第1章 5話「国栖」

 スメラミコトを先頭とする軍が吉野へ向けて行軍した。

 大鷦鷯らは隊列の中央あたり、舎人と兵に挟まれるかたちで歩いた。

 道中、邑の近くを通り過ぎると、民が呆気にとられた表情でこちらを見ていたのが印象的であった。そらそうであろう。こんなザクザクと足音を立てながら金色の甲冑を着た集団が行進してきたら、われでもあんな風に口をあけて見るに違いない。

 峠を越え、山脈の間を縫うように流れている川に行き着いた。吉野川である。独特の岩がむき出した河原の景観が目に入ってきた。背後に迫る山々は、晴れているのにも関わらず霧がかかっているように霞んでいた。

 初代スメラミコトは、日下で長髄彦(ナガスネヒコ)の襲撃を受け引き返したあと、熊野からこの吉野を抜け大和入りを果たしたという。吉野の民は初めからスメラ一族に従い助けた。山中から独特の風貌で現れた吉野の民を、初めスメラメコトの一行は山から下ったカミと思った。“アラヒトガミ”が助けに現れたと。もちろん、そうではなく吉野の民もわれらと同じ人であったが、八咫烏族(鴨族)といい、大和の南部には不思議な装束に身を包む土着の族がいるので、この畏怖する山の雰囲気の中にいれば、そう思ってしまうのもわからなくもないと思えた。

 熊野から吉野へ抜けたのは、結果的にはスメラ族にとって功を奏した。従う戦力を得たというのもそうであるが、もう一つの大きな成果があった。大地の血液である朱(丹)の鉱脈に当たったことである。

 朱は大陸では不老不死の薬にもなるとも考えられ重宝されており、貴重な交易品となっていた。父上の母上、気長足姫尊も新羅征伐の際には大量の朱を持っていき交渉の材料にしたという。半島の百済や加羅諸国は、倭国のその財力とそこからくる軍事力を頼ったといえたのであった。つまるところ、朱を征したものが国を征する。そういった意味で、まさに大和はスメラ族をスメラ族たるものにした地であった。

 しばしの休憩のあと、川沿いに歩き、深い谷のような場所に着いた。ここが目的地の国栖(くず)であった。

 一行は、国栖の民に丁重に迎えられたあと、陽が沈むのを待ち、スメラミコトおよび軍師の葛城襲津彦、御子の大鷦鷯たちだけでさらに深い断崖絶壁に進み入った。

 あたりは漆黒の闇。灯りは先導する国栖の民が持つ松明だけである。おそらく岩場から足を踏み外せば崖下に落ちる。慎重に足もとに集中しながら歩いた。しばらく歩くと、崖の突き当りのようなところに辿り着いた。

 国栖の民が松明を両側に立て掛けると、岩場の前になにかを並べはじめた。カミへの御調(みつぎ)であった。その中には、大きな赤い蛙の姿があった。大鷦鷯は目を見張り、ゴクリとつばを飲み込んだ。昼からなにも口にしていなかったからだ。

 御調を載せている祭器は天の香具山の土で作られたものであろう。これも初代スメラミコトが大和入りした時の伝承に基づいていた。初代スメラミコト一行は、天神地祇を行うために祭器を作る必要があったが、地元の民の弟猾(オトウカシ)によって、山の香具山の土を使うようにと進言があったのだ。どうやら古くから大和ではそういう風習があったらしい。以降、大和で行われる祭祀で使う祭器は天の香具山で取れた土を使う慣わしになっていた。年を越した春過ぎの頃、白装束に身を包んだものたちが天の香具山に入り土を取る。大和の季節の移り変わりを象徴するかのような儀礼であった。

 国栖の民によって、カミへの祝詞(のりと)が詠まれたあと、舞がおこなわれた。

 誉田宮でも神嘗の際には巫女による舞が行われるが、それとは全然違う。まず、翁が舞を舞っている。動きもどこか力強い。松明の揺らめく火の中に浮かぶその姿を見ていると、なぜか寒気がして鳥肌が立ってきた。

 舞が終わり、また断崖絶壁を心もとない明りを頼りに戻ると、深夜にも関わらず兵らが整列して迎えた。そして宴がひらかれた。大鷦鷯の腹は限界であった。目前に並べられた国栖の民のもてなしをたらふく腹に収めた。

 いつもならそれで眠くなって横になってしまうところであったが、なぜか全身が総毛立つような感覚がし、まったく眠いと思わなかった。仕方なくあたりをうろついてみることにした。

 兵たちは固まって体を休めていた。篝火のせいもあるであろうが、皆怖い顔をしているように見える。ただ不安なだけなのかもしれない。それでも大鷦鷯の姿を見るとしっかりと礼をして道をあけてくれた。

 向こうに女子の姿が数人見えた。宴でもてなしてくれた国栖の娘であろう。声をかけてみようと近づいていった。女子たちの話す声が徐々に聞こえてくる。すると、ふいに「大鷦鷯さま」という言葉が聞こえてきた。なんでわれの名前が?大鷦鷯は咄嗟に近くの岩場に身を隠した。


「ねぇ。御子さまを見た?」


「うんうん。見た見た。かっこよかったね」


 女子たちがくすくすと笑いを交えながら話している。大鷦鷯は「ほほう」と期待しながら聞き耳を立てた。


「大長守さまかっこよか」


「うちは、稚郎子さまかな」


「まだ幼子やん」


 はははと笑う声。


「でも稚郎子さまは、どこか一番大人びているというか。あの綺麗な横顔。きっと大人になったらもっと令(うるわ)しいお方になるわ」


「大鷦鷯さまは?」


「きゃはは!」


 一人の女子が大きな声だしたので、「静かに!」と他の娘が諭した。一瞬女子たちの声が小さくなったが、またすぐに戻った。


「大鷦鷯さまは、優しい人らしいで」


「たしかに。一番気さくに皆に話しかけてたしな」


 大鷦鷯はにんまりと笑う。さてここでわれが姿を見せたら女子たちがどんな喜ぶ顔をするだろうかと想像した。


「でも、一番ぶさいくやな。背も小さくて短足やし」


「きゃはは!」


「こら静かにって言うとるやろ。あんたそんなこと言って誰かに聞かれたどうすんの?」


 静寂になる。女子らがあたりの気配を伺っているのがわかった。大鷦鷯は息をとめた。

 少しの間があって、気配がないとわかったのか、女子らはまた会話を再開した。


「そうかな。わたしは大鷦鷯さまが一番優しそうでええけどな」


「男は優しさだけやあかん。やっぱ令しさも」


 全員がくすくすと笑った。

 大鷦鷯はまったく出て行く気をなくして、音を立てぬように岩場から離れた。

 女子たちは誰もいないと思って話しているのだ。責めても仕方がない。

 たしかにわれは兄上などに比べると背が低く短足だ。ぶさいく…というのは気にしたことがないが、きっと女子らが言うからそうなのであろう。でも今まで不自由したことはなかったので別に気にはしなかった。むしろ、女子たちのことを案じた。聞き耳を立てたのがわれだからよかったからで、他のものならどうなっていたことか。咎めぐらいで済まなかったであろう。

 ここは、やはりわれが出て行って諭してやるべきか。大鷦鷯は女子たちのところに向おうと踵を返した、その時だった。


「こんなところでなにをしているのでございますか」


 うしろから声がして、大鷦鷯は驚いて思わず「わっ」と声を出した。

 振り返って闇の中に目を凝らすと、かすかな篝火の明りに照らされた稚郎子の顔があった。まったく気配を感じなかった。不気味なやつだ。


「いきなり声をかけるな。食べたものを吐き出すかと思たわ」


「すみませんでございます。丁度兄上のお姿を探していたもので」


「われを?なぜや」


 そういえば、もうこの弟とは口をきかんと決めたはずやのに言葉を交わしていた。


「兄上が呼んでおります」


「兄上…、大長守の兄上か?」


「はいでございます」


「なんの用やろうか?」


「それはわからないのでございます」


「……」


 ふと視線の端に、先ほどの娘たちが立ち上がりこちらを見ているのが見えた。


「兄上はどこにおられるのや?」


「あちらでございます」


 稚郎子は言うなり振り向いて歩きはじめた。

 大鷦鷯は一歩遅れる。忙しいやつやなと仕方なく後を追った。





 焚き火を前に兄弟三人が顔を合わせた。

 大長守は、この度の戦のことについて語った。

 だいたいのことは誉田真若から聞かされていたので、目新しいことはなかった。わざわざわれを呼んで話すことなのか?と、大長守に言おうかと思い始めた頃、話は意外な方向になった。


「父上は、武内宿禰どのを疑っておるらしい」


「えっ?」


 武内宿禰…。第八代スメラミコトの孫にあたり、第十二代の大足彦から父へと代々スメラミコトを支える大臣として仕えてきた重鎮である。父がその武内宿禰に疑いの目を向けているとは尋常なことでない。


「なんか根拠があるんか?」


 大鷦鷯は、大長守に少し挑戦的な口調で訊いた。

 大長守は、ふんと鼻で笑うようにすると、真顔に戻り言った。


「今回の百済出兵で、最後まで反対したのが武内宿禰どのらしい。実はこの吉野あと、兵軍は九州の筑紫に向かうが、武内宿禰どのも向かうことになっている。軍師ではないのに派遣させるのは実質の反逆扱いではないかと噂されている」


「なるほど、そうでございますか」


 稚郎子がこれみよがしにうなずいた。

 大鷦鷯はその澄ました顔が癪にさわった。特に武内宿禰の肩を持つつもりはなかったが、ここは反論したくなった。


「そんなの武内宿禰の腕を見込んでのことちゃうんか?大臣を直接向かわせるということは、それだけ今回の戦に全力を…」


 大鷦鷯が言い切る前に、大長守は被せて言った。


「武内宿禰どのはもうご老体だ。最前線に行かせるのはいくらなんでも不自然だ。皆もそう言っておる。それに…」


「それに…?」


 言い淀んだ大長守に、稚郎子が首をかしげ促した。


「武内宿禰どのは新羅と内通して、実は倭国を転覆させようとしているとまで噂されておる…」


 さすがに大長守は声をひそめて言った。


「……」


「……」


 大鷦鷯、稚郎子と絶句した。

 しかし、いくら大長守の話であろうと、こんな恐ろしい話をそう簡単に信じられる話ではなかった。もし、それが本当だとしたらそれこそ倭国の危機。いや、スメラ族始まって以来の危機ではないのか。そういえば、軽島豊明宮でも武内宿禰の姿を見なかったが…。


「大長守の兄上…」


 稚郎子が口をひらいた。


「武内宿禰どのは気長足姫尊の時代に、実質百済新羅の和平の立役者であったと聞いたのでございます。その時は朝貢による問題であったと言いますが、戦の危険もあった。武内宿禰どのが臣下の千熊長彦(チクマナガヒコ)を派遣し、交渉で事なきを得たということで…」


 そこで稚郎子は、大鷦鷯の方に視線をやった。


「大鷦鷯の兄上が佩刀しているその七支刀。それがそのとき百済の近肖古王(キンショコオウ)が千熊長彦に朝貢を誓い、倭国に贈った一品の一つなのです」


 大鷦鷯は顔を下げて七支刀を見た。


「武内宿禰どのは、ただ仕えた気長足姫尊の遺言に沿いたいという思いだけなのかもしれないのでございます。百済に攻めるのを強く反対しているのはそれが理由ではありませんか?」


「うーむ」


 大長守は腕を組み唸った。


「たしかに、われも確信があるわけではない。おまえたちにこんなことを話すべきでなかったな…」


 大長守は、少し笑みを浮かべて言った。


「しかし、稚郎子。おぬしよう勉強しとるのう」


 と大長守はがははと笑った。

 稚郎子は、「まだまだでございます」と頭をさげた。

 大鷦鷯は、ここは自分もなにか物を申さないといけないと思って、


「本当に困った時は、逃げたらええんや」


 と言った。

 大長守と稚郎子が大鷦鷯を見る。


「…大鷦鷯。それはどういう意味だ」


 大長守が首をかしげた。


「そのままの意味や。倭国が本当にどうにもならんようになったら逃げたらええんや」


「がははは」


 大長守が顔をあげて笑った。稚郎子も笑みを浮かべた。


「なぜ笑う?」


 大鷦鷯は稚郎子の方を向いて睨んだ。

 稚郎子はすぐ真顔になり、


「兄上。逃げるとは、どこに逃げるというのでございます。大八州は大陸の行き止まり。この先には海原しかありません。われらに逃げるところはないのでございます」


「……」


「異国のものたちが多くこの大八州にやってきているのも、ここが最後に逃げる場だからなのでございます。逃げる…というのも状況によってはありえますが…。たとえば、荒ぶるカミによって起こされる地揺れや水害は逃げるべきでありましょう。それはカミはわれわれからすべては奪わないからであります。地揺れは必ず収まり、水害も必ず収まります。われわれはまたその地に戻り、土地を耕すことができるのであります。しかし、人と人の戦はそうはいかないでありましょう。一度取られた土地を取り戻するのはとても困難です。それが、しかも言葉も通じぬ大陸のものが相手であったのなら尚更であります…。略奪され、殲滅され、もはや倭国は消えてしまうことでありましょう。兄上は、それでもよいから、逃げろとおっしゃるのでありますか?」


「………」


 大鷦鷯としても、ここまで徹底的に否定されると腹が立つより、正直悔しいが感心してしまった。


「まぁまぁ、弟たちよ落ち着け。今倭国は大きな岐路に立たされておるのは事実だ。おまえたちはまだ成人前ではあるが…、倭国の行く末をしっかりと見ておくのだ」


 大長守は穏やかには言ったものの、有無言わせぬ気迫があった。

 大鷦鷯と稚郎子は互いに見合い、うなずくしかなかった。

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