第1話 海原の笹舟 1−3
怜和の母親は居心地が悪そうに俯く。テーブルの下で組み合わせた指先を、擦り合わせているように見えた。
「あの子、ほとんど口をきいてくれないから。わたしにとっては赤ちゃんだった時が一番幸せだったくらいで。五歳で親離れなんて早すぎるわよねえ。けっこう難産だったのに」
「えっ……」
あやうく実母さんなんですか? と聞きそうになる。この人は、いったいいくつで怜和を産んだのだろう。
「杏果さんとつき合うようになってから、優しい顔で笑うことが多くなったの、あの子。遊びに行くのに財布がないって言うから、デートかと思ったら男友だちだったのね」
怜和の母親の声が、気味の悪い不協和音のように鼓膜に響く。
「この間なんか、玄関で怜和に会ったら、宅配できてたお水をキッチンまで運んでくれたのよ。頼んでもいないのに。びっくりしちゃった」
反抗期の中学生じゃあるまいし、大学一年の男子が、母親が持てないような重い荷物を運ぶなんて至極当たり前のことだ。
それを、水を運んでくれたことを、人、しかも当人の彼女に嬉々として語るなんて世の中の常識から外れている。怜和を、どんな育て方をしているんだろう。
「あ、誤解しないでね。怜和はもともとの気質は悪くないの。小さい頃は優しい子だったのよ。前の家で、普段使いのハーブを庭で育ててたのね。しその葉を使いたかったんだけど『雨だから諦めようか』って呟いたみたいなの。そしたら、怜和が身長と同じくらいになっちゃってるその木から、葉っぱを取ってきてくれたの。五歳だったかな。密に植わってたもんだからびしょびしょよー」
その時のことを思い出しているのか、頬を染めて、くつくつと笑う。
頭痛がしてくる。なぜあたしは、たった今振られた男子の母親から、そいつの幼少期の話なんか聞かされているのだろう。
だいたいだ。幼少期の怜和がそんなに優しい子だったのなら、今の彼が女子を簡単に切って捨てるような性格に育ってしまったのは、この人のせいだとも言える。家では怜和の父親に何ひとつ逆らわず、女性である自分を貶める言動も許してきたんだろう。
例えば怜和が、母親に対して乱暴な態度を取ったとしても、父親がそれを諌める事はしなかっただろう。そしてこの人も、その言葉に甘んじる姿勢をとり続けてきた結果、今の怜和が出来上がってしまったというわけだ。
怜和には歳の離れた妹だっていたはずだ。女の子がそんな歪んだ価値観の中で育っていいわけがない。
そう考え始めると、目の前にいるこの人に対してむくむくと嫌悪感が湧いてくる。自分の子供をまともに育てるために、価値観が大幅におかしい父親を咎めようと試みたことはなかったのだろうか。
四人がけテーブル席の、怜和の母親の隣の椅子に置いてあるバッグに視線がいく。小さく入ったロゴは、数十万はすると思われるブランド品だ。怜和の家にはお手伝いさんだっていたはずだ。
そういう生活と引き換えにこの人は、ごく一般的な価値観を、わが子に根付かせることを放棄した。
怜和の将来。あたしとは違う女の子とつき合ったとしても、自分にとって面倒なことで責められれば、話し合うこともなくすぐに別れる。そしてまた次の子とつき合う。また別れる。つき合う、別れる、つき合う別れるつき合う別れるつき合う別れる……。
結婚してまでそんなことを繰り返す怜和が、コンマ〇、一秒で次々に切り替わる静止画像のように脳内で再生される。そんなんじゃ、怜和はいつまでたっても幸せになれない!
気がついたらあたしは立ち上がっていた。自分が何をしようとしているのかわからないまま、手には水の入ったコップが握られている。
「きゃっ!」
奇声が響く。目の前で瞼を限界まで開いた怜和の母親が、身動きもせず にあたしを凝視している。そのきれいな顔も、シンプルだけど高そうなベージュのブラウスも、なぜかびしょ濡れだ。
「あのね! あたしはたった今あなたの息子に振られたんです。他の女の子と出かけた経緯を聞いたら、それだけで一方的に別れを宣言してカフェから出ていったんですよ」
怜和の母親が微動だにしないのをいいことに、あたしは続けた。
「あなたが、小さい頃には優しかったっていう怜和をあんな男尊女卑のクズ男に変えたんじゃないんですか? 旦那さんに逆らうのが怖くて、今の贅沢な暮らしを捨てるのがもったいなくて、女子の尊厳を認めない、時代に逆行した息子の考えを正そうとしなかったんじゃないんですか? 広い家と引き換えに、息子や娘の倫理観を差し出してるんじゃないんですか?」
微動だにしないけれど、はじめ驚愕の形に見開かれていた怜和の母親の瞳は、どんどん感情の色を失っていき、今や濃い無力感に苛まれているようにさえ見えた。
それでもあたしの口から飛び出す弾丸は威力を落とさない。
「事なかれ主義! だから怜和は女の子とちっとも続かないのよ。元カノが何人いるか知ってるのっ?」
どのくらい経ったのか時間が静止しているような数秒の後、目線を落とすと手の中のコップが空だった。その意味がゆっくりと時間をかけて脳細胞に沁みていく。そしてある時一気に目が覚める。
あたし、もしかして怜和のお母さんに水をぶっかけたの?
あたし……なんて、なんて事をしてしまったんだろう。この人は、何も悪くない。なんの非もない。それなのにあたしがした事は……。
水をかけた事に後から気づく、われを忘れる、という初めての体験にただただ混乱する。手が自分でもわかるほどぶるぶると震えている。浅い呼吸までが震えている。
それなのに、ごめんなさい、という道理にかなう言葉が喉のカーブに張り付き、外に出てきてくれない。
目の前にいるこの人は、常日頃使用人を使って生活するお金持ちの奥様だ。いくら旦那さんの価値観に押さえつけられているとはいえ、プライドは高いに違いない。どんな反論をされるのか、この場で警察に通報されるのかと、ようやく自分のしたことの重大さを少しだけ客観的にとらえる思考が戻ってきた。
けれど当然怒り心頭だと思った怜和の母親は、深く首(こうべ)を垂れ、自分の膝頭に視線が流れ落ちてしまっている。微かに開いた唇が、小刻みに震えているのがわかる。
その姿にさらに自分の罪を突きつけられた。巨石が胸に乗っているかのような息苦しさに、涙が滲みそうになる。
たまらなくなったあたしはバッグから千円札を一枚取り出すとテーブルの上にそっと置いた。それでも怜和の母親は身動きひとつしない。
そのままバッグのファスナーも閉めもせずに踵を返して喫茶店の出口に向かう。
背後から、ごめんなさいと、か細い声が聞こえたような気がした。
あたしは最低だ。怜和はそこまでクズ男なんかじゃない。
一方的に振られた原因がなんなのか、今ははっきり理解できない。だけどつまるところ、怜和にとってあたしは魅力的な女の子じゃなくなったから振られたという、ただそれだけの単純な話なのだ。
世の中には、女の子に対して犯罪まがいのことまでして憚らない男はいくらでもいる。少なくとも怜和はそういった男子ではない。
「でもやっぱりクズだ」
あたしはバッグを抱きしめて人気のない古い雑居ビルに飛び込んだ。列になっている集合ポストの陰に身を潜める。
涙があとからあとから頬を伝うのは、怜和に振られたからなのか、その腹いせのように彼の母親に当たり散らした自分への嫌悪感からなのか、判別がつかない。
しばらくして身を起こしたあたしは、無骨なコンクリート壁に背中をもたれかけさせる。
「クズなのはあたしだ」
なんの罪もない怜和の母親に、感情のままひどい言葉を浴びせ続けた。
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