第2章 1話「髪長媛」
秋、春と年を重ねた。
片足羽の復興もすすみ、田植えも一部ではあるが再開できた。
活気が出てくると、民の顔にも笑顔が見られるようになってきた。半島から伝えられた倭国軍の快進撃の戦報も拍車をかけたといえよう。倭国軍は百済を奪還し、現在は新羅との国境付近に進撃しているという。今この瞬間にも遠い地で倭国のために戦っているものがいると思えるのは、大八州に住むものにとっては心の支えになっていた。悲しんでいる暇はないと。兵が無事帰ってきたときのために、自分たちが国土を耕しておかないといけないと。
そんな折であった。大鷦鷯にスメラミコトから直々に軽島豊明宮に来るようにと呼び出しがあったのは。
思い当たる節がなかった。考えられうるのは、ついにわれも兵として半島に向かう命令が出たのかということであった。覚悟はしていたつもりであったが、いざ実際にそうなると急に足がすくむ気がした。
大和へ発つ日、ハマベたち数人の民が見送りに来てくれた。皆涙を流していた。大鷦鷯も思わずもらい泣きをしそうになったが、絶対に涙は流さなかった。
「皆、また会おう」
それだけ言って別れた。
大鷦鷯は何度も振り返り、片足羽の景色を目に焼き付けておこうとした。もう二度と見ることはないかもしれない、わが故郷(ふるさと)を…。
*
軽島豊明宮で父上と対面した。
久しぶりに見た父上の顔はやつれ、顔色も悪かった。
後ろに控えているはずの武内宿禰の姿もない。
やはりあの話は事実であったということだ…。
謀反を疑われ兵と共に筑紫に派遣された武内宿禰であったが、父上は暗殺するために兵も送っていた。しかし、その追手を掻い潜った武内宿禰は軽島豊明宮に戻り、父上に潔白を訴えた。密告した異母弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)こそが反逆者であると。
双方の真意を確かめるため、父上は盟神探湯(くかたち)を行った。盟神探湯とは、古くからある誓約(うけい)のひとつで、その罪などの疑いのある対象者に、カミに潔白などを誓わせた後、探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせるというものである。正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる。
結果、武内宿禰は疑いを晴らすことは出来たが、甘美内宿禰は奴婢として流され、大和を混乱させた責任を取り武内宿禰も失脚を余儀なくされたのであった。
「さっそく本題に入ろう」
スメラミコトが言った。
大鷦鷯は背筋を伸ばした。
「近々、われは新たに妃に迎えようと思っておる。日向国の諸県(もろあがた)の牛諸井(ウシモロイ)の娘、髪長媛(カミナガヒメ)だ。一行は難波津に到着する。その出迎えをおまえに頼みたい」
あまりにも予想外のスメラミコトの言葉に、大鷦鷯は口をぱくぱくさせた。
「どうした?われの頼みを聞けぬと申すか」
「いえ、あまりにも、ち…スメラミコトさまの話が意外なものであったので…」
「…どういう意味だ?」
「われを兵として百済にやるのであるのかと…」
「ははははっ!」
スメラミコトは上を向き大きく笑った。以前の父上の笑い方と同じで安堵した。
「なぜおまえを戦地にやらねばならん。そんなに戦をしたいのか?」
大鷦鷯はぶるぶるぶると顔を左右に振った。
「ならば、われの頼みを聞いてくれるな?」
スメラミコトの有無言わせぬ目がそこにはあった。
大鷦鷯はゴクリとつばを飲み、顔をゆっくりと上下に振った。
*
翌朝、大鷦鷯と舎人、女孺の一行は難波津に向けて発った。
大和川を船で下った。斑鳩で一旦船を下り、亀の瀬の峠を歩く。
片足羽でまた船に乗り換えるが、案の定、民が大鷦鷯の姿を見つけては、「御子さま。お早い出兵で。御無事を祈っております」と頭を下げた。大鷦鷯はその都度、「いや、それがやな」と説明しなければならなかった。民は皆笑い、「御子さまらしいですな」と言った。大鷦鷯は苦笑するしかなかった。
船は大和川を下った。
あの氾濫を起こせば恐ろしい川も普段は雄大に流れている。途中、上流に向かう荷船と何度かすれ違った。流れに逆らう方は風と人力を使いかなりゆっくりと進んでおり、ほとんど泊まっているようにしか見えなかった。それでも物資を大量に一気に運べる荷船の役割は重要であった。
倭国は海と川の国である。はるか古(いにしえ)の頃から、人や物がこの大八州を行き来していた。その広域さは驚くばかりである。スメラ族が正装に使う宝石も、各地から届けられたものだった。聞いたことも、行ったこともない場所のものを首にぶらさげていると不思議な気分になった。それが治めるものの感覚なのであろうか…。
船は河内湖に入った。
かつては海流が流れ込む海の一部といえた場所であったというが、今は大和川が滞留する貯水池のようであった。形はいびつで、北には大小の島が見える。そのひとつが大隅島で、父の離宮があった。
西には山脈のように台地がそびえており見上げた。あの台地が海と河内湖を隔てているのだ。船はその台地に沿うように北西を目指す。急に川幅が狭まり、淀川と合流すると、さらに枝分かれして海原に出た。ここまで来れば難波津は目と鼻の先であった。
大鷦鷯一行が難波津に着いてから数日して、髪長媛を乗せた船の一団が到着した。
波止場に船が近づくと、出迎えた一同(大鷦鷯、摂津国の県主、および津に勤めるもの)からどよめきが起きた。各船の船首に、異様な見た目の者が立っていたからだ。角付きの鹿皮をかぶった者で、槍を持っていたので舎人であろうことがわかった。
船が着くと、大鷦鷯が一歩前に出た。
その“鹿男”がぞろぞろと船から出てきて、それから数人の女孺と共に娘が出てきた。出で立ちからしてそれがすぐに髪長媛であることを理解した。名のとおり、髪が長く、その透きとおるような黒い髪が肩に垂れていた。頭の天辺で飾りと共に髪は結ばれており、首には色鮮やかなの石をあしらった首飾りが見える。衣は薄い赤色をしており、大和の娘の正装に比べたら質素とも言えた。しかしそれが逆に、娘の令しさを際立たせているように思えた。
「………」
出迎えた一同が息を飲むのが聞こえた。
大鷦鷯もわれを忘れ見惚れていた。これほど令しい娘は生まれてはじめて見た。
髪長媛は長い礼をしたあと少し顔を上げ、「牛諸井の娘の髪長媛です」とささやくように挨拶した。
「………」
しばらくの沈黙があった。
髪長媛が目玉をきょろきょろとさせ、困ったような顔した。
目が合った。
そこで、ようやく大鷦鷯は自らの役目を思い出した。
「われは大和のスメラミコトの御子、大鷦鷯である」
髪長媛がほっとしたように少し顔を和らげる。
大鷦鷯は真正面から髪長媛の顔を凝視した。
切れ長の目に薄いくちびる。首筋の右側に小さいほくろがあった。
髪長媛が再度、頭を下げ礼をしたとき、大鷦鷯は見逃さなかった。
衣の間に覗いた豊満な谷間を。
髪長媛が顔をあげる。また目が合った。
瞳も令しかった。中に星が輝いているようであった。
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