第1章 4話「軽島豊明宮」

 大鷦鷯は、暗い内に目を覚ました。

 同じ部屋に寝ていた女孺の寝息が聞こえる。いつも用がある時に限って自分が一番最後まで眠っていて叩き起こされることが多いのに、今日はどうしたものか。やはり、われも戦を控えて気が高ぶっているのであろうか。

 もう一度眠ろうと試みたが、目が冴えて寝付けなかった。仕方なく、女孺を起こさないように静かに起き上がると、帳の間から顔を出し様子を伺った。

 物音ひとつもせず人気がない。舎人も眠っているらしい。大鷦鷯は物音立てぬようゆっくりと歩き、建物から表に出た。

 空はかすかに明るくなりかけていた。深く吸い込まれるような青色をしている。

 あたりは相変わらず篝火の音だけがしており、宮の門に久米部の兵が立っているのが見えた。一晩ああしていたのだろうか。ご苦労なことである。

 東の空を望む。三輪山の影が見えた。

 大和のカミである三輪山。

 あの辺り一帯を纏向(まきむく)と呼んだ。第十代、第十一代、第十二代のスメラミコトの宮が置かれた場所である。纏向を象徴するといえば、あの墳丘であった。

 スメラ族が大和を完全に掌握し、その勢力を四道に広げた。それを証明するのが、あの墳丘であり“墳墓”であった。

 石を引きつめ、何重にもまるで水田を積み上げたような墳丘。大鷦鷯は初めて目にした時、船のようだと思った。御霊(みたま)を黄泉へ送る船だと。

 実際は土地の開発に伴い出た残土を処理する人工の山で、石工たちが各地で得た技術を元に最も効率もよく強固に石を積み上げた結果があの形であった。濠に囲まれているのは崩れた際の対処でもあり、水田用の貯水池にもなっていた。

 スメラ族が大和にもたらしたものは、まさにそのような土地を切り開き、どんな僻地でも水田を築けるようにした治水灌漑技術であった。あの墳墓の周りには水路網がしかれ、東から流れ出る泊瀬川とつながる大溝が築かれている。

 しかし、人が山をつくり、川をつくる。

 それはカミの力をも凌駕する所業であった。

 人はカミを越えたのか。いや、違う。カミの力を借りただけである。

 墳丘はカミを鎮める施設でもあった。頂上の平たい面は祭祀場になっており、埴輪を並べるのは、現世と黄泉をわける結界であった。頂点にその土地の長を埋葬するのは、カミを鎮めるための生贄である。民の間では、”身捧げ丘”とも呼ばれていた。

 大鷦鷯は、しばらく三輪山の輪郭をぼんやりと眺めていたが、尿意を催し、もじもじと体をひねらせた。

 わざわざ便場まで行くのもめんどうだったので、あたりを見渡して人気がないことを確認すると、建物の端から衣を下ろし下半身をむきだしにして地上に向けて小便をした。


「はぁ~」


 思わず声が出る。

 視線を上げると空が淡く明るくなってきているのが伺えた。陽の出は近い。

 大鷦鷯は尿が出来切っても、そのまま下半身を向きだしにしたまま突っ立った。

 われの“ここ”に朝陽を浴びさせよう。

 目を閉じ、体を東に向けた。

 その時だった。急に下の方から声が聞こえた。


「あんたなにしてんの?」


 大鷦鷯は驚いて下を向く。女子(おなご)が立っていた。

 薄暗い中、興味津々な目がこちらに向けられている。

 見たことない顔だった。この軽島豊明宮に勤める女嬬であろうか。


「なにしてんのって…」


 答える必要はなかったが、大鷦鷯は答えた。


「われの“ここ”に朝陽を浴びさせようとしてな」


 女子はきょとんとし、次の瞬間、「きゃはは」と笑った。

 そして言った。


「そんなことしても育たへんわ。しかし小さいのう。父上のと比べたら」


「なっ!」


 なんちゅう失礼なこと言う女子だ。さすがの大鷦鷯も目を見開き驚き、思わず衣をあげて下半身を隠した。

 辺りを見渡したが、人気はなかった。

 大鷦鷯が心配したのは、今のを誰かが耳にすれば、この女嬬が咎められるであろうということだった。最悪処刑すらありえる。


「おぬしな…」


 と言いかけて大鷦鷯は下を向いたが、しかし、もう女子の姿はなかった。

 大鷦鷯は、モノノケでも見てしまったのではないかと身震いした。

 しかし、と思い至る。モノノケというのは、大概は深い山の中で見たりするものだと聞いた。ここは宮の中である。しかもスメラミコトの宮の中。それはないだろうと思い直した。

 だとしたらやはり女嬬だったのか。

 ふとわれの身なりを見る。衣は乱れ、ほぼ半裸だ。もしかすると、われを従者の奴婢(ぬひ)かなにかと勘違いしたのであろうか。そうに違いない。それとしか考えられない。

 いずれも大鷦鷯は別に大事にしようとは思わなかったが、とはいえあの物言い。さすがに名も知らぬ女嬬の将来を案じられずにはいられなかった。





 陽が完全に上がると、外は騒然となるほど騒がしくなった。

 久米部の兵が大鷦鷯を呼びに来た。これから石上(いそのかみ)から来る軍を迎えるらしい。

 兵に導かれスメラミコトの宮殿の前まで歩くと、多くの者が整列している中に立たされた。殿上には父上と母上の姿もあった。

 すると、「おい」と声を掛けられる。

 見上げると横には兄上の大長守(オオナガモリ)がいた。


「大鷦鷯よ久しいな」


 久しぶりに見る兄上は見違えていた。背も以前より高くなっているし、なにより体格も違う。顎には立派な髭もたくわえていた。


「石上の軍が最新の武具も持ってくるそうだ。楽しみだな」


 兄上は誇らしげに言ったが、大鷦鷯はあまり甲冑などには興味がなかった。

 それよりも…と視線を動かし、「あっ」と声を出す。


「どうした?」


 大長守は伺うように少し頭をさげ尋ねた。

「あれは?」と、大鷦鷯が指をさす。

 大長守は視線をその先にやり、「あぁ」とうなずいた。


「あのお方は、今回も軍師をつとめる葛城襲津彦(カツラギソツヒコ)さまだ」


 舎人たちが並ぶ中、ひときわ背が高く体格もよい、金に輝く甲冑を着こんでいる熊のような男がいた。

 葛城襲津彦は武内宿禰の子息のうちの一人である。その子息は今は大和に、葛城氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏として君臨しているが、特に葛城襲津彦は長子としても存在感が大きかった。先の戦でいくつも武勲をあげたことからも、まさに戦うために生まれてきたような男で、多くの異国の技術者たちを戦利品のように倭国に連れ帰り葛城の地に住まわせているという。今まで目にしたことないその甲冑も、おそらくその異国の技術者に作らせたのであろう。しかし、大鷦鷯が指をさしたのはそちらではなかった。葛城襲津彦のことは知っている。そのとなりにいた女子の方である。

 大鷦鷯が指をさし直すと、大長守は「あぁ」と再度うなずき言った。


「あの女子は襲津彦さまの娘の磐之媛(イワノヒメ)だ」


「げっ」


 大鷦鷯は思わず声をあげた。

 髪飾りや首飾りもつけ正装していたのでだいぶと印象は違ったが、間違いなく今朝、われを侮辱したあの女子であった。

 目が合った。向こうは表情も変えず軽く会釈した。大鷦鷯も反射的に会釈する。

 葛城の娘であったのならば、むしろ奴婢に気安く声をかけることなんてないであろう。今われの顔を見ても驚かなかったところからしても、初めからわれのことは知っていたのは間違いない。で、あの物言い…。モノノケより恐ろしいのではないのか。それとも、さすが軍師を務める葛城一族と言うべきなのか…。


「さぁ、くるぞ」


 大長守が強く言った。大鷦鷯は姿勢を正す。整列していたものたちの視線が一斉に宮の門の方に注がれた。

 門の外からざくざく行進する足音と、甲冑の金属の擦れる音が聞こえてきた。

 一瞬、陽の光に反射して、まばゆい光があたりを照らし、そして軍の列が門から入ってくるのが見えた。金の兜と金の甲冑。手や足のすねに当ててある防具も金であった。

 軍の列は一糸乱れず行進し、宮殿の前に整列していく。

 列の最後尾の方を見て、大鷦鷯は「おやっ」と首をひねった。

 蓋(きぬがさ)を持って従えられた一団がいたのだ。


「あれは?」


 大長守に尋ねると即座に返答があった。


「おまえの弟だ」


「えっ…ということは、たしか、菟道(うじ)の…」


「そうだ母は和邇比布礼能意富美(ワニノヒフレノオホミ)の娘の矢河枝比売(ヤカハエヒメ)。弟の名は稚郎子(ワキイラツコ)だ。まさか知らなかったとは言わせんぞ」


「いや…」


 もちろん知ってはいた、しかし会うのは初めてであった。

 弟の稚郎子は、父の即位後の翌年に生まれた御子で、和邇氏の治める菟道の木幡で暮らしていた。父が矢河枝比売と出会ったのは、父が近江に行幸した際のことで、父が一目ぼれし、妃に迎えたのだという。

 たしかに、その母ゆずりなのであろうか、宮に入ってくる弟の姿は、顔の線が細く、透きとおるような肌をし、綺麗な顔立ちをしていた。




 

 吉野へ発つに際して、大鷦鷯は行軍用の正装にまた着替えさせられた。

 そこで稚郎子と顔を合わした。

 声をかけると、稚郎子は小さく頭をさげた。


「はじめましてだな。われはおまえの兄の…」


「存じ上げております。兄上の大鷦鷯さまでございますね」


 その澄んだ声と、幼い見た目とは裏腹の言葉遣いと佇まいに大鷦鷯は少々面喰った。しかし、動揺は顔には出さず答える。


「おう。そうや。よう知っておるな」


 お得意の、にかっと大鷦鷯は笑ってみせたが、稚郎子は表情も変えず「よろしくお願いいたします」とだけ言って頭をさげた。

 なんだか調子が狂わされるような気がしたが、戸惑う間もなく女嬬たちが大鷦鷯に群がり、服を脱がされ、白い絹の衣を羽織らされていった。

 角髪もまた結い直され、金の王冠、金の耳飾り、金の装飾を施した腰帯をつけられていく。腰帯には、今まで見たことない不思議な太刀も付けられた。


「これはなんや?」


大鷦鷯が問うと女嬬が答えた。


「それは七枝刀(ななつさやのたち)と申します。百済から献上された儀礼用の剣でございます」


「ほう」


 大鷦鷯は手に持って眺めた。

 これが七枝刀か。たしかに剣の先が七つに分かれている不思議な形をしている。儀礼用のものだということだから、これで人や獣を斬ることはできないであろうが、叩いたら痛いだろうなと思った。そうだ。これで、さっきの葛城の女子の尻をひっぱたいてやりたい。


「兄上。その佩刀(はいとう)は、かつて百済と新羅が戦になりかけた際、千熊長彦(チクマナガヒコ)が倭国から百済に派遣され贈られた剣でごさいます。王はそれで倭国との繁栄を願い、鋼を百度鍛えてつくったといいます。なので大変に貴重なもの。粗末に扱っていいものではありませんのでございます」


「……」


 まさか弟の稚郎子にいさめられるとは思わなかったが、妙に年長のものに言われるような威厳と説得力があった。


「でも、なんでそんな百済と揉めたり争うようなことになったりしてしまうんや…」


 大鷦鷯は七枝刀を腰帯に戻しながらなにげなく言った。

 すると、稚郎子は「………」と、その小さく細い手を顎にあてたまま固まってしまった。

 おや?

 その真剣なまなざしが、また様になっているも憎たらしいが、この少し生意気な弟を言い負かたような気がして大鷦鷯は優越感に浸った。

 稚郎子は、ひとりでなにかを確認するようにうなずくと、


「島国である倭国と半島や大陸の国々では大きく状況が違うのでございます。それはその国が持つ歴史や伝統、地形や風土も加味されるのでございます。どちらが正しいのかというわけではありません。どちらも間違っている場合もありえます。ある意味では、力は平等であります。解決はしないが、決着はつけることができるのであります…」


 なんかややこしいことを言い始めたな。そもそも、われの問の答えにもなっていないし…。大鷦鷯はめんどくさいことになってしまったと頭を抱えた。


「兄上、悩む必要はありません。われわれはわれわれが正しいと思うことを成すので正しいのでございます」


 大鷦鷯は顔をあげた。


「だから戦をすると?」


 その時、頭の中にはサトの顔が浮かんでいた。

 涙ながらに戦をやめるように頼んでくれへん?と懇願した顔。


「兄上は…、この戦に反対なのでございます…か?」


 稚郎子は声をひそめて言った。

 衣を整えていた女嬬も手を止めて、体をこわばらせるようにした。

 大鷦鷯はすぐには答えなかった。正直なところ、どちらでもなかった。そんな話に加わりたくないというのが本音であった。しかし、弟に向かってそんなことは言いたくなかった。今倭国が戦をしなければならないという状況はわれも十分に理解している。今戦わなくては、いずれはこの大八洲が戦場になってしまうやもしれないのだ。大陸の侵略というものはわれらの思う比ではないと、お爺からも散々に言い聞かされた。根絶やしにされ、永久に搾取され続けると…。


「できあがりましたぁ」


 いきなり、女嬬たちが大きな声をあげて場違いなほどの呑気な様子で言った。


「………」


「………」


 大鷦鷯と稚郎子は、その声で目を覚ましたかのように互いに見合った。

 そこで話は終わった。

 稚郎子はなぜか「ふっ」と微笑むと、

「では、表に参りましょう」と扉の方を振り向いた。

 それは兄であるわれの言う言葉やと、大鷦鷯は年長者として叱るべきであったが、なにも言わなかった。

 でも心に決めた。

 もうこの弟とさしで話すのはよそうと。

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