振った。
大鷦鷯は、「なぜだ!?」と凄み、
「われがここまで来たのだ。なにがなんでも稚郎子に会わせてもらう」
と殿上の階段を駆け上った。
しかし、八田媛は迫る大鷦鷯に動じることなく言った。
「それは叶わないのでございます」
「なぜや…。兄は怒っていると伝えてくれ。われはそう簡単に帰らんぞ。なんなら無理にでも入る」
大鷦鷯は殿上に登り切り、そう息巻いた。しかし、八田媛は表情を変えることもなく、ただこちらをじっと見て言った。
「今朝、兄上さまは帰らぬ人となりました」
「なにっ」
やはり逃げたのだ。
稚郎子の奴め。なんという無責任な弟だ。兄上を討っておいて。決して許せぬ。
「どこに逃げたのだ!」
大鷦鷯が大声をあげると、驚いた舎人が八田媛に駈けつけようとした。しかし、当の八田媛は動じることなく、大鷦鷯の目をじっと見て言った。
「兄上さまは…、自らの胸を刺して自害したのでございます」
「へっ…」
八田媛が淡々とまるで何事でもないかのように話したので、大鷦鷯は一瞬その言葉を理解できなかった。
「今、おぬし、何と言った…?」
「兄上さまは、今朝自らの胸を刺して自害し、帰らぬ人となったのでございます」
「………」
どうして、この娘はそんな恐ろしいことを淡々と表情も変えずに言えるのだ。
稚郎子が自ら胸を刺しただと!?
…いや、待て。きっとこれも稚郎子の策略だ。
われを帰させるつもりなのだ。騙されぬぞ。
「われはそんな下手な嘘に騙されんぞ。なぜ稚郎子が自害せねばならん」
大鷦鷯も極めて冷静さを装い、ふんと鼻で笑いながら言った。
しかし、声が少し震えた。嘘であってほしいと、期待があるのは否定できなかった。
「お会いになりますか?」
八田媛が言った。
「会えるのか…?」
どういうことだ。やはり自害した…というのは嘘だったのか。
八田媛がなにを言っても調子を変えないので、言葉の真意が掴めない。
「えぇ…。兄に“会う”ことは出来ます」
八田媛は少し抑揚をつけてそう言った。
「…では、会わしてくれ」
「どうぞ、こちらへ」
八田媛が宮殿の奥の間へと案内した。
稚郎子は奥の間で仰向けに横になっていた。体には布が被せられている。
ただ眠っているように見えた。
兄であるわれが自ら来ているというのに、なにを腑抜けようにまだ寝ているのだと、大鷦鷯は自らに言い聞かせるように内心で悪態をついた。
しかし枕元に近づき、稚郎子の横に座って顔を間近で見た時、これはただ眠っているのではないということはすぐにわかった。父上が薨去した時と同じだ。身動きせず固く閉じられたまぶたは、生きているもののそれではなかった。もう二度とこのまぶたが開かぬことは理屈ではなく理解できた。
「ここのところ兄上さまは、膳も喉が通らないほど思いつめておりました」
八田媛が淡々と言った。
「なぜだ…」
大鷦鷯は稚郎子の体を揺さぶった。しかし、稚郎子のまぶたは固く閉じられたままで、目を覚ますことはなかった。
本当に稚郎子は死んでしまったのだ。自らの手で…。
「われのせいだ…」
大鷦鷯は声を震わせて、頭を垂れた。
そして自然と涙がこぼれた。
八田媛と目が合った。泣いている姿を見られてしまった。
しかし、八田媛はまったく意に介することもなく、「兄上さまはそのようには申しておりませんでした」と言った。
そんなはずはない。大鷦鷯は自分の愚かさと、自分が最も思い上がっていたことを思い知らされされていた。大長守にしても稚郎子にしても、互いに命をかけるほど真剣にこの世の行く末を考えていたのだ。だから…。それに比べ、われは…。
その時であった。息を切らせ部屋に舞い込んでくる者がいた。
大鷦鷯は目元をぬぐう。男は大鷦鷯のことにもは目もくれず、稚郎子の亡骸の前にひざまつくと、おうおうと慟哭した。
八田媛が、呆気にとられている大鷦鷯に向かって紹介した。
「王仁(ワニ)博士でございます」
大鷦鷯は再度、慟哭する男を見た。この者が、あの稚郎子の学びの師として異国から招いたという学者なのか…。師と訊いて、勝手にお爺のような白髪頭の年寄りを想像していたが、王仁は髭こそたくわえていたものの、思いのほか若く見えた。背筋も通っている。彫りの深い顔つきは異国のものの特徴を表していた。
王仁は顔をあげ、大鷦鷯を見た。
目は、誰だ?と言っていた。
すかさず八田媛が、「稚郎子の兄上の大鷦鷯さまでございます」と紹介した。
王仁は驚いた顔をした。
そして、王仁は身を正すと、
「アナタが稚郎子さまの…」
「あぁ、われが大鷦鷯である」
「稚郎子さまから立派な兄上がいると聞いておりました」
王仁は流暢な倭国の言葉を話した。もちろん、異国のもの独特の訛りは少しはあったが問題なく伝わった。大鷦鷯はここまで流暢に倭国の言葉を話す異国のものを見るのははじめてであった。まだ倭国に来てそれほど年月は経っていないはずなのに。さすが師と言われるだけのことはあるのか。
「ワタシは心配していたのです。稚郎子さまはずっと思いつめておられて…」
王仁は悔しそうに顔を歪めた。
「しかし、われには理解できぬ。兄上である大長守を討っておいて、なにをそんなに思いつめなかればならぬのか…」
大鷦鷯が言うと、王仁は首を横に振った。
「あれは事故であったのでございます」
「なにっ!?事故であったと?」
王仁はうなずいた。
「えぇ。稚郎子さまは長子こそが継承すべきだと考えでありました。なので、兄である大長守さまが挙兵したと聞き、継承を譲るおつもりであった。宮に招き話をしようとしていたのです。しかし、迎えにいった稚郎子さまの姿を見られて、驚いた大長守さまは船から落ちた…」
「まさか……」
大鷦鷯は、開いた口が塞がらなかった。
「その、まさかなのであります」
王仁の表情から、嘘を言っている雰囲気ではなかった。
「稚郎子さまは、わたしが持ってきた孔子による論語からおよび儒学を学ばれた。儒学においては長子こそが王の後を継ぐことになっております」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。われはそんなものは学んでおらんのだ。こうし…やらじゅがくなど知らぬ言葉を言われても理解できぬ」
「孔子とは、かつて大陸の国におられた偉大な思想家でおられます。そんな難しいものではありません。孔子の残された言葉は、ただわれわれの生きる指針になるべき教えが残されておるのです」
「以前、稚郎子が言っておった…。仁とか徳とか…」
「ほう…。よく御存じではありませんか」
「いや、われは稚郎子が話しておったのを聞いただけや。万民を治めるものには、民が喜んで従うものがないと天下は安らかにならないとか…」
「徳とは最高の人としてのあるべき姿。仁は五常の徳と言ってその中に含まれておるもの。仁とは、つまり他者へ対する思いやり。孔子の道徳の根本原理とされ、親に親しむという自然の親愛の情を万人にひろめ、及ぼす道徳的心情であります。孔子は仁をもって最高の道徳であると説き、日常においては遠いものではないが、しかし容易に到達できぬものと考えた」
大鷦鷯は頭が痛くなってきた。稚郎子と話したあの時の感覚だ。
しかし、王仁の言っていることは意味不明の言葉も多かったが、不思議と理解できた。
「己れの欲せざるところ、これを人に施すなかれ、というのがもっともわかりやすいでありましょうか。つまり、自分を相手の立場に置いてみて、してほしくないと感じることはしてはならない」
お爺が怒った時に言う文句のようであった。
「孔子が説いたのは。世の中の乱れは、他人を思いやる愛情が失われていったことが原因で、真心や思いやりを大切にして人を愛する心をとり戻すことが何よりも必要だと説いたのでありマス。仁にもさらに、具体的には孝悌、克己、恕、忠、信という個別の現れ方をするのだと説かれており…」
「わかった!わかった!もう、そんな一気にしゃべらんといてくれ」
大鷦鷯が手を振って言うと、王仁は口を閉じた。
そして、少し顔をほころばせた。
「それほど難しいことではないのです。孝とは子が親に尽くすこと、悌(てい)とは、弟が兄に尽くすこと。克己(こっき)は私利私欲をおさえること、恕(じょ)は他人に対して思いやりをもつこと、忠は自分の心に素直なこと、信は、人をあざむかないこと…」
「…まるで当たり前のようなことばかりであるな」
「ほう。当たり前と考えるでおられるか。しかし、当たり前のことこそ、この世で成すのはもっとも難しくあるのです。そう成せるものはおりませぬ。外に現れる行動は礼とされます」
疑問に思ったのは、そのような教えを学んだ稚郎子であるのに、なぜ自ら命を絶つという強行に走ったのかということだ。
「どうしました?」
王仁が問うてきた。
「いや、稚郎子の言動とつじつまが合わないような気がしてな」
「鋭いでございますな。本当に儒学を学んでおられなくて?」
大鷦鷯はうなずく。
「だからこそ、稚郎子さまは思いつめらておられたのです。世の中は、そう自分が思うようには事は思い運ばないということ。今思えば、稚郎子さまを思いつめさせたのは、ワタシの責任でありましょう」
大鷦鷯も、うすうす本音ではそう感じていた。しかし、王仁が自分で認めたので、なにも言えなかった。
「この倭国に、大陸の教えに沿おうとしても、無理は生じるでありましょう。長子ではなく、末子が後を継ぐと言うも、息を長くする意味ではよいのやもしれない。なにより、稚郎子さまにとっては、孝である親が残した言葉を重んじなければならない、しかし、おのれの信念も曲げたくはなかった。稚郎子さまは、長子より、自分の兄である…」
王仁がこちらを見る。
「大鷦鷯さまこそが相応しいと考えられておられた」
「われは、稚郎子こそが相応しいと思っておった…」
「稚郎子さまはとても聡明でありながら繊細なお方であられた。繊細すぎた…。失礼ながらわたしが思うに、万民を治めようとする王には相応しくはなかったでしょう。もちろん、そのことは、稚郎子さまが一番よくわかっておられた。しかし、長子である大長守さまが、こちらを討つために向かっているとお聞きになり、考えを改めようとしたのです。本当に守るべきなのは、おのれの私欲より、やはりこの倭国なのでありますから。だから、稚郎子さまは大長守さまに継承を譲られようとなされた。しかし……」
「川岸には、稚郎子側の兵もいたと言うぞ?」
「それは万が一に備えてのことです。霧が出たことが誤解を生む結果に…」
「……」
「なによりも稚郎子さま倭国のことを考えられておられた。倭国の行く末を憂いておられた」
王仁は、稚郎子の亡骸の方を見た。大鷦鷯も視線を寄こす。
安らかに眠るその姿。この弟がそれほどの葛藤を抱えていたとは…。あの生意気な姿からは想像できなかった。
「ワタシも思う。あなたこそがふさわしいと」
王仁は振り向き大鷦鷯を見た。
そこには泣き腫らした目ではなく、力強い目があった。
大鷦鷯は、われはそんなにすぐれたものではない…と言い返そうとしたが、なにも言えなかった。
「この世のことを、知れば知るほど、虚しくなります」
王仁は独り言のように続けた。
「ワタシは言いました。西に向かえば、そのような稚郎子さまの求める答えがあるかもしれないと」
「西…?」
「そう、大陸の遥か西へ…、稚郎子さまは、大陸を旅したいと話してました」
「まさか、稚郎子が先陣を切って戦に行くと?」
「ははは。いえいえ…、そうではありませんよ」
王仁は鼻をすすり少し笑った。
「異国をその目で見てみたかったのです」
「それほどまでに思いつめていたのなら、行けばよかったのに」
王仁は首を振った。
「それができぬ人であったから、思いつめておられたのです」
「…稚郎子は、われのことはなにか言っておかったか?」
「稚郎子さまは、大鷦鷯さまに憧れておられた」
「憧れ…。われに?」
大鷦鷯は不覚にも笑い出しそうになってしまった。
しかし、王仁は真顔で、
「悲しい事です…」
とうつむき、顔をあげると「でももうあなたも迷うことはないでしょう」と言った。
「……」
「もう陽が暮れます」
唐突に声がして、大鷦鷯と王仁は振り向いた。
声の主は八田媛であった。
「もう今日はお休みになっては」
王仁は、「わたしは稚郎子さまに一晩付いていてあげたい」と言った。
八田媛は、ただうなずき、大鷦鷯を見て促した。
「われは休みたい」
八田媛はうなずき、そして、大鷦鷯を宮内の離れの屋敷に案内した。
「明日、起こしにきますので」
八田媛はそれだけ言うと、出て行った。
大鷦鷯は横になりそうになって、なにか重要なことを忘れているような感覚がしてずっと考えた。そして、思い出した。
「あの海人のことや!?」
大鷦鷯は舎人を呼びつけ、事の経緯を津にいる海人たちに伝えてくれと伝言した。舎人は「はっ」と答えると、屋敷から走って出て行った。
「兄上…」
そう呼ぶ声で、大鷦鷯はうつむいていた顔をあげた。
そこには寝床から上半身を起こした稚郎子の姿があった。
「兄上。わたしに会うために来てくれたのでございますね」
「お、おぬし、生きておったのか…」
大鷦鷯は驚いて仰け反り、稚郎子を指さした。
しかし、稚郎子は微笑みゆっくりと首を振ると、
「わたくしの命はここまでだった、というに過ぎないのでございます。これは天が決めたこと。兄上がスメラミコトになるのなら、それはわたしの本望なのでございます。わたしが唯一、心残りがあるとすれば…」
稚郎子が視線を動かせた。大鷦鷯もそちらに目をやる。八田媛が座っていた。
「八田媛は、令しくよくできた妹でございます。でもきっとわたくしがいなくなれば、毎日寂しがることでしょう」
八田媛と目が合った。
大きな瞳が見つめていた。しかし、表情はひとつも変えない。
「どうか、兄上が娶って代わりにそばにいてあげてほしいのでございます」
「…待て!お、おぬし、勝手なことばかりを言うな」
大鷦鷯は、稚郎子ににじり寄り手を取った。
「はっ!」
にぎった手の冷たさに、大鷦鷯は思わず息を飲み固まった。
「もうわたしはここにいることはできません。先に去ることをお許しください…」
稚郎子はなぜかまた微笑むと、ゆっくりと目を閉じ、体を横にした。
「待て!行くな!」
大鷦鷯は稚郎子の体を掴み、揺さぶった。
顔を叩きもした。
その凍てつくような冷たさは手に感じていたが、構わず叩いた。
しかし、その大鷦鷯の手を掴み止めるものがいた。八田媛であった。
大鷦鷯が振り向くと、八田媛は相変わらず顔は無表情のままで、首だけを振った。
「……」
この時はじめて、八田媛の瞳の中に悲しさを宿していることが感じられた。手も必死さを感じる力がこもっていた。
大鷦鷯は思いを改めた。八田媛は、ただ感情を表に出さぬだけで、内で感じているものはわれと同じなのだ。
「痛い…」
大鷦鷯がそう言うと、八田媛は手の力を抜いた。
稚郎子はもうまぶたを固く閉じ、身動きすることもなかった。
大鷦鷯はしくしくと泣いた。自然と涙がこぼれた。
悲しみ。いや、悔しさ。
理不尽なすべてに対する怒り?
八田媛がとなりにいるので止めたかったが、止めることはできなかった。口を開くこともなかった。
「われは兄上と弟を同時に失った…。これからどうすれば…」
八田媛が寄り添い肩を撫でた。
こんなまだ女子に慰められるとは、なんと情けない話。
われが不甲斐ないばかりに…。
「うっ…うっ…」
大鷦鷯は屈し、慟哭した。
目をあけると、薄暗い天井が見えた。
ここがどこなのか、いつなのか一瞬わからなかった。しかし、次第に状況が理解できた。
「夢であったのか…」
大鷦鷯は、そうつぶやき体を起こした。
目になにか湿るものを感じた。手の甲でぬぐう。
今見た夢を思い返した。夢の中とはいえ、女子の前で憚らず泣いてしまうとは、一生の不覚であった。
大鷦鷯は、しばらくぼんやりと壁を眺めた。妙に現実味がある夢だった。まさかな…と思いつつ、すぐにため息をつく。
「お目覚めになったのでございますね」
うしろから声がして、大鷦鷯は驚いてうしろを向いた。
八田媛であった。部屋の外に座っている。大鷦鷯は妙に恥ずかしさを感じて、「おぬしであったか」とつぶやき目を反らせた。
「なにか不都合はありましたか?」
八田媛が訊く。
「いや…」
…なにもないと言いかけて、やはり気になり、
「稚郎子はあのままか?」
と尋ねた。
八田媛と目が合う。
大きな瞳がこちらを見ている。
相変わらずの無表情だが、たしかに令しい女子であった。
八田媛は「はい」と答え、首をかしげた。
「いや…不思議な夢を見てな。稚郎子が生き返る夢で…」
自分で言いながら、内心で笑った。われは何をまぬけなことを言っておるのだ。案の定、八田媛が思いつめるような顔でこちらを見た。
「すまぬ。変なことを申して…」
「…わたくしもその夢を見ましたのでございます」
「えっ」
大鷦鷯は驚き八田媛を見た。しかし、八田媛は平然とした顔をしている。
「同じ夢を見たやと…?」
八田媛は小さくうなずいた。
「稚郎子が起き上がり、自分の命はここまでであった。天が決めたことと…」
大鷦鷯がそこまで言うと、
「唯一の心残りがあるならば、わたし…八田媛を娶りそばにやってほしいと」
と八田媛が続けた。
「まさか…」
そんなことがありえるのであろうか…。
もしかして、これもまだ夢の中なのか!?
大鷦鷯は自分の顔を叩いてみた。
パン!
痛かった。
これは夢ではない…。
「…おぬしはそれでよいのか?」
大鷦鷯が訊ねると、八田媛はなぜ?という風に首をかしげて、
「兄上さまがそうおっしゃられるのなら、わたしはそうすべきだけです」
と言った。
「われの妃に…。しかし、おぬしはまだ幼い…。今すぐというわけには」
「わかっております。その時がくるまで」
「…うむ」
そう答えてから、大鷦鷯はこの時、自らスメラミコトになると宣言したのと同意であることに気付いた。まるで自然であった。しかし、その瞬間、全身にまっすぐな木がそびえるかのごとく、背筋が伸び体がしびれるような感覚が起こった。なにかが体に降り立ったかのような…。
不思議と抗おうという気にはならなかった。
幼い頃から、あれほどまで避けようと考えてきたことであったのに、いざ、その時が来てみれば、気持ちは落ち着いていたことに驚いた。
これならば、稚郎子がわれに継承を譲ろうとしたとき、素直に認めてやればよかった…。
しかし、それはきっと違うのだ。
稚郎子は父上が決めた継承者。それは揺るぎないこと。
われが安易に稚郎子から継承を譲り受けていれば、問題はより深刻化していたであろう。
こうなることは、運命であった…。
われたち、人の力では決して抗うことのできぬ、大きな力…。
大鷦鷯は八田媛に、必ず迎えにくると約束した。
そして、桐原日桁宮をあとにしたのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます