第1章 2話「田植え」


 田植えの時期がきた。

 田植えの準備は、まず昨年の稲株や雑草を取り除くことからはじまる。それが終わると水田に水を引きこむための水路に杭と横木を打ち込み、土や木の枝をつめて小さな堰(せき)をつくり、畦の補修を行っていく。地のカミへの祈りがささげられたあと、田に水を敷き、鍬や鍬を使い土を細かく砕くと、朳(えぶり)を使って土の表面を平らに整えれば準備は完了だ。

 毎年、この時期になると誉田宮に従事している舎人(とねり)や女嬬(にょじゅ)も最小にとどめて、地元へ帰す。稲作はとにかく人手がいる。米作りは大八洲の国々が総出で行う国策であった。

 大鷦鷯は活気の出る邑の方を眺めては、やきもきしていた。宮の中は対照的に人気のなく静まり返っている。

 とりあえず、宮の中を一周してみた。それから辺りを見渡す。

 舎人の姿が、丁度大鷦鷯が立っていた場所から見えなくなった。

 その瞬間を逃さなかった。大鷦鷯は割れた垣の間を器用にすり抜けると、一気に斜面を下った。

 あとはひたすら駈けるだけであった。河原までたどり着くと、石川に丸太をかけた橋を渡る。邑を傍目に土手をさらに駈け、水田の方へ向かった。

 土手が途切れ、石川から引いている水路が見えてきた。

 水路は何度見てもおもしろく興味深い。水という掴めないものを人の手で自在にあやつり導いていくのだ。大鷦鷯にはまるで水が行進しているように思えた。おまえはこっちに。おまえはそっちにと振り分けられて。そして最後は川で、おまえ久しぶりだなと再会する。

 反面、哀れなものとも思う。水は流れるという運命には抗えないのだ。しかし、それは人も同じかもしれないとも思う。われらもカミという抗えない力によって流されているだけなのかもしれないと…。

 水路の先に邑の子供たちが群がっているのが見えてきた。皆熱心に水路を覗き込んでいる。大鷦鷯も近づくと同じにようになって覗き込んだ。


「おぉ、大きいのが泳いどるな」


 大鷦鷯が大きな声でそう言うと、水路を覗き込んでいた子供たちが一斉に顔を上げ、大鷦鷯の方を向いた。

 何人かは驚いた顔し、何人か茫然と眺め、何人かはすぐ視線を水路に戻した。

 水路には川から迷い込んできた魚が泳いでいた。これもこの時期の邑にとって貴重な収穫物であった。先にはウケと呼ばれる蔓を編み上げた魚を捕える仕掛けもしてある。

 すると突然、鼻を垂らした素っ裸の男子が、


「この魚はおららのもんや。やらんぞ!」


 と大鷦鷯に向かって舌足らずに叫んだ。

 となりにいた男子が、すかさず「こら!」とその男子の頭を叩く。


「はははは。われは獲らんぞ。心配するな」


 大鷦鷯が空を仰いで大声で笑うと、子供らもどっと沸いた。

 その時、「あっ!大鷦鷯!」と名を呼ぶものがいた。

 大鷦鷯は振り返る。サトだった。嬉しそうな顔をして駆け寄ってくる。


「最近見やんかったね。どないしてたん?」


「まぁ、いろいろあってな」


 周りの子供が今度は不思議そうな顔でサトを眺めた。


「今日はなにしに来たん?」


「われも田植えを手伝おうと思ってな」


「へぇー。宮の人もごくろうなことやね」


 サトは少し考えるそぶりをして、


「丁度、今お母(かあ)らが稲を植えようとしているところやわ。行く?」


「もちろんや!」


 大鷦鷯は即座にうなずいた。


「じゃあ、こっち」


 サトが先導して畦を歩いた。

 細い畦道を水田に落ちないように気をつけて歩いていく。どの水田でも大人たちが腰を降ろして稲を植えていた。誰しも黙々と作業を続け、こちらを見ることはない。


「お母!」


 サトがそう叫ぶと、先の水田で何人かの大人が顔をあげてこちらを見た。皆真っ黒な顔をしていた。泥が付いているというのもあるが、男も女も皆日焼けをしているのだ。


「大鷦鷯が田植え手伝いに来たよ。うちも手伝う!」


 サトが何食わぬ感じにそう告げると、周辺の水田の大人たちが一斉に顔をあげた。

 サトがさらに細い畦に入って行く。


「なぁ。お母ええやろ?」


 サトにお母と呼ばれたその女は、大鷦鷯に会釈したあと、困惑した表情で周りの大人と顔を見合わせた。そして、水田の中をゆっくりとサトと大鷦鷯が立つ畦まで歩いてきた。


「あんたなぁ…」


 サトのお母はサトに向かって言いながら、大鷦鷯を見ると再度会釈した。


「そこの苗代(なえしろ)から苗を持ってきて、皆に手渡していって」


「はい!」


 サトが返事をすると、サトのお母はさらに再度大鷦鷯に会釈すると、ゆっくりとまた水田の中を戻って行った。

 苗代というのは、水田の脇に小さく別に分けて稲を密集させて育成させていると場所のことで、雑草に負けないように稲を十分に育成させてから水田に植えるためのものである。

 サトが慣れた手つきで苗代から苗を手に取り水田に入った。大鷦鷯も同じようにして、水田に足を踏み入れた。足になんとも言えない感触が伝わる。思わず「おぉ」と声が漏れた。この感触が好きだった。大地と一体になったような感覚になる。水田の中をこけないように慎重に進み、大人のうしろに付き苗を手渡していった。

 周りの水田をよく見ると、同じように子供が大人と並び田植えを手伝っている様子が見えた。大鷦鷯は、なんと尊いことなんだろうと思う。民の手と、天と地のカミの力を借り、大地に実りを与えていく。小さな苗が稲穂になり、あたりを埋め尽くす光景が今から思い浮かんだ。われわれは抱かれ、いただき、生かされているのだ。

 作業が一通り終わると皆で休んだ。

 大鷦鷯は寝そべり、大空を独り占めしていた。


「大鷦鷯疲れた?」


 サトが声をかけてきた。大鷦鷯は首を振る。


「お母らがこれを大鷦鷯にもどうぞって」


 サトが持っていたのは草に乗せられた白米のにぎりであった。民にとっては滅多に食べれない貴重な白米だ。普段は稗、粟を食すが田植えや稲刈りの時は力がいるため食べるのだ。

 大鷦鷯が「ええのか?」とサトに尋ねると、サトは「うん」とうなずいた。

 大鷦鷯は起き上がり、白米のにぎりを口に入れた。

 ちょっと固く、宮で食べる米とは少し違うように感じた。でも旨かった。

 食べたあとは眠たくなってきて、大鷦鷯は寝そべりぼんやりと景色を眺めていた。

 すると、邑の大人が数人、大鷦鷯の前にやってきた。大鷦鷯が視線をやると、大人たちは伺うようにして言った。


「御子さまにお聞きしたいことが」


 うしろに立っている一人が、「御子さまに訊いても仕方ないだろ」と小声で言っている。

 大鷦鷯は立ち上がり、「われで良ければ聞くが」と答えた。

 大人たちは互いに見合い、それから先頭にいた一番年寄りに見える男が話した。


「実はその…、戦(いくさ)になると聞いたのですが、本当のことじゃろうかと」


 大鷦鷯は、あぁ、そのことかとうなずく。

 こないだお爺が言っていたことであろう。たしかにいろいろ大陸の国と揉めてはいるようだが、戦になるという具体的な話までは聞いたことはなかった。


「それはないやろうな」


 大鷦鷯は断言した。

 すると、大人たちが安堵したような表情になった。


「ははは。安心せえや」


 大鷦鷯はにかっと笑ってみせた。

 視線の端に、ふとサトが心配そうにこちらを見ているのが見えた。

 視線をサトの方にやり、「大丈夫や」と目で伝えた。

 それでサトには伝わったようで、サトは安堵したように微笑みを返してきた。

 そのあと、夕暮れ近くまでまた田植えをし、大鷦鷯は宮に帰った。今日はこっそりと気付かれず、宮の中に入ることができた。

 宮殿に入ると、誉田真若が「大鷦鷯どこにおった?」と姿を見つけては訊いてきた。

 大鷦鷯は、「宮の中をぐるぐると歩いておったんです」と答えた。


「ほう。だからそんなに日焼けしておるのか」


 誉田真若は、その長い白髭を撫でながら言った。


「へへへ」


 大鷦鷯は冷や汗をかきながら離れた。

 廊下を歩き、隅の自らの間に入ると女嬬が出迎えた。


「おかえりなさいませ」


「うむ」


 女嬬が衣を脱がしてくれる。


「うわぁ。どろどろ」


「うむ」


「田植えは無事終わりましたか?」


「うむ…、いや、そういえば、そんな時期であったな」


 大鷦鷯はしらじらしく答えた。


「わたくしの故郷でもそろそろ終わったころでしょう」


「ほう。おぬしの故郷はどこやったか?」


「丹波国桑田(京都府)です」


「それは、なかなか遠いな」


「はい。しばらく帰っておりません」


「帰りたいか?」


「いえ」


「そうか」


 そうこうしているうちに陽が暮れた。

 田植えをしに邑に向かったことはそのままお咎めがなかったので、バレていなかったと大鷦鷯は胸をなでおろした。

 横になると、体がふわふわと浮くような疲労を感じた。

 でも、なぜか心地がよい。体を自分の思うがままに動かして働いたせいであろう。

 いつの間にか、まったく境目がわからぬまま眠りに入っていた。

 稲穂に囲まれている夢を見た。

 なぜかわれは、犬が田の中に入ってこようとするのを必死に止めているのだ。そして、最後は足をすべらせて水路に落ちたところで目が覚めた。

 天井を眺めながら、思い返して一人でにやけた。

 そのままぼーっとしていると、帳(とばり)の隙間から陽が差し込んでくるのが見えた。

 朝になったのだ。鳥がちゅんちゅんと鳴きだした。大地が目覚めようとしている。

 しかし、大鷦鷯はもう一度寝た。

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