第2章 7話「薨去」
春の芽吹きを感じ始め、年を越す前であった。
スメラミコトが薨去(こうきょ)したと報が届けられた。
覚悟はしていたが、実際に伝えられると体にずしりと何かがのしかかってくるような重みがあった。
髪長媛にも伝えると、「えっ」と息を飲み「つまり…」と上目づかいに見た。
不安げで、かつ少しなにかを期待するかのような目であった。つまり、われがスメラミコトになるのか?と訊ねたいのだ…。
大鷦鷯は察して、極めて慎重に話した。
「次のスメラミコトは、弟の稚郎子になるであろう」
髪長媛は、少し落胆するかのように目を伏せるも、次の瞬間にはほっと安堵するかのように微笑んだ。
大鷦鷯は支度して、すぐに大和へ向かった。
軽島豊明宮に着くと、見知らぬ顔が出迎えた。
男は、自らを隼別(ハヤブサワケ)と名乗った。
そして、われのことを兄上と呼んだ。
まさか父上にまだ異母弟の御子がいるとは知らなかった。
大長守に訊くと、母は桜井田部連男組(サクライノタベノムラジオサイ)の妹である糸媛(イトヒメ)で、第十一代スメラミコトの時代に穴門国(山口県下関市)に国造として派遣された速都鳥(ハヤツトリ)を祖とする氏族であるという。
先日、父上が倒れてからしばらくして、大和に呼びつけられていたのだそうだ。
明るくハキハキとしゃべり、大鷦鷯は好印象を覚えた。あのもう一人の弟に比べれば…。
そのもう一人の弟の稚郎子は、また翌日になって到着した。
四人が揃い、宮殿の寝室でスメラミコトと対面した。
父上は以前と同じように部屋の中央で臥せっていた。今にも起き上がりそうにも見えた。しかし、近づき顔を覗き込むと、その固く閉じられたまぶたが、もう二度と目覚めぬことを理屈ではなく思い知らされた。この大地に存在するものは、必ずこうして一切の例外なく、永久の眠りにつくのだ。
大長守は慟哭していた。大鷦鷯は不思議と涙は流れなかった。隼別は鼻をすすり、稚郎子が涙を流したのかどうかは見えなかった。
別室で母上と対面した。
母上は取り乱した様子はなく、まだしくしくと鼻をすする大長守を横目に見たあと、力強い声で言った。
「今からわらわがスメラミコトの遺言を伝える」
四人は顔をあげた。
母は一人づつと目を合わしていった。そして言った。
「スメラミコトは、継承者を稚郎子とご指名なさった」
「……」
「……」
「……」
「……」
長い静寂があった。大鷦鷯にはそう感じた。母上の姿勢を正す衣のすれる音だけがした。
そして、また母上が言った。
「大長守は海人部(あめべ)と山守部(やまもりべ)を束ねる役目に、大鷦鷯はスメラミコトの補佐の役目に、隼別は難波津の守護に」
「なぬっ」
大長守が大きな声で唸った。
兄上が思わず声をあげた気持ちがわかった。これでは、ほとんど長子である大長守が除け者にされたようなものだ。さらに兄上の反応から見て、自らがスメラミコトになるということは信じて疑っていなかったように思われる。いくら、あの父上の問いの真意に気付けなかったとはいえ…。
大鷦鷯が口をひらいた。
「われがスメラミコトの補佐とは、それはつまり、武内宿禰の役目をわれがするということか?」
「そうである」
母上は即座に言った。
大鷦鷯は頭を抱えた。やはり、父上は武内宿禰の謀反の疑いを軽く考えていなかったのだ。以前、スメラミコトの補佐は代々武内家が務めると耳にしたことがあったが、その慣例さえも父上は変えようとしている。
「ふんぬ!」
突然、大長守が声を荒げ立ち上がると、大鷦鷯と稚郎子を睨み、ドカドカとわざを足音を立てるようにして部屋から出て行った。
「これから殯宮が築かれ、スメラミコトはそこに移動され殯の祭祀が行われます。それが終われば正式に代が継承されます。スメラミコトに空位があってはならない。稚郎子は即座に即位する準備を整え、宮の場所を定めるように」
大鷦鷯、稚郎子、隼別は呆気にとられている中、母上は動じる様子もなく淡々と告げた。
稚郎子は、「はっ」と一言だけ答えて頭を下げた。
そして母上のとなりに女孺が取り囲むように付くと、母上は部屋から退室した。隼別もそれに続くように出て行った。部屋には、大鷦鷯と稚郎子だけが取り残された。
場が張りつめ、おそろしく居心地が悪かった。大鷦鷯も出ようと腰を浮かせる。すると、稚郎子はおもむろに大鷦鷯に詰め寄った。
「なっ、なんや!?」
不意を突かれて仰け反る大鷦鷯に、稚郎子はにじり寄り、
「兄上。わたしはスメラミコトを辞退し、大鷦鷯の兄上に継承を譲ろうと思う」
と思いつめた顔で言った。
「はっ?」
大鷦鷯は、自分でも驚くほどの高い声を出してから、
「おぬし、なに言うとるんや」
今度は大鷦鷯が稚郎子に詰め寄った。
しかし、稚郎子は動じず続けた。
「わたくしは本心でそう思っているのでございます。考え抜いた上でのことでございます。天下に君臨し万民を治める者は、民を天のように覆い、地のように受け入れなければならないのでございます。上に喜ぶ心があって民を使えば、民も喜んで従い、天下は安らかになる。仁と徳のあるものが治めるべきなのでございます」
またわけのわからぬことを言い出した。大鷦鷯は怒りが込み上げ叫ぶように返した。
「なにわけのわからんことを言っておるのだ。スメラミコトの遺言であるぞ。異国の学者から、なにを学んだのか知らんが、われにわかるような言葉で話せ!」
稚郎子は、「おやっ」と眉をあげるようなしぐさをすると、
「なにより私は弟です。弟がどうして兄上を差し置いて、国を治めることができるのでございましょうか」
「簡単なことや。父上はお前を指名したんや!」
「いえ、父上がわたしを選んだのは、ただわたしが末っ子で可愛かっただけだからなのでございます。兄上の評判は聞いています。本来天下を治めるのは、民に親しまれ仁と徳のある人間がするべきなのでございます。私はふさわしくありません」
「そんな勝手はあかん。母上がああ宣言したということは、すでに内外に次期スメラミコトは稚郎子やと皆にもう行き渡ってしまっているのや。父上は、おまえが相応しいと考えた。われもそう思う。われは父上に従うか、弟に従うかといえば、父上の決めたことに従う!」
稚郎子は押し黙った。
ようやくわれの言うことに納得したのかと思ったが、その表情はどこか悲しげで、目はうつろで遠くを見ていた。まるで、あの彷徨う兵のような…。
稚郎子はそのままなにも言わず部屋を出て行った。
その姿を見て、大鷦鷯は少し気持ちが揺らぎそうになったが、…やはりと思い直した。
今われらが兄弟で揉めれば、大和全体への混乱につながる。それは倭国の存亡にもかかわることだ。稚郎子なら、そんなこともわからぬはずがないであろう。
それでも大鷦鷯はその場にもう一度座り込むと、「はぁ」と大きくため息をつくしかなかった。
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