第2話 天空の鳥籠 1−1
天空の鳥籠 1
息子、怜和が一方的に切り捨てたらしい杏果という少女の背中が、見る間に滲んでいく。狭い喫茶店の通路をよろけるような足取りで、あちこちのテーブルの角にぶつかりながらレジに向かい、そこで店員さんに一言二言何かを告げてから外に出たようだ。
怜和が、短期間ですぐに女の子と別れてしまうらしいこと、相手の子を大事にしていないんだろうと推測されることに、わたしは長いこと心を痛めてきた。
中学生の後半から、家のありとあらゆるところに女の子と撮ったプリクラが置きっぱなしなのだ。一目で彼女だとわかる体の寄せ方をしている。違う女の子のプリクラが出現すると、置きっぱなしだったそれはキッチンのゴミ箱に捨てられていることも多い。
思春期の男子なら、彼女とのプリクラなんてもっとも親に見られたくないものの一つに違いない。でもわたしの息子、怜和の場合は違う。なぜならわたしは怜和にとって母親ではなく、家事や、日々自分の身の回りのことをする、いわば付き人のような存在だからだ。付き人だと思っているのは実はわたしの方だけで、怜和からすれば召使い程度の認識なのかもしれない。
夫の方針で、牧枝家では子供たちが幼い頃から徹底した男尊女卑の中で育てられてきた。我ながらよく我慢しているものだと感じることはある。
怜和の元カノ、杏果さんの言い分が的を射すぎていて胸が圧迫される。
「だって……」
仕方がなかった。わたしが妊娠してしまったのはまだ十八歳、今の怜和や杏果さんと同じ年齢の時だった。そして同じように、美術大学に通う一年生だったのだ。
現在の夫、万里(ばんり)はゴムにアレルギーがあるとこぼし、避妊をしてくれなかった。だからわたしはピルを処方してもらっていたけれど、副作用の頭痛に悩まされ、きちんと服用できていなかったはずだ。
結果妊娠した。生理不順と半端なピル服用の安心感から、気付いた時にはすでに中絶不可能な時期の直前だった。
それを伝えた時、彼が返してきたセリフのあまりの衝撃に、恋心なんか一気に吹っ飛んだ記憶がある。
でももうその時のわたしは、お腹の中に芽生えた命を守ることに必死だった。
自分の未来よりもお腹の子の行く末を考える。先の見えない絶望の中で、そんな自分の変化が、震えるほど嬉しかったことを今でもよく覚えている。若く青く、そして未熟だった。
責任をとって結婚する、と申し出た十四歳年上の万里の言葉に甘えるより他に、お腹の中の怜和を守る術を持たなかった。たとえその時点で万里への気持ちが消えていて、しかも傷つける人がいるとわかっていたにも関わらず、だ。
優先されるものはお腹の中の命であり、そのためなら好きな美術を捨てることにも、自分が悪人になることにも躊躇(ためら)いはなかった。
当時三十二歳だった万里は同族経営の総合商社の中で、すでに取締役だった。同族とはいえそこそこの規模を持つ会社の中では、異例の出世だったらしい。
あれから十八年。怜和は悲嘆に暮れるほどどうしようもない男に育ってしまったらしい。
変わっていなかった。ここ一ヶ月かそこらの怜和の態度や表情の変化に、春風に包まれたような幸福を感じていたおめでたい自分を呪いたくなる。プリクラを置きっぱなしにしない怜和に、どれだけ期待を抱いたかわからない。
不意に声をあげて笑いたい衝動に駆られ、慌てて掌で口を塞いだ。
店の前の道路で、店員さんが並んでいるのだと勘違いしたとはいえ、見ず知らずの女の子をお茶に誘うなんて、わたしは一体どれだけ怜和の変化に浮かれていたんだろう。内心では狂気の沙汰だと眉を引き攣らせていたのかも知れない。
息子が初めて人間らしい、ごく普通の男子のような感情を女の子に抱き、きちんと向き合っている。そう考えただけで、大袈裟じゃなくて体が宙に浮いているような感覚がしていた。のぼせ上がっていた。舞い上がっていた。
そんな状態のわたしの目の前に、怜和をそう導いてくれた本人が現れたのだ。
歓喜のあまりまともな判断すらできず、結果、常軌を逸した行動に出てしまった。
杏果さんから見ればさぞやイタくて危ないおばさんだったに違いない。そこまで浮かれた結末がこれかと思えば、笑えてくるのも仕方がないというものだ。声をかけたのが怜和にフラれた直後だったなんて、わたしはどれだけあの娘(こ)を傷つけたのだろう。
ベージュからダークブラウンに色を変えたブラウスを眺め、袖口に触れる。
深いため息をつき、のろのろと立ち上がると、杏果さんがテーブルに置いた千円札に手を伸ばす。
精算を終えるとダークブラウンのブラウスのまま風に吹かれ、帰路に着くため駅に向かう。湿った服で強い風に煽られているというのに全く寒さを感じなかった。
かけられたその時の凍るような水の冷たさは、今はその場所からじわじわと内部に染み込み、心臓にまで差し掛かろうとしている。
鼓膜に受けた杏果さんからの心の叫びは、細かい粒子に変化して外耳から侵入し、細胞の色を徐々に変えながら身体中に浸透していくようだった。
ショーウインドウには、変哲のないブラウスにミモレ丈のスカートを身につけた、ザ・無難、のおばさんが映る。髪も服もコーチのバッグも濡れている。
わたしってこんな人間だったっけ? こんな服が好きだったっけ?
豊洲にあるタワーマンションのオートロックを開ける。なかなかこない苛立たしいエレベーターで最上階まで上がり、内廊下を真っ直ぐ角まで進むと、鉄の塊のように重い玄関扉を引き開けた。
「それでよー。もうマジでめんどくせえだろ? だからその場で別れるつったんだよ」
玄関タイルの上に立つと、座り込む怜和の姿が視界に飛び込んできた。
廊下の曲がり角の反対側にある、自室の入り口ドアを開けた場所で、壁に寄りかかる体勢で床に腰を下ろし、膝を曲げている。
怜和の部屋の入り口は、ウォークインクローゼットの張り出し部分で狭くなっている。座り込むとちょうど体の収まりがいいのか、よくこうして壁に背中を預けて電話をしているのだ。
男友だちが相手なのだろう。片手で水のペットボトルを弄びながら、スマホをスピーカー機能にしてしゃべっていた。
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