第2章 2話「許されぬ思い」
ひと月後。
軽島豊明宮に髪長媛が招かれ、スメラミコトと対面することになった。
髪長媛は滞在していた桑津(大阪府大阪市東住吉区)から一行と共にやってきた。
宮殿でスメラミコトが直々に出迎え、儀礼が行われたあと、宴があった。
同席した大鷦鷯は、宴の間中、ずっと髪長媛のことを見ていた、
髪長媛もこちらを見ては、目が合うとすぐ反らし、少し微笑むような顔をする。
言い知れぬ満足感と高揚感があった。しかし、それと共に罪の念もあった。
大鷦鷯は、髪長媛の“すべて”を知っていたからだ。
難波津で迎えてからの日々を思い返すと、それは夢のような日々でもあり、苦悩の日々でもあった。
あの日から、大鷦鷯はふとした瞬間、いや常に、髪長媛の姿が思い浮んでは消えなくなった。単純に心配という気持ちもあった。遠い地から遥々とやってきては桑津で過ごす一人の娘。心細くはないであろうか、不安ではないであろうかと…。
しかし、それは本心でないということは薄々気付いていた。説明のつかない思いを、なんとか言い訳のように理由づけしようとしているだけに過ぎないと。
毎晩目が冴えて寝床を出ては月を眺めた。
こんなことは今までになかった。ただ天井を眺めているだけでは気が狂いそうになるのだ。しまいには、月明かりに照らされる山の影が髪長媛の姿に見えては身悶えする夜もあった。女孺たちはわれが病になったのではないかと心配したが、体にはなんの異常もなかった。むしろ力がみなぎるほどなのだ。
しかし、そんな夜を何度か重ねるうちに、ついに食欲もなくなってきて、本当に病のようになってしまった。そして気付いた。われはただ髪長媛に会いたいだけなのだということが。せめて、もう一度あの姿を見れるだけでも…。そうすれば、このわれを支配しているものも説明できるのではないかと、思い至った。
翌朝、大鷦鷯は一人で桑津に向かった。
どうかしていることはよくわかっていた。しかし、それ以上に切羽詰まっていたのだ。今晩には頭を掻きむしって死んでしまうかもしれない。信じらないが、昨夜は月を眺めて涙を流してしまった。夜がこんなにも寂しいものだなんてはじめて知った。
桑津の髪長媛が滞在している建物に着くと、門番をしていた舎人、あの鹿男たちに囚われかけそうになった。なんとかわれは難波津で迎えたスメラミコトの御子だと伝えると、鹿男たちも思い出したようで、ようやく身を自由にされた。
それでも鹿男は警戒するような目つきで、
「髪長媛さまがスメラミコトの宮に向かうのは来月と訊いているが、何用で?」
と迫った。
「いや、髪長媛の様子を伺ってこいと宮からの命令が出てな」
大鷦鷯は嘘をついた。
鹿男たちは相談しあったが、すんなりと髪長媛の元へ通された。
大鷦鷯は、いよいよあの髪長媛の姿をもう一度見れるのかと思うと、心臓が波打つのがわかった。情けない話だが、せっかくここまできたのに逃げ出したくすらなった。
鹿男が髪長媛を呼んだ。扉の向こうで人が動く気配があった。
「はい」と小さく声がする。大鷦鷯は息を飲み直立した。
その直後であった。バタンと大きな音がしたかと思うと、「きゃー」と悲鳴が聞こえ、大鷦鷯たちが身構える間もなく、勢いよく扉が開き、髪長媛が飛び出してきた。
「きゃーっ!!」
「うわっ!!」
大鷦鷯は仰向けに倒れ、その上に髪長媛が乗っかってきた。
「うげっ!」
柔らかい感触のあとに衝撃があり、その圧力に一瞬気を失いかけたが、すぐに鹿男たちが髪長媛をひっぱり起こした。
「ふぇ~ん、すみませ~ん」
髪長媛は大鷦鷯の前に屈み、手を合わせて謝った。
「わ、われは…、大丈夫やが…」
「そこで足をひっかけてしまったんですぅ」
髪長媛はうしろを指さした。建物と表を仕切る木があった。なるほどそれでこけてしまったということか。しかし、豪快なこけかたであった。
「あれ?どちらさまでぇ?」
髪長媛はきょとんとこちらを見つめた。
「髪長媛さま。大和のスメラミコトの御子さまです」
鹿男が説明すると、「あぁ~、すみません。すみません」と髪長媛はうしろに身を引き、目に涙を潤ませて謝った。
「いや、いいんや…、わ…われのことは」
大鷦鷯は先ほどまでの緊張がすべて吹き飛んでいた。
髪長媛は正装もしていなかったので印象が違うというのもあるが、先日難波津で迎えたときとはえらく違って見えた。なにより、鼻にかかった高い声。よく考えれば面と向かってしっかりと会話をしたわけではなかったので、この娘はこんな声でしゃべったのだ。澄ました顔からでは想像のつかない幼い声であった。とはいえ、それを差し引いても、令しい姿には変わりはなかった。むしろ大鷦鷯は親しみを感じて、より愛おしく思った。
「あの~、御子さまがわたくしに何かようで?」
髪長媛は上目使いで首をかしげた。
「いや…、慣れぬ土地で不便しているのではないかと思ってな。わ…われの役目はおぬしが無事大和に着くことを任されておるので…」
「そうですかぁ。わざわざ御子さま直々に様子を見に来ていただけるとは」
髪長媛は頭を下げた。大鷦鷯の目線は、胸元に覗いた豊満な谷間にいった。
「でも、安心してくださいませぇ。何不自由なく過ごしておりましたうえ」
「な、ならよかった」
「はぁい」
「わ…、われのことを覚えておったか?」
大鷦鷯は、ようやく髪長媛の目を見て尋ねた。
「…?」
髪長媛は少し首をかしげ、「えぇ。もちろんでございますぅ」と答える。
「なら、よかった」
互いに少し笑い合った。
そして、髪長媛は「御子さまの顔は一度見たら忘れられませんものぉ」と潤んだ目をこちらに見せたのであった。
*
結局それから何度か、大鷦鷯は髪長媛に会いに桑津に向かった。
「なにか、困ったことはないか?」
「とても良くしていただいております。近くの邑から届けられたこのあたりで獲れた魚もいただきましたよぉ。とても美味しかったのでございます」
「そうであったか」
大鷦鷯は満足気にうなずく。
「では」
と大鷦鷯が去ろうとすると、髪長媛が「あの…」と声かけた。
「なんや?」
髪長媛は迷うようなそぶりを見せ、「いえ、なんでもありません」と頭をさげた。
「…そうか。では、くれぐれも体に気をつけて」
「はぁい…」
そしてまた数日後、大鷦鷯は遥々とやってきては尋ねた。
「寂しくはないか?」
髪長媛は少し考え、
「わたくしは大丈夫ですぅ。それより御子さまの方こそ大丈夫でございますか?」
と逆に訊ねてきた。
「われか…、われは大丈夫や」
「しかし、初めにお会いしたときと比べ、とても痩せたように思います。なにか病でございますか?」
「いや…」
大鷦鷯は頭を振りつつも、そう見えているのであろうかと考えた。近頃はほとんど飯ものどが通らず、眠ることも出来ていなかった。立っているのがやっとというほどで、よくここまでは歩いてこれたものである。
すると、なにを思ったのか、思わず本心をそのまま吐露してしまった。
「髪長媛のことがとても心配で、夜も眠れないのです」
口にしてしまってから、しまったと口に手をやった。
髪長媛の見据えるような目がこちらを見ていた。
「…では、また」
大鷦鷯は急いでその場を去ろうと振り返った。
すると、「待って」と髪長媛がささやいた。
「今なんて言われましたの?もう一度言ってください」
今度はしっかりした声でそう言った。
大鷦鷯は背を向けたまま、
「いや…、今のは忘れて…」
と手を振った。しかし沈黙が続いたので、我慢できず振り返った。
「はっ」
大鷦鷯は目を見張り息を飲んだ。髪長媛の目からは涙がぽろぽろとこぼれていたのだ。
「ぜひお聞きしたいですぅ。もう一度…」
大鷦鷯は覚悟を決めた。
「初めて会ったあの時から、われは髪長媛のことが頭から離れずになりました。ひと時も見ない瞬間があれば、不安でならない。できればずっとそばにおりたいと…」
そこまで言って、髪長媛がふっと微笑むのが目に入った。
大鷦鷯は胸が張り裂けそうに痛むのを感じた。もう二度と、ここには来るべきではないと悟った。
しかし、髪長媛の次の言葉を聞いてすべてが変わった。
「そんなこと言われたのは、生まれた初めてでございます…。どうぞ、お入りになってください」
と建物の中に案内されたのであった。
大鷦鷯が足を踏み入れると、髪長媛は自分でそうしたのに、どうすればよいのかわからないようで頬を赤く染めてはあたふたとした。
「あぁ、どうしたらいいのでしょうか、わたくし。なんだか困っちゃいましたぁ」
大鷦鷯はなにも言わず、やさしく髪長媛を抱きしめた。
「……」
「……」
今全身で感じているものだけが、この世に存在しているかのようであった。
われはどうかしてしまった…。
しかし、われはこうなることを求めていた…。
よい匂いがした。まるで若草のような…。
強張っていた髪長媛の体から、次第に力が抜け身をあずけるのがわかった。
*
宴は終盤を迎えていた。
各豪族たちがスメラミコトを称え、髪長媛の容姿を褒めた。
一度、父上と目が合うことがあった。その黒く沈んだ目。父上はゆっくりとうなずいた。
「わかったおるぞ。われはすべてを」
そう言ったように見えた。
大鷦鷯は覚悟を決めた。われは死罪になるであろうと。
かつて先代の頃にも似たようなことがあったという。
第十二代スメラミコトの御子である大碓(オオウス)が、妃を迎えるために美濃に遣わされた。しかし、その娘があまりに美しかったため、父には別の娘を差し出し自らはその娘を妃にしてしまったのだ。結果、大碓は弟の小碓(オウス)によって殺されてしまう。
兄弟、ましてや親子で妃の取り合いなどもっとも忌むべきことであった。
われはその間違いを犯してしまったのだ。あるいは血は争えないと言えるのかもしれない…。
「皆のものよ」
父上の声が響いた。場が静まり返る。
「皆に集まってもらったのは他でもない、かつてわれに仕えてくれたこの日向国の牛諸井が…」
父上のとなりに座っていた男がうなずいた。
「われの恩に報いるため、娘の髪長媛を宮に入れると申してくれた」
さらにそのとなりの髪長媛が恭しくうつむいた。
「われは誇らしい。これほど令しい娘が、わが御子である大鷦鷯の妃となってくれるのは」
「………」
一同から拍手が起こった。
大鷦鷯は、なにが起こったのかわからなかった。口をぱくぱくとさせ、周りを見渡した。
父上を見る。父上はそのつらぬくような強いまなざしをこちらに向けていた。
ようやく大鷦鷯はすべてを悟った。父上はすべてお見通しだったのだ。
となりの牛諸井を見る。牛諸井は「よろしくお願い申す」と言わんばかりに頭をさげた。髪長媛はただ優しく微笑み、首をかしげてみせた。
なにも知らなかったのはわれだけであったのか。
大鷦鷯はまいったと頭をさげてうなだれた。
そのまま力なく倒れ込むと、一同からどよめきが起こり、多くの顔が大鷦鷯を覗き込んだ。
「御子さまどうなされた?」
「大丈夫でございますか?」
矢継ぎ早に声があった。
大鷦鷯はぼんやりと天井を眺め、
「嬉しすぎて、体に力が入らんのや」
と言った。
一同から、わはははっと笑いが起こった。
大鷦鷯も力なく笑った。そして噛み締めた。全身から湧き出る安堵と喜びを。
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