第2話 海原の笹舟 1

不信感を抱いたまま一緒にいても楽しくない。それならいっそ、はっきりと聞いてしまったほうが楽だと思った。


怜和れお、昨日って、なにしてた?」


 怜和は待ち合わせに二十分遅れてきた。


 大学近くのカフェの窓際テーブル席、あたしの真向かいで怜和はスマホを片手でいじっている。午後の授業が休校になり、予定より早くに行けることになったお店の情報を検索してくれているのだ。


 季節は春。突風に、肩より少し長い髪が煽られて、朝の洗面台で苦労した外巻きが崩れることがこの季節の悩みの種だ。


まだ二人とも教和大学に入学して三ヶ月しかたっていない。一年生だ。


あたしの言葉に画面をスクロールする怜和れおの親指が止まった。


「昨日? 大学が終わってからは普通に友だちと遊んでたけど?」


 視線はスマホ画面に落ちたままだ。


「友だちって、女の子だよね?」


 渋谷の大通りを怜和と女の子が一緒に歩いているのを、友だちの沙恵が見つけた。学部は違うけれど同じ大学に通う目をひく美人で、名前は知らないながら、沙恵から特徴を聞いた時にはすぐに思い当たった。


その子と怜和は笑顔で腕を組み、身を寄せ合って歩いていたらしい。


「だから何?」


そこで怜和はやっと視線をあげ、あたしを正面から見据える。

「何って……。どうしてなのかなって思うじゃない」

「別に何でもねえよ。授業が終わって腹が減ってたところに、一緒にご飯食べに行こう、って誘われたから行っただけ。別にやましいことは何もない」


「腕、組んでたって友だちから聞いたんだけど」


 そこで怜和は大仰なため息をつき、背もたれに寄りかかってから投げ出すようにテーブルにスマホを置いた。


「向こうが勝手に腕組んできたんだよ。そんな長い時間じゃない。鬱陶しいとは思ったけど、一応女の子なんだから振り払うのもなんだろ? 別にめんどくさいことにはなってない。ふざけただけだろ」


「そうだったんだ」

「おう」


「……あのさ、後から人伝に聞くと不安になるからさ、グループとかならいいけど、女の子と二人きりの時は、一応、事前に言ってくれないかな?」

「めんどくさい事にはなってないんだって」


「でも怜和だってあたしーー」

「お前のがめんどくさいんだよ、杏果もか


 怜和の冷めた視線が言葉を奪う。


「もうマジでめんどくせえ。俺、そういうの嫌いだって知ってんだろ? 別れようぜ杏果もか

「え……」


「だるいんだよ。女のくせにごちゃごちゃとうるさすぎ。女は黙っときゃいいんだよ」


 憂さをたっぷり含んだ怜和の声音にあたしは凍りつく。


荷物をさっさと取り上げ、あたしには一瞥もくれずに立ち去る怜和に、驚きすぎて体が硬直し、追いかけることさえ思い浮かばなかった。

「……だるい……か」


 女のくせにごちゃごちゃ……。女は黙っときゃいい……。


 衝撃的な怜和れおの最後の言葉が耳に残る。残るものの現実感はない。


 ガラスばりの窓に沿って二人がけのテーブル席がずらりと縦に配されている。怜和れおが立ち去ったことで見晴らしの良くなった前方には、鮮やかな黄色のカットソーに包まれた華奢な背中が見えた。


彼氏とおぼしき人との会話に、肩を揺らして笑うその子の背中に、あたしの嘆きは吸い込まれていく。


 たった今まで彼氏であった怜和れおに不穏な噂はあったものの、証拠もないうえ、信じたい気持ちも働き、直接真偽を確かめたのはこれが初めてだ。つき合い初めて二ヶ月目、たった一度の諍いだ。


それが面倒で、怜和はあたしからいとも簡単に去っていった。


怜和の容貌はそこそこいい。大学のミスターコンに選出されるレベルではないにしろ、友だちに写真を見せれば十人中十人がイケメンだね、と返してくれる。


でも街中に怜和れおよりかっこいい子は掃いて捨てるほどいるから、彼の強みはそこじゃない。


特に女子に対してのコニュニケーション能力が高く、ジョークのセンスもある。まあ、要するにチャラい、ってことだ。


いくら容姿が好みの系統でも、そのたぐいの人種に関心はなかった。なぜかといえば、派手な生活を送っていそうな子とは、男女問わず経済的なレベルが違ってつき合えないのだ。


そんなあたしが、怜和を意識したのはたぶん大学登校の二、三日目の電車の中だ。


あたし含め、座席に座っている人全員がスマホに視線を落としている。


パリピ学生もオタク学生もサラリーマンも若い子連れの主婦も、おそらくみんなが、音楽を聞いているかゲームをやっているかSNSの画像を見ていた。

サラリーマンは電子版の新聞を読んでいたのかもしれない。


ふっと顔を上げたあたしは、年齢も性別もばらばらのこの車両に乗り合わせた者同士が、音楽、ゲーム、SNSって二十一世紀の文明のりきで繋がっているなあと、なんとなく感心していた。


そこで隣に、サテン素材のモノクロ開襟シャツにワイドパンツ、サコッシュ、というがっつり今風の男子が腰掛けていることに気づく。この子、うちのクラスじゃなかったっけ? 


教和大学の経済学部経営学科はひとクラスが五十人。昨日今日じゃ覚えられないけれど、目立つ男子同士で群れているところから付属の子たちだ、と記憶の隅に残っていた。


チャラい軍団の子だよな、きっと今後も接点はないだろう、と感じながらなんとなくその男子の手元のスマホに視線を落とした。


えっ……。

と軽い衝撃を受ける。


その子、怜和が見ていたスマホ画面には縦書きの小さな文字がびっちりと詰まっていた。


サガンだ。フランスの昔の小説家フランソワーズ・サガン。一時期好きで読んでいて、たまたま覚えていた小説の一説が視界に飛び込んできた。


このパリピ代表みたいな男子がサガン。スマホで小説、しかもサガンを読んでいるのはこの車両の中、いや電車全体でも怜和だけに違いない。


なんとなく目がいくようになったのは、おそらくこのサガンからだ。こんなギャップは男友だちでさえ知っている子が少ないように思え、妙な優越感に心が浮き立った。


そして同じ教室内で過ごすうち、自然に怜和の姿に惹きつけられるようになり、人当たりがよくて明るい性格だと知った。たぶん惹かれはじめていたんだろう。ちょっといいかも、と友だちと話していた数日後に当人から告白され、つき合い始めた。


つき合ってから知ったことだけれど、怜和は束縛を極端に嫌う男子だった。だからあたしは、怜和が女子を含めたグループで遠出をすることにも遊びにいくことにも、異を唱えたことはない。


だけど、女子と二人きりで出かけられるのはさすがに不安だった。例えば単位が危うい教科を教えてもらうとか、バイト帰りの暗い夜道を家まで送ることになったとか、納得できる理由があれば仕方がないとも思える。


でもそういった類の理由で二人きりになっているわけではないと、怜和本人が軽く口にする。


「別にやましいことがなけりゃ遊びに行ってもいいだろ? 杏果がそこまで俺のプライベートに口出すことかよ?」


 それが怜和の価値観らしい。他の女子と遊ぶことで、彼女であるあたしが悲しい思いをしても、そんなことは知ったこっちゃない。

怜和は、俺も束縛しない、と口では言うものの、あたしが他の男子と二人になることにあきらかにいい顔をしない。同じ時間に終わったバイト仲間と、駅まで一緒に帰ることさえ、それは絶対にやめろ、とはっきり釘を刺されたことがある。


でもあたしは怜和に恋をしていたわけで、そういうやきもちは嬉しくさえあった。だから、怜和が不快な気持ちになるから、あたしは他の男子と二人になることはない。いや、なかった。


 男は良くて女はだめ。


男女平等が当然の価値観としてまかり通る二十一世紀にあって、怜和という男はわかりやすく前時代的で男尊女卑だ。


自覚はないらしいけれど、たぶんそれが滲み出ているからこそ女子と長続きしない。怜和の交際最長記録が三ヶ月だと知った時は、ショックを受けると共に、心のどこかで納得もしてしまった。


 ここでもギャップ。悪い意味でのギャップだ。


良くも悪くも上下左右あっちにもこっちにも、知れば知るほど怜和はギャップだらけの男子だ。


 それでも好きだった。


カフェという人目のある場所にもかかわらず、両目からつらつらと流れる涙に気づき、慌ててハンカチを取り出して目元を抑える。


あたしは自分で認識していたより、さらに怜和のことが好きだったのだと思い知らされた。


心の準備が何もできていないまま、唐突に、まるで飽きたアウターを脱ぎ捨ててゴミ箱に放り込むようなお手軽さで一方的に振られた。

実際、怜和は準大手商社の社長の息子で、実家は相当の金持ちらしい。飽きたアウターを捨てることなんか日常茶飯事なのだろう。


奨学金を満額まで借りて大学に通い、それを少しでも学生のうちに返そうと、時には空き時間にまでバイトを入れるあたしとは対極にいる存在だ。


客観的に見ればくだらない男なのだ、きっと。


でも、たった二ヶ月のつき合いだったけれど一緒にいる時はとても楽しかった。


あたしにはない苦労知らずだからこそのポジティブ思考や、明るさに魅せられていた。怜和といると自分までが人生なんとかなる、と前向きに足を踏み出せそうな気がした。


怜和が男友だちに見せる優しさや義理堅さみたいなものも好きだった。

あたしは肺の空気をすべて絞り落とすようなため息をつく。


振られて悩むに足りない男だと、この瞬間も頭では懸命に理解しようと努力している。でも気持ちが追いついてくれない。理屈じゃないのだ。


間違ったことはしていないはずなのに、あんなことをなじらなければ、怜和のやることに目を瞑ってさえいれば、別れを回避できたかもしれないと考えている。


もし今、タイムマシンで三十分前に戻れるとしたら、あたしは怜和が女の子と出かけていたことを、責めない自信がある。

そんな自分がとてつもなく嫌だ。


あたしもやっとの思いで重い腰を上げ、怜和の去ったカフェを後にした。

バッグを肩にかけもせず、長い持ち手を手首に絡めるようにして、ただ足を交互に前に運ぶ。


もしかしたらバッグは地面を摺ってしまっているかもしれなかったけれど、もうどうでもいい。腕が重くて持ち上げられないんだから仕方がない。


「あ、これ落ちましたよ」

 背後から女性の声がし、あたしは振り向いた。すぐ近くであたしにハンカチを差し出してくれている。バッグにしまわず手に持ったままにし、落としてしまったらしい。


「ありがとうございます」


 あたしは女性からハンカチを受け取った。


「あれ……。あの、間違ったらごめんなさい。大変失礼ですが、杏果もかさんじゃ、ありませんか?」


 かけられた声に緩慢な動作で顔をあげ、女性に焦点を合わせる。


ハンカチを拾ってくれたのは身なりの上品な若い女性だ。あたしよりはけっこう上だろう。


肩よりも長い髪は柔らかくうねり、優しげな流線形を描いている。若そうには見えるけれどブラウスにミモレ丈のスカートという落ち着きはらった服装から、三十代の後半に突入しているのかもしれない。


つるりとしてシミひとつないきめの整った細い薬指には、小さなダイヤを嵌め込んだシンプルなプラチナリングが光っている。既婚者だ。


 あたしの名前を知っている? 面識のない女性だった。


それとも今、頭が極端に働いていないせいで思い出せない、以前に知り合っている女性なのだろうか。


「えーと、どこかで、お会いしましたか?」


「わたし、牧枝怜和れおの母です」




あたしの前のテーブルの上にはアイスコーヒーが、そして、うちの母よりもはるかに若い怜和の母親の前にはアイスティーが置いてある。


なぜ怜和の母親が、大学しかないこんな場所にいたのかはすぐに知れた。怜和は今日、あたしと出かける予定だったにも関わらず、財布を忘れた。


それで母親に連絡して持って来させたという事のようだ。


近くの公園で待ち合わせをし、財布を受け取ってからカフェに来た。だから怜和は二十分遅れたのだ。友だち間のトラブルがあって、とLINEで遅れる理由を送信してきたけど、実はこういうことだったらしい。


母親の方はかなり急いだらしく、ヘトヘトだったため今まで公園のベンチで休憩をしていたのだそうだ。そしてあたしと鉢合わせたというわけだ。


あたしたちのいた道路のすぐ横の喫茶店は、手作りケーキが美味しいこのあたりの人気店で、よく並んでいる人がいる。

立ち止まっていたあたしたち二人にお店の人はドアを開け、「どうぞー二名さまですか?」と聞いてきた。


そこでお店の人に気を遣ったのか、怜和の母親が控えめに「あの、よかったらお茶でも」と誘ってきたのだ。


時間がないとか、断ることもできた。もうこの人は彼氏の母親でもなんでもない無関係の人間だ。なのに素直にここに入ってしまった自分の行動が解せない。この後に及んであたしは、怜和の母親に何か期待でもしているのだろうか。


今別れたばかりの彼氏の母親と、差し向かいでお茶を飲んでいる。なんの喜劇だろう。


それにしても怜和の母親はなぜこんなに若いのだろう。怜和は社長の息子で、しかも父親は女性を大切にしないタイプらしい。


二度目のお母さんで、血のつながりがなかったりするのかもしれない。そうでも考えないと年齢的に合わない気がする。

目の前にいるこの人の名前をあたしは知っている。牧枝寿実まきえだことみだ。怜和が母親のことを何度か〝寿実ことみ〟と呼んだことがあったから覚えていたのだ。


母親のことを、気やすさから名前で呼ぶ男子はごくたまにいる。

でも怜和の場合は、母親と仲がよく、親しみを込めて名前で呼んでいるわけではなくて、どちらかといえば女性を見下す侮蔑の意味合いが強いようなニュアンスだった。


怜和の男性優位思考は、父親の考え方そのままで、子供の頃からの強烈な刷り込みによるものなんだろうな、と話の端々から感じ取っていた。どうにも受け入れ難かった一面でもある。


杏果もかさんとおつき合いするようになって、あの子、たぶん変わりました」

「それはないと思います。あの、どうしてあたしのことを知ってるんですか?」


 怜和がつき合った女の子のことを、逐一母親に報告するとはとても思えない。


「ごめんなさい。プリクラを見てしまったの。あの子、今まで女の子とつき合ってプリクラを撮っても、いつもその辺に置きっぱなしなんです。でもリビングでタブレットの裏にプリクラを挟んでたんです。怜和のタブレットケース、裏面が透明なの。わたし、びっくりして……」


 プリクラを撮ったのは一度だから覚えがあった。怜和の名前とあたしの名前を並列して印刷した。


「それで後からわざわざ確かめたってことですか?」


好きな人の母親に対して、責めるような口調になっているのは、すでに脳内で怜和が元彼になっているからだろうか。この人にどう思われてもいい。


 怜和の母親は居心地が悪そうに俯く。テーブルの下で組み合わせた指先を、擦り合わせているように見えた。


「あの子、ほとんど口をきいてくれないから。わたしにとっては赤ちゃんだった時が一番幸せだったくらいで。五歳で親離れなんて早すぎるわよねえ。けっこう難産だったのに」

「えっ……」


 あやうく実母さんなんですか? と聞きそうになる。この人は、いったいいくつで怜和れおを産んだのだろう。


杏果もかさんとつき合うようになってから、優しい顔で笑うことが多くなったの、あの子。遊びに行くのに財布がないって言うから、デートかと思ったら男友だちだったのね」


 怜和の母親の声が、気味の悪い不協和音のように鼓膜に響く。


「この間なんか、玄関で怜和に会ったら、宅配できてたお水をキッチンまで運んでくれたのよ。頼んでもいないのに。びっくりしちゃった」


 反抗期の中学生じゃあるまいし、大学一年の男子が、母親が持てないような重い荷物を運ぶなんて至極当たり前のことだ。

それを、水を運んでくれたことを、人、しかも当人の彼女に嬉々として語るなんて世の中の常識から外れている。怜和を、どんな育て方をしているんだろう。


「あ、誤解しないでね。怜和はもともとの気質は悪くないの。小さい頃は優しい子だったのよ。前の家で、普段使いのハーブを庭で育ててたのね。しその葉を使いたかったんだけど『雨だから諦めようか』って呟いたみたいなの。そしたら、怜和が身長と同じくらいになっちゃってるその木から、葉っぱを取ってきてくれたの。五歳だったかな。密に植わってたもんだからびしょびしょよー」


その時のことを思い出しているのか、頬を染めて、くつくつと笑う。


 頭痛がしてくる。なぜあたしは、たった今振られた男子の母親から、そいつの幼少期の話なんか聞かされているのだろう。


 だいたいだ。幼少期の怜和がそんなに優しい子だったのなら、今の彼が女子を簡単に切って捨てるような性格に育ってしまったのは、この人のせいだとも言える。

家では怜和の父親に何ひとつ逆らわず、女性である自分を貶める言動も許してきたんだろう。


例えば怜和が、母親に対して乱暴な態度を取ったとしても、父親がそれを諌める事はしなかっただろう。


そしてこの人も、その言葉に甘んじる姿勢をとり続けてきた結果、今の怜和が出来上がってしまったというわけだ。


怜和には歳の離れた妹だっていたはずだ。女の子がそんな歪んだ価値観の中で育っていいわけがない。


 そう考え始めると、目の前にいるこの人に対してむくむくと嫌悪感が湧いてくる。自分の子供をまともに育てるために、価値観が大幅におかしい父親を咎めようと試みたことはなかったのだろうか。


四人がけテーブル席の、怜和の母親の隣の椅子に置いてあるバッグに視線がいく。小さく入ったロゴは、数十万はすると思われるブランド品だ。怜和の家にはお手伝いさんだっていたはずだ。


そういう生活と引き換えにこの人は、ごく一般的な価値観を、わが子に根付かせることを放棄した。


怜和の将来。あたしとは違う女の子とつき合ったとしても、自分にとって面倒なことで責められれば、話し合うこともなくすぐに別れる。


そしてまた次の子とつき合う。また別れる。つき合う、別れる、つき合う別れるつき合う別れるつき合う別れる……。


結婚してまでそんなことを繰り返す怜和が、コンマ〇、一秒で次々に切り替わる静止画像のように脳内で再生される。そんなんじゃ、怜和はいつまでたっても幸せになれない!


気がついたらあたしは立ち上がっていた。自分が何をしようとしているのかわからないまま、手には水の入ったコップが握られている。


「きゃっ!」


 奇声が響く。目の前で瞼を限界まで開いた怜和の母親が、身動きもせず にあたしを凝視している。そのきれいな顔も、シンプルだけど高そうなベージュのブラウスも、なぜかびしょ濡れだ。


「あのね! あたしはたった今あなたの息子に振られたんです。他の女の子と出かけた経緯を聞いたら、それだけで一方的に別れを宣言してカフェから出ていったんですよ」


 怜和の母親が微動だにしないのをいいことに、あたしは続けた。


「あなたが、小さい頃には優しかったっていう怜和をあんな男尊女卑のクズ男に変えたんじゃないんですか? 旦那さんに逆らうのが怖くて、今の贅沢な暮らしを捨てるのがもったいなくて、女子の尊厳を認めない、時代に逆行した息子の考えを正そうとしなかったんじゃないんですか? 広い家と引き換えに、息子や娘の倫理観を差し出してるんじゃないんですか?」


微動だにしないけれど、はじめ驚愕の形に見開かれていた怜和の母親の瞳は、どんどん感情の色を失っていき、今や濃い無力感に苛まれているようにさえ見えた。


それでもあたしの口から飛び出す弾丸は威力を落とさない。


「事なかれ主義! だから怜和は女の子とちっとも続かないのよ。元カノが何人いるか知ってるのっ?」


 どのくらい経ったのか時間が静止しているような数秒の後、目線を落とすと手の中のコップが空だった。その意味がゆっくりと時間をかけて脳細胞に沁みていく。そしてある時一気に目が覚める。


 あたし、もしかして怜和のお母さんに水をぶっかけたの?


 あたし……なんて、なんて事をしてしまったんだろう。この人は、何も悪くない。なんの非もない。それなのにあたしがした事は……。


水をかけた事に後から気づく、われを忘れる、という初めての体験にただただ混乱する。手が自分でもわかるほどぶるぶると震えている。浅い呼吸までが震えている。


 それなのに、ごめんなさい、という道理にかなう言葉が喉のカーブに張り付き、外に出てきてくれない。


目の前にいるこの人は、常日頃使用人を使って生活するお金持ちの奥様だ。いくら旦那さんの価値観に押さえつけられているとはいえ、プライドは高いに違いない。


どんな反論をされるのか、この場で警察に通報されるのかと、ようやく自分のしたことの重大さを少しだけ客観的にとらえる思考が戻ってきた。


 けれど当然怒り心頭だと思った怜和の母親は、深くこうべを垂れ、自分の膝頭に視線が流れ落ちてしまっている。微かに開いた唇が、小刻みに震えているのがわかる。


 その姿にさらに自分の罪を突きつけられた。巨石が胸に乗っているかのような息苦しさに、涙が滲みそうになる。


たまらなくなったあたしはバッグから千円札を一枚取り出すとテーブルの上にそっと置いた。それでも怜和の母親は身動きひとつしない。


 そのままバッグのファスナーも閉めもせずに踵を返して喫茶店の出口に向かう。

 背後から、ごめんなさいと、か細い声が聞こえたような気がした。





 あたしは最低だ。怜和はそこまでクズ男なんかじゃない。

一方的に振られた原因がなんなのか、今ははっきり理解できない。だけどつまるところ、怜和にとってあたしは魅力的な女の子じゃなくなったから振られたという、ただそれだけの単純な話なのだ。


世の中には、女の子に対して犯罪まがいのことまでして憚らない男はいくらでもいる。少なくとも怜和はそういった男子ではない。


「でもやっぱりクズだ」


 あたしはバッグを抱きしめて人気のない古い雑居ビルに飛び込んだ。列になっている集合ポストの陰に身を潜める。


涙があとからあとから頬を伝うのは、怜和に振られたからなのか、その腹いせのように彼の母親に当たり散らした自分への嫌悪感からなのか、判別がつかない。


しばらくして身を起こしたあたしは、無骨なコンクリート壁に背中をもたれかけさせる。


「クズなのはあたしだ」


なんの罪もない怜和の母親に、感情のままひどい言葉を浴びせ続けた。














  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天空の鳥籠 大海の笹舟 菜の夏 @ayu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ