第1話 海原の笹舟 1−2
カフェという人目のある場所にもかかわらず、両目からつらつらと流れる涙に気づき、慌ててハンカチを取り出して目元を抑える。あたしは自分で認識していたより、さらに怜和のことが好きだったのだと思い知らされた。
心の準備が何もできていないまま、唐突に、まるで飽きたアウターを脱ぎ捨ててゴミ箱に放り込むようなお手軽さで一方的に振られた。
実際、怜和は準大手商社の社長の息子で、実家は相当の金持ちらしい。飽きたアウターを捨てることなんか日常茶飯事なのだろう。
奨学金を満額まで借りて大学に通い、それを少しでも学生のうちに返そうと、時には空き時間にまでバイトを入れるあたしとは対極にいる存在だ。
客観的に見ればくだらない男なのだ、きっと。
でも、たった二ヶ月のつき合いだったけれど一緒にいる時はとても楽しかった。あたしにはない苦労知らずだからこそのポジティブ思考や、明るさに魅せられていた。怜和といると自分までが人生なんとかなる、と前向きに足を踏み出せそうな気がした。
怜和が男友だちに見せる優しさや義理堅さみたいなものも好きだった。
あたしは肺の空気をすべて絞り落とすようなため息をつく。
振られて悩むに足りない男だと、この瞬間も頭では懸命に理解しようと努力している。でも気持ちが追いついてくれない。理屈じゃないのだ。
間違ったことはしていないはずなのに、あんなことをなじらなければ、怜和のやることに目を瞑ってさえいれば、別れを回避できたかもしれないと考えている。もし今、タイムマシンで三十分前に戻れるとしたら、あたしは怜和が女の子と出かけていたことを、責めない自信がある。
そんな自分がとてつもなく嫌だ。
あたしもやっとの思いで重い腰を上げ、怜和の去ったカフェを後にした。
バッグを肩にかけもせず、長い持ち手を手首に絡めるようにして、ただ足を交互に前に運ぶ。もしかしたらバッグは地面を摺ってしまっているかもしれなかったけれど、もうどうでもいい。腕が重くて持ち上げられないんだから仕方がない。
「あ、これ落ちましたよ」
背後から女性の声がし、あたしは振り向いた。すぐ近くであたしにハンカチを差し出してくれている。バッグにしまわず手に持ったままにし、落としてしまったらしい。
「ありがとうございます」
あたしは女性からハンカチを受け取った。
「あれ……。あの、間違ったらごめんなさい。大変失礼ですが、杏果さんじゃ、ありませんか?」
かけられた声に緩慢な動作で顔をあげ、女性に焦点を合わせる。
ハンカチを拾ってくれたのは身なりの上品な若い女性だ。あたしよりはけっこう上だろう。
肩よりも長い髪は柔らかくうねり、優しげな流線形を描いている。若そうには見えるけれどブラウスにミモレ丈のスカートという落ち着きはらった服装から、三十代の後半に突入しているのかもしれない。
つるりとしてシミひとつないきめの整った細い薬指には、小さなダイヤを嵌め込んだシンプルなプラチナリングが光っている。既婚者だ。
あたしの名前を知っている? 面識のない女性だった。それとも今、頭が極端に働いていないせいで思い出せない、以前に知り合っている女性なのだろうか。
「えーと、どこかで、お会いしましたか?」
「わたし、牧枝怜和の母です」
あたしの前のテーブルの上にはアイスコーヒーが、そして、うちの母よりもはるかに若い怜和の母親の前にはアイスティーが置いてある。
なぜ怜和の母親が、大学しかないこんな場所にいたのかはすぐに知れた。怜和は今日、あたしと出かける予定だったにも関わらず、財布を忘れた。それで母親に連絡して持って来させたという事のようだ。
近くの公園で待ち合わせをし、財布を受け取ってからカフェに来た。だから怜和は二十分遅れたのだ。友だち間のトラブルがあって、とLINEで遅れる理由を送信してきたけど、実はこういうことだったらしい。
母親の方はかなり急いだらしく、ヘトヘトだったため今まで公園のベンチで休憩をしていたのだそうだ。そしてあたしと鉢合わせたというわけだ。
あたしたちのいた道路のすぐ横の喫茶店は、手作りケーキが美味しいこのあたりの人気店で、よく並んでいる人がいる。立ち止まっていたあたしたち二人にお店の人はドアを開け、「どうぞー二名さまですか?」と聞いてきた。
そこでお店の人に気を遣ったのか、怜和の母親が控えめに「あの、よかったらお茶でも」と誘ってきたのだ。
時間がないとか、断ることもできた。もうこの人は彼氏の母親でもなんでもない無関係の人間だ。なのに素直にここに入ってしまった自分の行動が解せない。この後に及んであたしは、怜和の母親に何か期待でもしているのだろうか。
今別れたばかりの彼氏の母親と、差し向かいでお茶を飲んでいる。なんの喜劇だろう。
それにしても怜和の母親はなぜこんなに若いのだろう。怜和は社長の息子で、しかも父親は女性を大切にしないタイプらしい。二度目のお母さんで、血のつながりがなかったりするのかもしれない。そうでも考えないと年齢的に合わない気がする。
目の前にいるこの人の名前をあたしは知っている。牧枝寿実(ことみ)だ。怜和が母親のことを何度か〝寿実〟と呼んだことがあったから覚えていたのだ。
母親のことを、気やすさから名前で呼ぶ男子はごくたまにいる。でも怜和の場合は、母親と仲がよく、親しみを込めて名前で呼んでいるわけではなくて、どちらかといえば女性を見下す侮蔑の意味合いが強いようなニュアンスだった。
怜和の男性優位思考は、父親の考え方そのままで、子供の頃からの強烈な刷り込みによるものなんだろうな、と話の端々から感じ取っていた。どうにも受け入れ難かった一面でもある。
「杏果さんとおつき合いするようになって、あの子、たぶん変わりました」
「それはないと思います。あの、どうしてあたしのことを知ってるんですか?」
怜和がつき合った女の子のことを、逐一母親に報告するとはとても思えない。
「ごめんなさい。プリクラを見てしまったの。あの子、今まで女の子とつき合ってプリクラを撮っても、いつもその辺に置きっぱなしなんです。でもリビングでタブレットの裏にプリクラを挟んでたんです。怜和のタブレットケース、裏面が透明なの。わたし、びっくりして……」
プリクラを撮ったのは一度だから覚えがあった。怜和の名前とあたしの名前を並列して印刷した。
「それで後からわざわざ確かめたってことですか?」
好きな人の母親に対して、責めるような口調になっているのは、すでに脳内で怜和が元彼になっているからだろうか。この人にどう思われてもいい。
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