第2話 天空の鳥籠 1−2

 わたしが戻ったことに、玄関扉が開く音で気がついたでしょうに、話を止める気配もない。

『怜和、今回は珍しく肩入れしてると思ってたけどな。怜和とクラス同じだろ? 杏果ちゃんだっけ? ドンピシャ怜和好みじゃね? 可愛いよなあの子』


「ふんっ! 別にあの程度」

『嘘嘘! 絶対嘘! それ空元気だろ? 怜和、実は未練あるよな? 後悔してんなら、今のうちに謝れば許してもらえるかーもよ?』

「謝るとかふざけんな」


 平静を装う怜和の声音に、憤りが混ざったのがわかる。


『だって怜和、杏果ちゃんへの接し方いままでの子と違ったぜ? だいたい別れたからって、すぐ俺んとこに電話してくること自体、異例じゃん。自覚しろよ。そんで謝っちゃえよ。笑えるー怜和が女に謝るとか』


そこで友だちはケケケッとわかりやすく鼻で笑った。

長いつき合いを思わせる会話から、中学からの友だちだと知れる。中学から怜和は今の大学の付属に入っているのだ。


「ふざけんなよ! 女なんかに頭下げられっかよ。いーんだよ。すぐ次が湧いてくるから。ったく下等動物の分際で俺の行動に文句つけるとか意味わかんねえ」

 怜和のあまりにひどい言い草に、さっき杏果さんに叩きつけられ、すでに脳内を埋め尽くしていた言葉の礫(つぶて)が竜巻を起こし、上昇していく。



〝あなたが、小さい頃には優しかったっていう怜和をあんな男尊女卑のクズ男に変えたんじゃないんですか? 旦那さんに逆らうのが怖くて、今の贅沢な暮らしを捨てるのがもったいなくて、女子の尊厳を認めない時代に逆行した息子の考えを正そうとしなかったんじゃないんですか? 広い家と引き換えに、息子や娘の倫理観を差し出してるんじゃないんですか?〟



 わたしはつかつかと怜和の前まで進み出ると、手にしている水のペットボトルを引ったくるようにして奪い取っていた。


 突然のことに、目を白黒させてわたしを見上げる怜和の頭の上で、握ったペットボトルを逆さまにする。五百ミリのペットボトルにはまだ半分以上が残っていたようで、それは怜和の髪を濡らし、服の色を変え、床を水浸しにした。


 それでも豹変したわたしに仰天しすぎている怜和は、口を半開きにしてこちらを見上げたままだ。きょとんとした子猫のような瞳が、可愛らしくわたしの瞳に写ってしまうことが、心悲(うらがな)しい。こんな子供に育ってしまったのに。

いや、わたしが、こんな子供に育ててしまったのに。


「なんだよ! ばばあ!」


 たっぷり五秒はかかって怜和はようやく事態を把握し、立ち上がった。その表情にも顔色にも、面白いほどのスピードで憤怒の色が満ちていく。それでも多少の理性は残っているのか、友だちとの通話はその場で切ったようだ。


「ふざけんなよ! 何すーー」

 わたしはグーで怜和の鼻柱を殴りつけた。想定もしていなかった怜和は、よろめいて壁に背中を打ち付けた。


「寿実……」


 殴られた鼻に手を当て、表情にありったけの驚愕を浮かべてわたしを凝視する。


「わたしのことも殴りなさい。あなたをこんな子供に育てたのはわたしよ。女の子、いいえ、人に対する敬意が根底になければ真の人間関係は築けない。そんな当たり前のことをあなたに教えることを放棄したのはわたしなのよ」

「いぇっ? 意味不なんだけど」


 現実に向き合えていないのか、素っ頓狂な声を上げる。

 夫にも怜和にも口答えをしたことがないわたしの威圧的な態度に、明らかに当惑している。


「さあ、殴りなさい。わたしはあなたに殴られても文句は言えないのよ」

「いや……それ無理だし」


 女性に手をあげるような男にだけは育っていなくてよかった、とこんな時なのに安堵する。

文句はおろかわたしから話しかけることも難しかった夫だけれど、少なくとも暴力を振るわれたことだけはない。言葉の暴力、制裁なら心をすり減らすほどに受けてきたけれど。


「今からでも遅くないよ、怜和。あなたはまだ若いわ。パパの価値観は間違っている。人を大切にしなければ、あなたも人から大切にされることはないのよ」

「……いいのかよ。親父を否定するようなこと言って。俺が親父にチクったらーー」

「言いつけたいのなら言いつけなさい」


 覚悟はできている。


「は?」

「殴らないのね? じゃあもう行くわよ?」


 怜和の反応を目にするのが怖く、わたしは背を向けた。返事はない。

廊下を曲がるといきなり三十五平米のリビングダイニングだ。四十七階メゾネットタイプの角住戸、全面ガラス張りで吹き抜けの大空間からは、高い空と眼下に広がる豊洲の街、そしてそれを彩る縦横に巡らされた運河が見渡せる。

 見飽きた、うんざりするような光景だった。


 わたしはリビングの脇にあるスケルトン階段を登り始めた。一階は怜和の部屋とキッチンバスにリビングダイニング、二階は夫の部屋、怜和の妹、若葉の部屋、そして申し訳程度のわたしの部屋。


わたしは与えられた四平米弱の空間に入る。もともとは夫婦の主寝室として設計された十八平米の部屋を、リフォームで夫とわたしのそれに分けたものだ。ベッドと小さな衣装ケース、そして片隅にセキセイインコのテンが入っている鳥籠だけが置いてある、小箱のような空間だ。体を斜めにしなければ移動すらできない。

小学五年の若葉はもうすぐ学校から戻ってくる。


「ただいま、テン」


テンに声をかけるとベッドに腰掛け、マットレスに手のひらを這わせながら目を閉じ、高揚した気持ちを落ち着ける。悪い気分ではなかった。

 エベレストの頂上からふもとの草原に下りてきたように、わたしのまわりの酸素濃度がいきなり高くなり、胸に新鮮な空気が流れ込んでくる。そんな、ある種不思議な感覚だ。


杏果さんにコップの水をひっかけられ、その時は衝撃と悲しさでいっぱいだった。けれど時間が経ち、徐々に気持ちが固まってくるに従って、体内に清々しさが満ち満ちていく。


 こんな気持ちは何年ぶりだろう。

あの時以来の高揚感かもしれない。妊娠の報告に対し、万里が返した言葉、それは「自分は既婚者である」というとんでもないカミングアウトだった。その時初めて自分が不倫をしていたことを知らされた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る