第1章 3話「戦の準備」

 数日が経って父ことスメラミコトが、軽島豊明宮にて高句麗との全面戦争も覚悟の上で倭国軍を半島に出兵させることを宣言したと、大鷦鷯は誉田真若から伝えられた。

 その規模は過去に例がないらしく、任那(みまな)に駐屯する軍と合わせれば、兵の数は数万になるという。

 大鷦鷯が真っ先に思い浮かべたのは、先日「戦(いくさ)になるのか?」と尋ねてきた民の姿であった。われは「それはない」と軽々しく否定したが…。


「それは、ほんまのことなんか?」


 思わず誉田真若に尋ねた。


「わしが嘘をつくと思うか?」


「いえ…」


「事の発端はじゃな…」


 誉田真若が姿勢を正し語り始めた。これは話が長くなるなと覚悟をした。


「数年前に百済の辰斯王(シンシオウ)が高句麗に寝返り倭国に反旗をひるがえたことにはじまる。その際、スメラミコトはすぐさま密偵を送り込み、辰斯王を事故にみせかけ殺害した」


 大鷦鷯は目を見開いて驚いた。それは初耳であった。


「そして、新たに阿花王(アカオウ)を立てた。混乱が起きなかったのは、もともと辰斯王が先代の王子であった阿花王を若すぎるという理由で政権を簒奪したようなもので、百済の中にも辰斯王をよく思っていなかったものが少なくなかったからじゃ。しかし、結果的にはその阿花王も倭国を裏切るような形になってしまった。阿花王は独断で倭国に援軍を求めることもなく高句麗に反撃し、敗退したあげく、高句麗の南下を許してしまった。このままでは百済が高句麗に飲まれてしまうのも時間の問題じゃ…」


 大陸と直接対峙はしたくはないが、交易の足掛かりを持ちたい倭国からすれば、その橋渡し役といえる百済はなくてはならない存在であった。もちろん、軍事的にも。

 その力加減が崩れるということは、今後倭国は常に大陸の侵略に怯え、公平な交易も行えなくなることは容易に予想がつく。つまり倭国が総崩れということである。スメラ族によって、ようやく平穏を取り戻した大八州も、また長い混乱と戦乱に陥るであろう。

 しかし、理解しかねるのは、その利害は百済も共有していたはずなのに、なぜ裏切るようなことをするかである。これが誉田真若の言う、文字を使うものと使わないものの違いなのであろうか。


「倭国にとって負けれない戦であることは、大鷦鷯も理解できるな?」


 誉田真若が鋭い目つきで問うてきた。大鷦鷯は無言でうなずくも、やっぱり我慢できずに問うた。


「その戦を避けることはできなかったんやろか?」


 誉田真若は「はぁー」と大きくため息をつき、「ごほごほ」と咳き込んだ後、


「おまえの父がどれほどこの戦を避けようと苦労されたことか!やむを得ずのことなのじゃ。むしろ早く手を打っておけばここまで危機的なことにはならぬかった!」


 と壁が揺れるかと思うほどの怒声が轟いた。部屋の外で、どてっと女嬬が倒れる音がした。


「大鷦鷯よ、大和へ行け!」


「へっ!!??」


 あまりに唐突で体が飛び上がった。


「おまえの父は、吉野へ行幸し、戦勝祈願をすることを決めた。かつて、初代スメラミコトを勝利に導き、大和へいざなったカミの力を借りるためじゃ。御子も一緒に行くことになっておる」


 なんだ、そういうことかと大鷦鷯は胸をなでおろす。まさかわれも戦地に出向けと言うのかと思った。


「準備をして明日の明朝に発つのじゃ。わかったな?」


 誉田真若の有無言わさぬ目がこちらを見た。

 大鷦鷯は、今度は素直に黙ってうなずいた。





 大鷦鷯には、久しぶりの大和入りであった。

 昨夜は目が冴えてまったく寝付くことが出来ず、長い夜が過ぎ去るのをひたすら待たなければならなかった。ようやく陽が上るという頃になって眠りに入りかけたが、ドタバタという足音で目を覚ました。女孺たちが支度のために駆け回っている足音であった。

 大鷦鷯は体を起こし、大きく伸びをしてから立ち上がった。部屋から出ようとすると、外に控えていた女孺が礼をし、「御子さま。お着替えをしていただきます」と有無言わさず衣を着替えさせられた。角髪(みずら)も結い直される。

 宮殿から出て空を仰ぐと、あまり良い空の色ではなかった。まるで、なにか良からぬことが起こるのを予感をさせるように雲が渦巻いている。

 その時だった。宮の入口の門の方から、「さぁ、ここから立ち去りなさい!」という強い声が聞こえてきた。何事かと聞き耳をたてると、聞き覚えの女子の声がした。


「サト!?」


 大鷦鷯は慌てて駈けた。

 門のところで、舎人に塞がれているサトの姿が見えた。

「サト!」と大鷦鷯が名を呼ぶと、舎人が振り向き、サトも「大鷦鷯!」と呼んだ。


「どうした?何事や?」


 大鷦鷯が近づくと、舎人が礼をし道をあけた。

 サトは今にも泣きだしそうな顔で早口で言った。


「なぁ大鷦鷯。うちのお父(とう)が戦のために兵として邑を出て行くことになるて言うとる。どうしよう!」


「……」


 サトの父は、大和川の船の荷役をしていた。戦になると兵は各地から集められると聞いていたが、この片足羽も例外ではなかったということらしい。しかし、人手のいる収穫の時期も控えている上、重要な水運の担い手も兵として出向くということは、よほど状況は切羽詰まっているということなのであろうか…。


「うちのお父だけやないで。邑の男たちが何人も!お母たちも働き手がいなくなったら大変やって騒いどる!なぁ大鷦鷯のお父はスメラミコトなんやろ?戦をやめるように頼んでくれへんか!」


「……サト、それは…」


 大鷦鷯が言い淀むと、サトは真顔に戻り、全身を舐めるように見た。


「大鷦鷯も…戦に行くの?」


「あぁ、これか」


 いつもと違い腰帯も付け正装していたので、そう思ったのであろう。


「ははは。われは戦には行かんよ。これから大和へ向かうんや。スメラミコトが吉野でカミに祈りを捧げるからな」


 大鷦鷯は高笑いしたが、サトの顔はみるみると青ざめさせて言った。


「なぁ、戦をやめるように頼んでくれへん?」


 再度、サトが懇願した。

 大鷦鷯はここは適当に答えてはいけないと、サトの目を見て言った。


「サト…、それはさすがのわれにも無理や」


「なんで?」


「なんでもなにも、無理なもんは無理や」


「……」


「サトのお父は無事帰ってくる。そのために吉野へ行くんや」


「前の戦でも帰らんかったものが多かったってうち聞いた」


 前の戦…。父上の母上である気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)が九州から半島に出向いたことであろう。


「なぁ!はやく大鷦鷯がスメラミコトになって、戦を止めるようにして!」


 サトは大鷦鷯の体を両手で持ち揺すぶった。

 咄嗟に舎人が動いたが、大鷦鷯が制す。


「サト無理なこと言わんといてくれ。それに、われはスメラミコトにはならん」


「じゃあ…、うちも吉野に連れていって!」


「サト…。それも無理や…」


「……」


 サトを落ち着かせようと肩に手をかけたようとしたが、サトはそれを振り払った。そして、「もういい!」と叫ぶと、走って去って行った。


「サト!」


 大鷦鷯は追いかけようと身を乗り出したが、すぐうしろに引っ張られた。振り返るとそこには誉田真若の顔があった。

 誉田真若は言葉もなく顔を振る。

 大鷦鷯はもう一度前を向き、サトが去った先を歯痒い思いで見るしかなかった。





 大鷦鷯一行は誉田宮を発った。

 二人の舎人が先導して歩き、女孺と蓋(きぬがさ)を持った舎人が大鷦鷯に付いて歩く。石川を傍目に南下し、葛城山と二上山の間を登った。

 この峠道が河内と大和の中心を結ぶ最短の道である。縫うように峠道を抜けると、一気に景色がひらけ大和盆地が望めた。

 遠くに畝火山の影と先には連なる山脈。まさにこれが、かの日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が故郷を望郷し歌ったと伝わる「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 大和しうるはし」の景色であった。

 たしかに大和ほど国を作るにふさわしい場所はない。豊かに稲穂を実らせる大地と、山間から流れ出る清水。気候は穏やかで、大地の地揺れやスサノオ(火山)の噴火の心配もない。青垣のように連なる山脈も、ただ美しいのではなくこれは大和を守る要害とも言えた。

 山を下り、当麻道(たぎまのみち)を行き、畝火山を目指してひらすら歩いた。初代スメラミコトが宮を置いたのはあの山の麓であった。今、父が置く軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)もほど近くにある。

 道はまっすぐと続いており、両脇は見渡す限りの水田が広がっていた。風が吹くと緑の稲穂がなびく。まるで風の通り道が見えるかのようで、大鷦鷯は思わず目をつむり、鼻で息を吸い込んで青葉の香りを楽しんだ。

 軽島豊明宮に着いたのは、陽も沈みかけようとしている頃であった。

 宮の門で久米部(クメベ)の兵が立ちふさがった。久米部は、初代スメミコトと共に大和入りした兵団で、今もスメラミコトの宮を警固する兵として従事している。元は海辺の民だったのか目元に刺青が入っており、目がつながっているように見える独特の風貌をしていた。

 舎人が誉田宮から来た大鷦鷯であることを伝えると、久米部の兵が門をあけ、大鷦鷯一行を宮の中に入れた。

 大鷦鷯は久しぶりの軽島豊明宮を見渡した。当たり前であるが誉田宮よりも広く、大きな高床の建物や朱色の建物も数棟建っている。宮の中はざわざわとし、多くの甲冑をきた兵が行き来していた。先ほどの入口の久米部の兵もいつになく殺気立った面持ちをしているように見えたが、これが戦というものなのだろうか。

 正面の朱塗りの宮殿の前で、殿上の父上と母上に再会した。

 父上は「明日に備えて休め」とだけ言ってすぐ宮殿に入った。母上は何も言わなかったが、優しく微笑んだかのように見えた。

 大鷦鷯の一行は離れの建物に入った。そして夜を迎えた。

 闇に包まれても、篝火(かがりび)の音と兵の甲冑のすれあう音がいつまでも聞こえていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る