日常
ピピピピ……。
ピピピピ……
(ん、ん~?)
遠くから、いや、近くから聞こえる音。
布団に包まれた男が、音の主を手で探るも、その手が徐々に動きを止める。
ピピピピ……。
ピピピピ……。
『バァンッ!』
「うわっ!?」
横の壁から伝わる、衝撃。
智彦はすぐさま布団から飛び上がり、作業の様に目覚まし時計のアラームを止めた。
「す、すみません!」
壁の向こう……お隣さんへと謝罪し、急いで布団を畳む。
カーテンの隙間から伸びる、朝の光。
朝早いというのに、網戸からは蝉の音が入ってくる。
智彦はカーテンを静かに開け、明るくなった自身の部屋を見渡した。
(…… …… ……んん?俺の、いや、僕の部屋?)
見慣れた四畳の自室……、いや、確かに見慣れた部屋だが、もっと新しい部屋では無かったか?
そもそも、引越したはずでは無かったのか?
考えれば考える程膨らむ、違和感。
確か昨日は、直海さんと藤堂君にファストフードの店に誘われ……。
「遅刻するわよ!早く準備しなさい!」
「あ、う、うん」
ヒステリックな、しかし小さい母親の声に、智彦は朝の準備を急ぐ。
いつものように、特売品の菓子パンをインスタントコーヒーで流し込み、制服に着替え始めた。
「私は今日は遅くなるから、先に食事しておいて」
「解った」
失踪した父親が残した借金の為、智彦の母親は昼と夜でパートに出ている。
無論、智彦もそれを補う様に、バイトをする日々だ。
(……つらい、なぁ)
交友などできない。
少しずつお金は返しているものの、先が見えない。
将来を、夢見る事が出来ない。
智彦は汗臭くなった体を水で濡らしたタオルで拭きながら、外の天気とは正反対な、陰鬱とした表情を浮かべた。
母親を責めたい。
いや、実際に責めた事はあった。
だが返って来たのは「お前が生まれてなければ人生やり直せた」という本音。
その時から、智彦達の関係は親子では無く、同居人に近いモノへと変質した。
(いや、そうだったか?和解、したはずだったけど……ハハッ、願望を現実と勘違いしちゃったか)
後悔はすでに、し尽くしたのだろう。
行ってきます、と。
今夜は魚肉ソーセージを炒めた物を作ろうと、音に気を使いながら家を出る。
いつもの朝。
いつもの通学路。
いつもの学校。
空は大きく青く、白くなった月が薄らと浮かんでいる。
だがやはり、智彦は違和感を拭えない。
それは、夢の内容を思い出しただからであろう。
(……良かったなぁ)
夢の中での智彦は、無敵の一言であった。
何故か交友関係のある設定のトップカースト達に裏切られ、死に物狂いではあったが、チート能力を手に入れる。
その力を使い、現代に蔓延る霊能力者を倒していくのだ。
自分の卑屈さから失ってしまった友人、上村謙介。
あの人気芸能人の、夢見羅観香、加宮嶺衣奈とタカモリ。
後は有名な女子校の、美少女達。
現実では考えられない様な人々との交友も築いていた。
そんな彼ら彼女らを、チートの力で救っていく、夢
図書室で借りたライトノベルの様な、日々。
そんな夢を見てしまったからこそ……。
(今の自分が、本当にみじめに感じる)
智彦は溜息を吐きながら、下駄箱で靴を履き替えた。
この調子では、授業をまともに受ける事は出来ない。
高校など行かずに働けと発狂する母親を、学歴社会の御旗で何とか説得したのだ。
好成績を収め、良い国立大へ進むしか……自身の将来は無いと、智彦は教室のドアを開ける。
「おはよう」
冷気が、汗で蒸れたシャツを温く撫でた。
教室内の生徒に挨拶をすると、散発的に挨拶が返ってくる。
智彦が席に座り荷物を整理していると、いくつかの影が差した。
「よぉ、八俣。朝から景気わりぃ顔してるな」
「須藤……君」
ニヤついた須藤達が、智彦を囲む。
智彦は嫌な顔を極力しないように気を付け、引きつった笑顔を浮かべた。
「あれ?なんか臭くねぇか?」
「んー?ホントだ?洗ってねぇ犬の匂いがするな!」
「おいおい、八俣。貧乏でもちゃんと風呂入れよな」
須藤の言葉に、智彦を囲む男子が噴き出した。
知らぬ存ぜぬを決め込むクラスメイトも、つい、笑いを漏らしてしまう。
智彦は内心ムカついていたが、表情には出さない……いや、出せない。
ただただ、愛想笑いを浮かべるだけ。
相手は格闘技を身に付けており、反発しても痛い目を見るだけだからだ。
そう身をもって、知らされてしまっているのだ。
一時期、何故か須藤に勝てると錯覚した智彦は、見事返り討ちにされている。
その時にヒビが入った右肩が、記憶を持つようにジンと痛んだ。
「やめなさいよ、可哀そうでしょ?」
「そうだぞ須藤、朝の爽やかな気分が台無しだ」
「そーそー、私達が居ないトコでやってよね」
そこに、凛とした声が響いた。
須藤達が面倒そうに振り向くと、煌びやかな美少女達が、須藤に険しい目を向けていた。
樫村直海、藤堂光樹、横山愛。
クラスの、いや、学年のトップカーストに居座る存在だ。
「はいはい、悪かったよ藤堂。へっ、守って貰ってばかりで情けねぇな、八俣」
厭らしく口角を上げ、智彦から離れていく須藤達。
代わりに、樫村直海が、智彦へと近づく。
長い髪から流れてくる良い匂いに、智彦は思わず顔を赤らめた。
「大丈夫?八俣君」
「うん、ありがとう、直海……あ、いや、樫村さん」
直海。
その名前を呼んだ瞬間、樫村直海の顔が心底嫌そうに歪んだ。
智彦は慌てて訂正する。
樫村直海も瞬時に表情を変え、作業的に頷いた。
チラリと、智彦は藤堂を覗き見る。
名前呼びした事は聞こえていなかったらしく、悔しい程に爽やかな表情を浮かべたままだ。
(なんで急に昔の様に名前呼びなんてしたんだ、僕。てか、なんでこんな不快感しかないんだ?)
その後、一時限目の授業が始まったが、智彦は上の空だ。
前方に座るカースト上位三名を見て、内心首を傾げる。
智彦と樫村直海は、幼馴染の関係だ。
一時期付き合ってはいたが、高校進学時にその関係は変わってしまう。
高校デビューを果たした樫村直海は、見事カースト上位に君臨。
周りから釣り合わないと非難され、そして樫村直海本人からも別れを告げられた。
やがて彼女は、大病院の跡取りである藤堂といつの日か付き合いだし、智彦の関係は幼馴染と言う細い線で辛うじて繋がっている程度だ。
モデルをしている横山愛を含めた三人は、誰もが羨み、崇める存在。
なのに、智彦の胸中にはそれが希薄で、ただただ違和感が蝕んでいく。
それがどうしても気になり、やがて放課後。
昼に何を食べたか、いや、そもそも何か食べたのかすら覚えていない。
智彦は授業に集中できなかった事を反省しながら、バイトに向かう為に下駄箱へ向かった。
「……あ」
「……あ」
鉢合わせしたのは、親友……だった、上村謙介。
二人は無言のまま視線を逸らし、それぞれ靴へと履き替える。
「……ではまた、八俣氏」
「う、うん」
見ると、校門に黒塗りの高級車が横付けされていた。
運転席から出た綺麗な女性が、上村に頭を下げ、後部座席のドアを開ける。
智彦の親友であった上村は、ある日自身が作ったフリーゲームが大ヒットしてしまう。
それにベンチャー企業が絡み、一つのゲームを世に送り出した。
発売されたゲームは日本だけではなく、アジア含めて大人気となり、上村は一躍時の人となる。
上村は、智彦との友情へ疑いを抱かなかった。
だが、智彦が、疑いを持ってしまった。
貧乏と金持ち。
僻みや妬みは人間関係にヒビを生み、どうせコイツも俺を見下している、と。
二人の友情は、智彦自身が終わらせてしまった。
(……夢の中じゃ、毎日が楽しそうだったのに、な)
猫背のままトボトボと、智彦はバイト先へと向かう。
バイトは、運送会社の荷物の仕分けだ。
智彦にとって、バイトの時間だけが癒しだ。
余計な事を考えず、黙々と仕事を熟せば良い。
そして短い休憩時間に、図書館で借りた本を読む。
それだけが、安らぎであった。
「八俣君、おつかれ!これ、今日の日給です」
「あ、ありがとうございます!」
桑島と書かれたネームプレートを付けた経理から、本日分の給料を受け取る。
帰宅後にすぐさま生活費として徴収されるが、一割は自由に使えるお金だ。
暗くなった、だが未だにセミが鳴く夏の夜。
智彦はアスファルトから上がってくる熱気に顔を顰めながらも、帰路を急ぐ。
(大学の赤本買いたいけど、どうしようかな。学校のをコピーさせて貰えないかな)
カン、カン、カンと。
音に気を付けながら階段を上がる。
(あれ?母さん先に帰って来てるや)
台所からの灯りが、闇夜に正方形の光りを作っている。
ただ、家事らしき音はしない。
母さんも今帰って来たばかりなのかな、と。
智彦は郵便受けを確認し、玄関を開けた。
「ただい……!?」
無音。
今まで聞こえていた音が、重い空気に押しつぶされるように、無くなった。
室内から流れてくる、糞尿の匂い。
智彦は母親の部屋へと入り、そのまま膝を床についた。
「あ……、嘘、……あぁ、ああああ」
天井から下がったロープ。
ブラブラと揺れる、母親の体。
若い頃は美人であった顔が、無残に歪んでいる。
網戸から入り込んだ虫が、輪っか型の蛍光灯の周りを忙しく飛び交っている。
蛾が、カメムシが、カナブンが。
まるで安息所の様に、死体へと引っ付く。
足元には、『つかれました』とだけ書かれた紙。
そう、それだけ。
智彦への言葉は、何も書かれていなかった。
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