禁書の行方


カン、カン、カン、と。

赤い錆が目立つ階段を、智彦は足取り軽く上がっていく。



「ただいま、母さん」

「お帰り、智彦。今日は早かったのね」



未だ陽が長く明るい、夕方。

空気に籠る熱気に汗を浮かべながら、智彦は家へと帰って来た。


安普請のボロアパート。

下の住人への足音を気にし、左右の住人の生活音が聞こえ、ストレスが溜まる日々。

智彦の夢はいずれここから母親と脱して、ちゃんとした家に住む……と言うものになっていた。


智彦は玄関で自身の銀行通帳を取り出し、開く。

今は5万円程しかないが、駄菓子屋のバイト代と、熾天使会からの謝礼が、いずれ振り込まれる。

家もいいが、まずは自身で得たお金を母親へと渡し、母親の負担を軽くする。

まずはそれからだな、と智彦は通帳を仕舞った。


ちなみに駄菓子屋のバイトは、夏休みの間だけだ。

生徒達から延長の要望もあったが、やはり教師でもない男性が敷地内にいると問題になるという声が出た。

よって、駄菓子屋はこのまま店仕舞いし、プレハブは解体される予定となっている。

駄菓子自体は学院内の購買で取り扱う様になるらしく、その辺は円満に解決したようだ。


ニューワンスタープロダクションの星社長経由で始めた、今回のアルバイト。

禁書関係のトラブルはあったが、智彦にとっては実に、金銭面で有意義な時間だったようだ。


なお智彦の頭には、金塊を渡したりした事への後悔は、無い。

あくまで自身で働いたお金で、という考えが占めているからだ。



靴を脱ぎ家の中へと入ると、肩まで伸びた黒い髪を揺らし、智彦の母親が笑顔を向けてくる。

化粧をしておらず、疲れた顔をしてはいるが、美人に分類される見た目だ。


「智彦、まずは散らかしたままの本、片付けなさい」

「うん、……うん?」

「何やら難しそうな本だったけど、借りて来たの?勉強もいいけど、程ほどにね?」



母親からの言葉に、智彦は首を傾げた。

本を出したままにした記憶がないし、何より、そんな難しそうな本などあっただろうか?


智彦が早足で自室に戻ると、母親の言う通り、20冊ほどの本が散乱していた。

どれもこれも、数万はしそうな、しかも英文で書かれた本ばかりだ。

そしてその本の山の頂には……。


『来ちゃった』

「お帰り下さい」


脳内に語り掛けてくる紫色に似た禁書……悪魔に対し、智彦も脳内で塩対応。

そのまま鞄を置き、本をまとめ始める。


『強き者よ、今回の件で魔力をすべて使ってしまってね。回復する迄匿って欲しい』

「それでも、あの場に居た熾天使会は余裕で殺せたでしょうに」

『然り。だが、それは君が許さなかっただろう』


悪魔の声に、たしかに、と智彦は頷く。

何だかんだで養老樹せれん、そして田原坂鏡花との縁は悪くないモノだと、思い始めているようだ。

勿論、敵となれば容赦はしないだろうが。


「無益な殺生をしないのならば、居てもいいですよ」

『もともと私は穏健なのだが、助かる。君から溢れるその『力』があれば、すぐに回復しそうだがね』

「後、何かしなきゃいけない事はありますか?」

『何か読むものを……すまないが、質より量で頼みたい』


ならば、スペースを取らずかつ手軽に買える電子書籍がいいだろう。

智彦は明日にでも買おうと考えながら、禁書を机の上に置いた。


『強き者よ、対価に何を望む』

「……でしたら、お願いが。母を守って頂けませんか」


智彦が抱くようになった不安の一つ。

それは、母親の安全の確保だ。


鏡花の話を聞いた時、裏の世界の連中より所謂「お礼参り」がある可能性を、智彦は考えた。

それが自分に来るのならば、力を持って黙らせるだけで良い。

だが、こちらを苦しませるために家族を襲ってきたら……?

そう考えるだけで、智彦は存在しない想像上での刺客に殺意を抱く事が多々あったからだ。



これに対して、悪魔…アガレスは、智彦と言う存在に興味を覚えた。

力を持っているならば、そのような不安分子を根絶やしにするものだ。

それこそ目の前の男は、力によって一定区域の『世界』を制する事は容易いはずだ、と。

なのに、彼は自身が生きる、矮小な社会の枠に収まろうとしている。

理由を付け、力の振るい所を選び、社会での爪弾き者になる事を潜在的に恐れている。

それはとても滑稽で。

そしてとても好ましく、アガレスには見えた。


そもそも、アガレスが智彦へ抱いた第一印象は、異物、であった。

この世の理から外れた存在。

そして、自分を初めとした悪魔を、容易く屠れる狩人。

熾天使会と現れた智彦を見た時は、正直死を覚悟したほどであった。


だが、極めて短い間ではあるが、義を大事にする人間と判断。

それが人より、霊と言った人ならざる存在へと偏重している、歪さ。

故に、言い方が悪いが『観察対象』としては、とても刺激がある人間。

裏切れば途端に容赦の無い死神へと変貌するが、故にそこだけ肝に銘じて気を付ければ良い。


アガレスは智彦の人生に交差しようと決心し、彼からの要望を飲んだ。





『ふむ、承った。では、憑代を作るとするか。少し時間がかかるがね』


悪魔の返答を聞き、智彦は浅く息を吐いた。

そしてそのまま、悪魔が持ってきたであろう積まれた本を、見据える。



「さて、返しに行かなくちゃなぁ」



本を背負って走れば、すぐだろう。

気が引けるが、夜に侵入してこっそり返せば、問題ないはずだ、と。

智彦は、母親へ外出する旨を伝えた。

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