追想
予備動作無しで、智彦の拳が恨み神……花子の顔面を捉えた。
「智彦!」
が、花子の脳漿が爆散する直前に、上村が声を上げ、その切先が止まる。
……いや、上村の声で止まったわけでは無いようだ。
智彦は拳を向けたまま、花子を無表情に睨む。
「…… …… ……」
「智彦、その、もっと圧を弱めてくれると、助かるん、だけど」
「……ごめん、謙介」
殺気になんとか耐える上村に謝罪し、智彦はなんとか心を落ち着かせた。
紗季と共に過ごす時間が無かったら、上村は今頃昏倒していただろう。
そんな智彦の殺気を受けるも、花子は平然としたまま、首を傾げた。
「えと、何か気に障る事をしてしまいましたか?」
花子の言葉に智彦は鳥肌が立ち、嫌な笑いが出るのを抑え、深呼吸をし始める。
言葉にできない、苛立ち。
口より手が出そうな衝動を、智彦は今必死に我慢していた。
「花子さん、智彦は、その富田村で酷い目に遭ったんだ」
「……そういう事だったのですね」
上村の言葉へ頷くと、花子は右手を動かし、智彦の頭部へと触れた。
同時にビクンと体を動かし、眼を見開く。
「……八俣さん、いや貴方様は、多くの恨みを、晴らしてくれたのですね」
「他人事の様に……っ!全部、あんた達の被害者なんだぞ……っ!」
富田村の巫女であったすみれは、残された文献が事実であれば、凄惨な被害者だ。
体内から蟲が湧く儀式を知らされず、巫女として育てられ、当時の村長に嬲られたのだ。
富田村がああなったのは、儀式を穢され怒り狂った神を自称するモノの仕業だと思っていた。
が、実際は、恨み神が力を与えたすみれの仕業なのだ、と。
智彦は今更ながらに、解ってしまった。
恨み神がすみれに力を与えた事で、富田村と言う地獄が出来上がり、多くの人間が犠牲となった。
最初こそすみれは、純粋に村の人間や神と自称するモノに恨みを晴らそうと……。
いや、晴らしたのだろう。
実際、村長は死ねない存在となり、苦しみ藻掻いていたのだから。
問題は、その後だ。
すみれは生者を妬み、自身の力……与えられた力を、私欲の為に使い始めたのだろう。
神すら駒として配置し、自分が楽しむためのゲームを作り、人々を迷い込ませ遊んでいたのだ。
その醜い悪意の根源が、目の前にいる。
智彦がこのまま拳を振り抜けば、花子は間違いなく消滅するだろう。
だが、できなかった。
「……貴方様の怒りは尤もです。だけど仕方ないです……私達は、そういう存在、なのですから」
「解ってるっ!だからこそ救われた魂が多いのも、想像できるっ!だけど……っ」
気付けば、智彦は涙を流し吠えていた。
あの地獄以来弱くなっていた感情の起伏が、爆発したのだ。
上村はその様子に驚くも、この件では部外者だと理解しているので口を閉ざす。
それでも、その場からは離れず、智彦を見守った。
一方智彦は、自身の内で馬鍬う感情を言語化できないでいた。
雑に例えると、ハサミなのだ。
紙を切る為に恨み神は、ハサミを貸してくれた。
普通であればそこでハサミを返して、終わりだ。
なのに、そのハサミを使って人を刺し始める馬鹿が居たというだけ。
恨み神は、善意で貸しただけだ。
その後にすみれという悪意が、善意を塗り替えただけ。
解ってはいる。
解ってはいるのだ。
解っているからこそ、智彦は動けないでいる。
花子の眼から、一瞬ではあるが、コントラストが喪失した。
唇を少しだけ震わせ、智彦へと笑みを向ける。
「……でしたら、私を消して下さい。それで気が済むのなら。貴方様には権利があります」
「それが、出来ればっ、苦労していない……よっ!」
「ふふっ、優しいのですね。私が消えても替わりはいます、気になさらないで下さい」
本音を言えば、智彦はこのまま拳を振り抜きたい。
あの地獄で味わった苦しみを、ぶつけたい。
それが出来ないのは、やはり彼女達に救われた人々がいるから。
この後も、彼女達に救われる存在があるだろうから、だ。
そして、躊躇いの根底には……。
「ですが、あそこで生きたからこそ、今の貴方様がいるのでは?」
「……それも、解ってる、さ」
花子の言葉に、智彦は拳を解いた。
思い出すのは、呪術によって見せられた、あの悪夢だ。
もし、富田村で力を得なければ、あのような未来になっていた可能性が高いのだ。
悪夢の内容ではなく、あの日裏切られた後に何もなかった……力を得なかった場合の、かも知れない未来もだ。
母親との関係は拗れたまま。
友人と彼女だった者からは、蔑まれ。
クラスの連中から陰湿ないじめを受け。
親友との縁を再構築できずに。
アガレスや羅観香等との繋がりが出来ず。
貧乏のまま世を恨み、妬み、嘆く……日々。
力が無ければ、以前の智彦は悪意の食い物にされていた。
智彦は自分を見守る上村を一瞥し、痺れが残る掌を見つめ、諦めるように溜息を吐いた、
(認めよう)
富田村に迷い込み、力を得た事で、今の自分がいる。
母親と和解し。
不要な元友人と恋人を切り捨てる事ができ。
いじめの芽を摘む事もでき。
親友とまた馬鹿話で楽しみ。
この力の縁で様々な友人や知り合いと交わり。
家も手に入れ、明るい未来が見え始めた。
(あぁ、認めるさ)
あの、月明かりの無い深淵の中。
四肢を、顔の一部を、何度か失った。
恐慌状態となり泣き叫んだ事もあった。
何度も、命を断とうと思った。
女性の遺体に、欲情した覚えもあった。
この世にはこんな理不尽があるのかと、絶望を感じた。
(認めてやるさ)
あの地獄で亡くなった人々の、骸の上に立つのは申し訳ないけど。
富田村があったからこそ。
こちらを刺し殺そうとするハサミを奪ったからこそ。
この楽しい日常があるのだ、と。
智彦は目を閉じ、再び息を深く吐いた。
『
眼を開くと、花子は言の葉の花弁を残し消えていた。
思い出したように、寒さが肌を刺し始める。
「初めから解ってた事なんだよ畜生……でも、ありがとうなんて絶対に言わないからな!」
智彦は愉快そうに唇を歪め、空へと声を上げた。
白い吐息が、まるで返事の様に陽が差し込んだ空へ、溶け込んでいく。
「……謙介、ちょっと行く場所が出来たから、付き合って欲しいんだ。時間、ある?」
「もちろんですぞ。では、紗季氏に帰りが遅くなると伝えますかな」
どこへ、と。
そんな野暮な事を、上村は尋ねなかった。
智彦もまた、言葉にする必要は無いと。
乾いた涙の跡を、拭った。
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