隙間録:塩サバ


ただいま、と。

智彦は自宅の玄関の扉を開けた。


下駄箱上のハッカ油の匂いを鼻腔に染み付かせ、智彦は靴を揃える。

そろそろ靴を洗おうと、脳内の買い物ノートに専用石鹸の購入を書き込んだ。


「おや、お帰り」


迎えたのは、アガレスだ。

オンライン上で談義をするためか、燕尾服が似合いそうな美丈夫の姿を成している。


「ただいま。母さんは?」

「ヨガ教室に行ったよ。日々健康的になり良い事だ」


アガレスの返答に、智彦は満足気に頷く。

母親に、習い事をする余裕が生まれた。

過去の生活を知っている故に、それだけで、智彦は嬉しく感じている様だ。


「あー、そうだ、アガレス。この間の事件が起きた学校、行った事あるんだよね?」


「あるな。蔵書数が素晴らしかった記憶がある。あと10年程経ったら改めて行ってみるか」


あるのは、本の記憶ばかり。

妙な可笑しさを携え、智彦はエコバッグから牛乳等を取り出し、冷蔵庫へと仕舞う。


「あ、あと、ちょっかいかけて来た悪魔を倒しちゃったんだけど、問題ないかな?」


正確には熾天使会が最後の処理をしたのだが、智彦は若干不安を覚えて、アガレスへと尋ねた。

この件が原因で敵対したくはない。

とは言え、それは杞憂となった様だ。



「問題ないさ。予想するにその学院を餌場にしてた小者だろう。特に興味も無い」

「思ったよりドライなんだね」

「例えばだ、智彦のクラスの……特に交友の無い一人が亡くなったとする。君はどう感じる?」


「あぁ、その程度なのか」


何となく理解した智彦は、自室のドアを開けた。

上着を脱いで、鉄製のロッカーに……。



来ちゃったギィィッ


「いや別にいいんですけどね」



智彦の部屋の家具は備え付けで、殆どが木製だ。

そのロッカーの色彩は温もりのある色の階調をひっそりと長方形の体の中へ吸収してしまい、キィンッと冴えかえっている。


「智彦、私の時と反応が違い過ぎないか?」

「気配を消してた方が悪い。今回は気配があったからだよ」


あぁそうだったなと、座布団へ座るアガレス。

智彦はエコバッグから紙パックの甘酒を取り出し、アガレスへと渡した。


「おぉ、すまないな智彦」

「うん。はい、梓さんも」

『ありがとう、いきなりお邪魔してゴメンね』


呪いのロッカー……あの学院から解き放たれた怪異である梓が、智彦から甘酒を受け取った。

ロッカーの中には、相も変わらず若い男女の頭部が積まれている。

彼ら彼女らは智彦へと救いの目を向けるも、当の本人は苦笑を浮かべた後に知らない振りだ。


『……懐かしい。生きてた頃、おばあちゃんが酒粕で作ってくれたな』


黒いショートボブを揺らしながら、梓はぼそりと呟いた。

そして思い出を咀嚼するかのように、ちびちびと甘酒を口へと運ぶ。


「それは良かった。……えと、何か用事があって来たんですか?」

『うん、ちょっと相談があるんだ』

「夕食の準備があるし、まぁ、1時間ほどなら大丈夫ですよ」


どうせ塩サバを焼くだけだからと笑う智彦に、ありがとう、と。

梓は感謝を伝えた後に、智彦、アガレスへと悩みを打ち明けた。

要は、今から何をすればよいか解らない、と。


『出られなかったから仕方なくあの学院に居たんだけど、今後どうするか……成仏もできないし』


「あー……霊じゃなく怪異になってるから、自発的には無理、なんですかね」


その辺りの知識が未だ乏しい智彦は、アガレスへと目を向ける。

頷くのを見るに、どうやらそうらしい。


『復讐も終わってるし、親不孝しちゃった両親も見て来た。もう心残りが無いから……いっそ貴方に殺して貰おうかと思った』


だけど、と。

梓は困ったように眉を下げ、頭を振る。


『……甘酒、飲まなきゃよかったな』


梓は目を伏せたまま、微動だにしなくなった。

外から聞こえる竿竹屋の声が、妙に部屋へと染み込む。

その沈黙を破ったのは、アガレスだった。


「人に化けて生きるという道もある。最初は単独では危ないな……仲の良い同類はいないか?」


『その、生前虐められていたせいか、同類であっても不信感が強くて、どうも……』


「成程、ぼっち・ざ・ロッカーか」


「アガレスは何故したり顔なの……。梓さんは別に今まで通りでいいと思うけど」


智彦は空気を読まないまま、併せて特に考えずに、言葉を送った。

そのまま空になった紙容器をクシャリと潰し、ゴミ箱へと投げ捨てる。


今まで通り。

どう言う事なのだろう?

首を傾げる梓に、智彦も首を傾げる。



「うん、今まで通り」



『……あー、うん、……その考えは無かった、かな』



梓は智彦の言いたい事を、何となく理解してしまった。

自分自身、その為に怪異と成り果てたのだから。


「別に命を奪えって訳じゃないよ。リリースすれば問題無いし。それで梓さんが救える人は多いんじゃないかな」


『そっか……、そう、だね。うん、そうかもしれない』


梓が、再び甘酒を啜った。

しかしながらその顔には、先程までの憂いは消えている。

外は未だ、茜色の気配は無い。

降り注ぐ陽の光が、彼女の目元をキラキラと光らせた。


その横では、珍しくアガレスが呵々と笑い出す。



「智彦も悪い事を考える。新しい都市伝説が生まれてしまったではないか!」


「でもいい薬にはなるんじゃないかな、って。あ、《裏》等に目をつけられるからやり過ぎないでね?……っと」



気付けば、一時間はとうに過ぎている。

智彦は料理の準備をする為に、立ち上がった。


「梓さんも食べて行きなよ。人の姿に……、いや、そのロッカーから出るだけでいいのかな?」


『うん、でも服がぼろきれだから、何か服を貸してくれると助かる、かな』


「ふむ、とりヤンマーニ♪あえず私の服をヤンマーニ♪貸そ……電話が鳴っヤンマーニ♪てるぞ、智彦」


服を準備し始めるアガレスを一瞥し、智彦は机上に置いていたスマフォの画面を見る。

表示されているのは、つい最近友人となった化け狐だ。

智彦は眉を顰め、通話をタップする。


「もしもし、八俣です。先日ぶりです、狭間さん。……はい、……そう、ですか」


やはりか、と。

思わず、智彦は殺気を滲ませ始めた。


「有難う御座いました。この恩はいずれ。……いや、させて下さいよ。またお願いします、はい」


スマフォを置き直した智彦の後ろには、いつの間にかアガレスが立っていた。

智彦の殺気を感じ取ったのか、その眼には好奇心が宿っている。

なお梓は、普通に顔を引き攣らせている。



「……先日の件で俺に報復する奴がいるかもって。知り合いの妖狐が、彼に従属しているイタチを使って見張っててくれていてね」


「ふむ、いたんだな?」


「うん。そこでちょっとすれ違いが起きててね」


智彦は説明する。

あの日智彦は、友人である堀の名を使っていた。

レクリエーションを邪魔され、恨み神により苦しんでいる者達からすれば、その名前の持ち主が憎しみの対象となる。


「成程。つまり、君の友人に魔の手が迫っているって事か」


「うん、無法者を雇っていて、決行はどうも今夜らしい。食事を終えたら行ってくるよ……と言いたい所だけど」


アガレス。

梓。

智彦は、二匹からの視線を交互に交わらせる。


「相手は、星夜をレクリエーションみたいに、追いやって遊ぶ・・って言ってたみたい。録画しながらね」


仄暗い笑み。

室内の温度が、下がる。


「……相手にさ、狩られる側の気持ち教えてあげてもいいよね?」


だから手伝ってくれる?

と、尋ねる智彦に。


アガレスと梓は少しの間も置かずに、同じような仄暗い笑みで返した。

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