第2話 天空の鳥籠 1−3
今日の杏果さんのようにわたしは立ち上がり、コップの水を万里に向かってぶちまけた。ちょうど万里の前にコーヒーを置いていたホールスタッフにもかかってしまうような、派手なコップの振り回し方だった。恐縮するわたしに、痴話喧嘩の末のことだと悟ったホールスタッフは、いいですいいです、と手を振り、速やかに立ち去ってくれた。だらしなく伸びた金髪だったと、どうでもいいことを覚えている。
十四歳年下の、ロボットよろしく従順なだけだと思っていただろう小娘の反乱に、さっきの怜和のように、驚きすぎてただ固まっていた万里の表情が、記憶の淵から呼び起こされる。
離婚を……する。その時が、きたのかもしれない。
子供を産むことができなかった万里の前の奥様から、わたしは怜和のために彼を奪った。今までの辛い結婚生活も、今再び万里の妻の座を若い愛人に明け渡すことになるかもしれないことも、全てがその報いのような気がする。奪ったものは奪われる。
わたしから言い出さなくても、近くそういう日はくる。そんな予感がした。
きっと、潜在意識の中に離婚というふた文字は常にあった。だけど子供たちの養育費、家庭によって如実に差の出る教育費のことを考えると、タワマンという高い塔のてっぺんから飛び降りる勇気がどうしてもでなかった。
だけど……。
「寿実」
どのくらいぼんやりしていたのだろう。
かすかに視線を上げたその先に、荒削りの木片のような裸足が映った。怜和がこの部屋の入り口に立っている。
万里や怜和がわたしを呼びつけるから、そして若葉もしょっちゅうこの部屋に飛び込んでくるから、ドアはいつも開けっぱなしなのだ。
「どうしたの?」
用事があると大声をあげる怜和だ。でもこの部屋に来ることは至極まれ。
怜和は部屋の中に入ることはなかったけれど、なんせここは狭い。近距離であることには変わりない。
怜和は、何かを言い淀むような表情で、淡い色の虹彩を左右に不安定に揺らす。
「怜和?」
「なんでもねえよ」
怒り口調で言葉を投げると背を向けた。
万里が会社から戻るのはだいたい九時だ。帰る際はもちろん、夕食を取らない時にも連絡が入ることはない。ダイニングテーブルに並べた手をつけられない食事を、ラップをして冷蔵庫に戻すことは日常茶飯事だ。
怜和と若葉は先に食べて、既に自室に戻っている。
頃合いを見計らい、わたしはくるみを散らしたグリーンサラダの盛り付けにかかる。酸味の強い種類のトマトを使ったガスパチョは、チルド保存で表面がうっすら凍った状態にしたものを冷やした白い器に注ぐ。ニンニクとレモンに醤油を効かせた牛肉のカルパッチョには黄色と赤のパプリカを、彩りを考えて添えていく。
メインである鯛とアサリのアクアパッツァだけは万里が帰ってきて部屋着に着替える間に用意する必要がある。発芽玄米入りの白米は、お酒と食事の締めのような形で提供する。
全ての料理を適温に近い状態で出さないと、とたんに不機嫌になりどんな暴言が飛んでくるかわからない。冷たいものを好むだけまだありがたいとも言える。
この中でわたしが作ったものはグリーンサラダだけだ。ああ、八時に炊飯器のスイッチを押したか。
万里好みの料理を作るためだけに、二日に一度、通いの家政婦もといシェフがやってくる。そんなある意味恵まれた環境の中で、わたしがわざわざグリーンサラダを作る理由は、家族に一品でいいから手料理を食べてほしいからだ。
カルパッチョの盛り付けを終えようとしていた時に、インターフォンからチャイムが聞こえた。万里だ。
わたしは菜箸を投げ出し、キッチンから少し離れた場所にあるインターフォンに走った。案の定、モニターに映っているのは万里で、わたしはおかえりなさい、と声をかけながら解錠のボタンを押す。ただいま、ではなく、待たせるな、と返されるのはいつものことだ。
それから重い足取りで玄関に向かい、万里がすぐに入って来られるように鍵を開けておく。この時ばかりはエレベーターに時間がかかる最上階でよかったと感謝する。
ほどなくしてスーツ姿の万里がリビングダイニングに姿を表す。
「おかえりなさい」
「もう少し早く開けられないのか」
「夕食を並べてたの。これでも急いだ」
「あいかわらず手際が悪いな」
今日は機嫌があまり良くない。
万里はスーツを脱ぎ、ネクタイを引き抜き、ワイシャツのボタンを外し、それを片っ端から革張りのソファに投げていく。そして、あらかじめそこに畳んで用意してある部屋着に着替えているはずだ。
そんな光景を悠長に眺めている暇などあろうはずもない。アクアパッツァを深皿によそい、キッチンカウンターに置く。
どうして万里は外から帰り、ましてや食事の前だというのに手を洗わないのだろう。
大きなトレイを使ってカルパッチョとアクアパッツァをテーブルに運んだのと、万里が料理の前に腰を据えたのは同時だった。ビールもウイスキーも用意済みでよかった。
並べてあったバカラのグラスを無言でこちらに差し出すから、プルトップを引く寸前だった缶ビールを慌ててテーブルに置く。そしてウイスキーを飲むためのバカラを受け取る。
「ごめんなさい。氷の用意がまだ……」
キッチンに駆け込むわたしの背中に鋭い舌打ちが突き刺さる。
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