第1章 6話「帰郷」

 翌日、早朝から雨が降った。

 国栖を発った時にはまだ小雨だったが、峠を越えたあたりから横殴りの雨になった。

 軽島豊明宮に到着した時には体はずぶ濡れで、大長守は「凄い雨であったのう」と全身から水滴をしたたらせながら言った。大鷦鷯は無言でうなずく。可哀相だったのは稚郎子で、唇を紫にし、顔は青ざめ震えていた。

 宮殿に入ると、帰りを待っていた女孺が出迎えて、衣を着替えさせてくれた。稚郎子はそれでも震えが止まらないらしく、そのまま寝込んでしまった。

 大鷦鷯は初め、口は達者なくせに体はまだまだ未熟なんだなとほくそ笑んでいたが、さすがに心配になってきた。声をかけると稚郎子は呻くように返事をした。しばらく何度かそんなことを繰り返しているうちに、すやすやと寝息が聞こえてきた。

 大鷦鷯も横になった。雨音はまだ止まない。ザーッと地面に叩きつける音が耳に張り付くかのように続いている。この雨は一晩中降るのだろうか…。田や川は大丈夫であろうか…。ふいにサトの顔が思い浮かんだ。大和川が濁流となれば河内に流れ込む…。

 …大丈夫だ。雨はもう止む。帰ったらサトに会いに行こう。大鷦鷯はそう何度も心の中でつぶやいた。そう、大丈夫だと。吉野のカミへの祈りは無事済んだのだから、もう大丈夫だと…。

 大鷦鷯は夢を見た。夢の中でも歩いていた。自分が行軍の先頭を歩いている。ザクザクと足音と甲冑の擦れる音がうしろからついてきていたが、次第に兵が自分を追い抜いて行った。早く歩こうとしたが、足になにかがまとわりつくようで思うように歩けない。大長守と稚郎子も通り過ぎていった。大鷦鷯は必死で二人のうしろ姿を追ったが、二人の姿が坂の先に見えなくなろうとしていた。二人の名を呼んだ。ここで呼び止めないと、もう二度と二人には会えないような気がしたからだ。二人がこちらを振り向いた。


「大鷦鷯どうした?」


 大長守がこちらにやってきて首をかしげた。稚郎子は不思議そうにこちらを見ている。二人を呼びとめてしまったせいで、三人とも行軍に遅れてしまった。しかし、それでよかったのだ。この先に行ってはいけない。大鷦鷯はそう強く確信していた。目から涙がポロポロと流れると、それを見て大長守と稚郎子が笑った。

 すると突然場面が切り替わった。大鷦鷯は森の中に立っていた。大長守と稚郎子の姿はない。二人の姿を探して森の中をゆっくりと進んだ。しかし、いくら進んでも同じ景色が繰り返されるだけで、迷ったと思った時には遅かった。もはや引き返すにもどの方向に向かえばよいのかわからない。大鷦鷯は諦めて地面に座り込んだ。すると尻のあたりがむずむずとし、地面にめり込んでいくような気がした。いや、気がしたのではない。実際にめり込んでいっていたのだ。いくらもがいても体は土の中に入っていった。体の半分が地面に沈み、ついには顔にも土がかぶった。その時だった。誰かが笑うような声が聞こえた。大長守と稚郎子であろうか。いや、違う。もっと不気味な笑い声だった。モノノケの声であろうか…。それともカミの声か…。笑い声がだんだん近づいてきた。ついに耳元までやってきた。大鷦鷯は「わーっ!」と叫び恐怖で体をよじらせた。


「御子さま、大丈夫ですか?」


 目をあけると女孺の顔があった。しばらく状況が飲み込めずにいたが、自分は夢を見ていたのかと思い至る。体を起こし横を見ると、稚郎子が寝ていた。よかったと安堵する。


「われはそんなにうなされていたか?」


「はい」


 女孺がうなずいた。

 大鷦鷯は今しがた見ていた夢を思い返す。夢でよかったというべきだが、人が寝ている間に見るものは、現実に起こることを予知していると聞いたことがある。あの行軍はきっと吉野へ向かっていたに違いない。だとすれば、吉野へ行くべきではなかったということであろうか…。しかし、もう帰ってきたあとだ。今更もうどうすることもできない。仮に出発する前に今の夢を見たとしてもわれにはどうすることもできなかったであろう…。なにより無事に帰ってきたではないか。ただの夢に過ぎない。


「もう一度眠りますか?」


 女孺が優しい声で言った。大鷦鷯はうなずき横になった。

 今気付いたが、雨の音は消えていた。





 次に目覚めたとき、もう稚郎子の姿はなかった。

 大鷦鷯が眠り過ぎたかと思ったがそうでもないらしい。女孺に訊くと稚郎子らは夜明けと共に発ったと答えた。昨日は体は未熟だなと心配したが、心配して損をした。むしろ、われの方が変な夢は見るし、どうかしている。体だけは丈夫だと自負していたのに…。

 …やはりあれだな。稚郎子のせいで調子を狂わされたのだ。母上が違ってよかった。もしあれと一緒に住んでいたら、われはそのうち病になり倒れていたであろう。

 表に出ると、信じられないくらいの快晴であった。

 思いっきり伸びをして体を張ると、思わず「ぶっ」と屁が出た。

 うしろについていた女孺が一歩引き下がる。


「すまんな」


 すると、さらに「ぷっ」と出た。

 女孺はさらに一歩引き下がった。


「………」


 身支度を整えると軽島豊明宮を発った。

 来た時と同じく舎人が先導し女孺が付いて歩いた。

 同じ当麻道を歩いて帰ったが、はじめ道を間違えたのではないかと思うほど、道中の景色は様変わりしていた。ところどころ田の稲は倒され、水路は溢れんばかりに濁った水が流れている。


「片足羽は大丈夫やろうか?」


 大鷦鷯が半ば独り言のようにそう言うと、舎人と女孺は首をかしげた。

 片足羽は大和川と石川が合流する場所である。大和で雨が降れば必ず影響はある。川幅は広いので、そう簡単には氾濫はしないであろうが、昨日のあの雨だ。大和でこれだけ影響があるところを見ると…。


「心配や。はよう帰ろう」


 舎人と女孺うなずき、歩を速めた。

 二上山と葛城山の間を登り、峠を越え河内側に下った。女孺がはぁはぁと肩で息をしていたので休憩を取らせた。すぐに「もう大丈夫です」と女孺が立ち上がる。


「ほんまか?」


 女孺は強くうなずいた。


「では行こう。あと少しや」


 一行は先を急いだ。

 ようやく片足羽の一帯を見渡せる場所に着いたその時だった。先に全身が泥だらけの集団が座り込んでいるのが見えた。集団は大鷦鷯たち一行の姿を見つけると、憔悴させつつも頭をさげた。見たことのある顔だった。片足羽の民に違いない。近づいて声をかけた。


「どうしたんや?」


 民は困惑の表情を見せつつも答えた。


「実は、昨夜に突然大和川と石川が氾濫して…。暗闇の中で何が起こったのかわからず、とにかくわしらはここまで逃げてやってきたんです」


「なにっ…」


 大鷦鷯は絶句した。悪い予感はしていたが、まさか民たちが泥だらけでこんなところまで逃げてきているとまでは考えていなかった。舎人と女孺も顔をこわばらせている。


「他のものたちはどうしたんや?」


 大鷦鷯が訊くと、民たちは顔を横に振った。


「なにせもの凄い音がして…。きっとあれは邑が濁流に飲み込まれた音。まだ足が震えてここから動けんのです…」


 次の瞬間には大鷦鷯は駈け出していた。


「御子さま!」


 舎人と女孺の呼ぶ声が聞こえたが構わず走った。





 まず誉田宮に立ち寄った。高台にある宮は無傷のようだった。

 誉田真若が表に出ており、大鷦鷯の姿を見ると驚いた顔をして言った。


「大鷦鷯よ。無事であったのか!今使いを出そうと思っていたとこじゃった。舎人と女孺はどうした?」


 大鷦鷯は肩で息をし、誉田真若と目を合わせると、なにも言わずまた駈けだした。


「大鷦鷯!待つんじゃ!」


 叫ぶ声がうしろから聞こえたが、構わず走った。

 徐々に邑の方に近付くと、ごうごうとにぶい音が聞こえてきた。さっきから風の音かと思っていたが、それは川の濁流の音であると気付いた。

 土手のいたるとこに泥だらけの民が途方に暮れた様子で座りこんでいるのが見えた。大鷦鷯はその間を通りぬけた。民が力なくこちらを見上げたのがわかった。

 土手の上に立って眺めた。目前に広がっていた光景は、変わり果てた姿という生半可なものではなかった。邑があったあたりがまるごと濁流に飲まれ消えていた。近くにいた民に訊くと、これでも水は引いた方だと答えた。

 大鷦鷯は土手を歩き、民の姿を見つけてはサトの姿を探した。しかし、どれだけ探してもサトに会うことはできなかった。対岸に渡ろうと、川に下ろうとすると民に止められた。


「御子さま!危ないです!川に入ってはなりません!」


 民が数人で大鷦鷯を体をつかみ抑えた。民の必死の剣幕に諦めるしかなかった。


「…対岸の方に逃げているものはいるのか?」


 大鷦鷯が力なく言うと、民はつかんでいた手の力を弱めて答えた。


「えぇ、いると思います。きっとおります…」


「……」


 大鷦鷯もそう信じたかった。しかし、この光景を目にしては、絶望的なことしか思い浮かべられなかった。夢であってほしい。これこそ悪夢であってほしい。ならば、はやく目覚めなくては。どうして、いつまでたっても目覚めない。どうしてだ!

 だが、わかっていた。これが夢でないということは。目、耳、肌で感じるすべてが、これが現実のことであることを知らしめていた。大鷦鷯は自らの無力さを痛感し、立ち尽くすしかなかった。





 数日たって水が引き、大和川と石川も以前のような穏やかな流れに戻ってきた。

 被害の状況も誉田宮に伝えられてきて、邑の住居や倉のほとんどが流されてしまっていたことがわかった。田畑の被害も甚大で、高台にあったわずかなだけが残っているだけであるという。

 誉田真若は宮の倉を開け、民にわけあたえた。民からすれば満足できるほどではなかったであろうが、下流はさらに酷い被害も出ていると聞いていたので、誰しもこの状況を飲むしかなかった。

 しかし、民を本心から失意のどん底に落としたのは、このような状況であったのにも関わらず兵の招集があったことであった。民たちもさすがにと訴えるために誉田宮に押しかけた。誉田真若が直接出て対応したが、いくら誉田真若といえど大和の決定に逆らうことはできない。倭国の存続にかかわることであるからと説得するしかなかった。

 数日後には、兵として発つ邑の男たちが誉田真若の前に整列していた。大鷦鷯も立ち会った。ふとその中に見たことある顔があるのに気付いた。すぐに思い出した。あのいつの日か、ハマベを岩場で痛めつけていた背の高い男子であった。大鷦鷯が凝視しても、決して男子はこちらを見ることはなかった。覚悟を決めた者の顔であった。今となれば大鷦鷯の方が詫びなければならない気になった。無事を祈るしかない。誰しもだ。ここにいる誰もが無事で帰ってほしかった。

 大鷦鷯は連日、“かつて邑のあった”場所を歩き、または下流の方まで足を延ばしサトの姿を探した。しかし、いくら歩こうともサトに会えることはなかった。

 ハマベには会うことができた。泥だらけになって田畑に流れ込んだ土砂を邑の男たちと掻きだしているところを偶然見つけ、近づいて声をかけたのだ。

 サトの居場所を問うたが、ハマベはただ首を振るだけであった。ハマベは泣いた。大鷦鷯もつられてその場で鳴き崩れそうになったが、必死に耐えた。絶対に人の前では泣けぬ。ましては民の前で。


「大丈夫や。われがサトを見つけ出す」


 震える声でそう言うのが精一杯であった。

 ハマベが手振りでなにか伝えようとした。


「む?なんだ?…なるほど、おぬしもサトを見つけるのを手伝うと言うのか?」


 ハマベがうなずいた。


「それは心強いな」


 大鷦鷯が少し微笑むと、ハマベも少し微笑んだかのように見えた。

 川に沿って毎日のように歩いていると、大和川が氾濫を起こす原因がよくわかった。

 大きく蛇行する箇所は、自然と土砂が溜まった堤防になっているが、その前後は脆く、許容を超えてしまうとそこから一気に水が漏れだしてしまうのだ。

 それを防ぐためには堤防を人の手で拡大させるしかないが、そもそもが大和川の今の形になったのも、はるか昔から氾濫を繰り返し形成されてきたものである。安易に人の手を加えれば、より被害が大きくなる可能性もあった。氾濫が土砂を運び、平地を築いてきた。長い目で見れば氾濫は農地を増やしてきた存在でもあるのだ。

 しかし、これほどまでの規模の氾濫は、河内に古くから住む民も、未だかつて見たことないと口々に言った。中には、河内に多くの民が住むようになり、近くの森林を伐採したことでカミを怒らせたのだと叫ぶものもいた。

 …われには本当のことはわからない。ただはっきりとわかったのは、もう二度とこんな悲劇は起きるべきではないということであった。荒ぶるものを抑え、日々の営みが豊かになるように、知恵を絞り技術を会得してきたのもわれらの歴史である。河内も大和のように民が増えたのあれば、大和のように大溝を築き、水路を張り巡らし水を掌握する必要があるであろう。

 しかし…と、大鷦鷯は遥か西の先の海岸線を望んでは首を振った。

 この広大な河内の平野だ。氾濫を抑えるための大溝を築こうとすれば、大和川と石川が合流する地点から感玖(こむく)の平野を抜け、百舌鳥野の海岸線へ向けて大溝を築かなければならない。纏向の大溝とは比較にならないほどの規模だ。一体どれほどの労力を必要とするのか想像もつかない。河内の民を総動員しても足りないであろう…。

 悔しい。歯痒い。大鷦鷯はくちびるを噛みしめた。

 われの頭の中では、いくらでも思い描くことが出来るのに。どうすることもできぬ。

 はるか地平線とも水平線ともわからぬ地に落ちる夕陽を望んでは、途方に暮れるしかなかった。

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