第1話 海原の笹舟 1−1

不信感を抱いたまま一緒にいても楽しくない。それならいっそ、はっきりと聞いてしまったほうが楽だと思った。


怜和れお、昨日って、なにしてた?」


 怜和は待ち合わせに二十分遅れてきた。


 大学近くのカフェの窓際テーブル席、あたしの真向かいで怜和はスマホを片手でいじっている。午後の授業が休校になり、予定より早くに行けることになったお店の情報を検索してくれているのだ。


 季節は春。突風に、肩より少し長い髪が煽られて、朝の洗面台で苦労した外巻きが崩れることがこの季節の悩みの種だ。


まだ二人とも教和大学に入学して三ヶ月しかたっていない。一年生だ。


あたしの言葉に画面をスクロールする怜和れおの親指が止まった。


「昨日? 大学が終わってからは普通に友だちと遊んでたけど?」


 視線はスマホ画面に落ちたままだ。


「友だちって、女の子だよね?」


 渋谷の大通りを怜和と女の子が一緒に歩いているのを、友だちの沙恵が見つけた。学部は違うけれど同じ大学に通う目をひく美人で、名前は知らないながら、沙恵から特徴を聞いた時にはすぐに思い当たった。


その子と怜和は笑顔で腕を組み、身を寄せ合って歩いていたらしい。


「だから何?」


そこで怜和はやっと視線をあげ、あたしを正面から見据える。

「何って……。どうしてなのかなって思うじゃない」

「別に何でもねえよ。授業が終わって腹が減ってたところに、一緒にご飯食べに行こう、って誘われたから行っただけ。別にやましいことは何もない」


「腕、組んでたって友だちから聞いたんだけど」


 そこで怜和は大仰なため息をつき、背もたれに寄りかかってから投げ出すようにテーブルにスマホを置いた。


「向こうが勝手に腕組んできたんだよ。そんな長い時間じゃない。鬱陶しいとは思ったけど、一応女の子なんだから振り払うのもなんだろ? 別にめんどくさいことにはなってない。ふざけただけだろ」


「そうだったんだ」

「おう」


「……あのさ、後から人伝に聞くと不安になるからさ、グループとかならいいけど、女の子と二人きりの時は、一応、事前に言ってくれないかな?」

「めんどくさい事にはなってないんだって」


「でも怜和だってあたしーー」

「お前のがめんどくさいんだよ、杏果もか


 怜和の冷めた視線が言葉を奪う。


「もうマジでめんどくせえ。俺、そういうの嫌いだって知ってんだろ? 別れようぜ杏果もか

「え……」


「だるいんだよ。女のくせにごちゃごちゃとうるさすぎ。女は黙っときゃいいんだよ」


 憂さをたっぷり含んだ怜和の声音にあたしは凍りつく。


荷物をさっさと取り上げ、あたしには一瞥もくれずに立ち去る怜和に、驚きすぎて体が硬直し、追いかけることさえ思い浮かばなかった。

「……だるい……か」


 女のくせにごちゃごちゃ……。女は黙っときゃいい……。


 衝撃的な怜和れおの最後の言葉が耳に残る。残るものの現実感はない。


 ガラスばりの窓に沿って二人がけのテーブル席がずらりと縦に配されている。怜和れおが立ち去ったことで見晴らしの良くなった前方には、鮮やかな黄色のカットソーに包まれた華奢な背中が見えた。


彼氏とおぼしき人との会話に、肩を揺らして笑うその子の背中に、あたしの嘆きは吸い込まれていく。


 たった今まで彼氏であった怜和れおに不穏な噂はあったものの、証拠もないうえ、信じたい気持ちも働き、直接真偽を確かめたのはこれが初めてだ。つき合い初めて二ヶ月目、たった一度の諍いだ。


それが面倒で、怜和はあたしからいとも簡単に去っていった。


怜和の容貌はそこそこいい。大学のミスターコンに選出されるレベルではないにしろ、友だちに写真を見せれば十人中十人がイケメンだね、と返してくれる。


でも街中に怜和れおよりかっこいい子は掃いて捨てるほどいるから、彼の強みはそこじゃない。


特に女子に対してのコニュニケーション能力が高く、ジョークのセンスもある。まあ、要するにチャラい、ってことだ。


いくら容姿が好みの系統でも、そのたぐいの人種に関心はなかった。なぜかといえば、派手な生活を送っていそうな子とは、男女問わず経済的なレベルが違ってつき合えないのだ。


そんなあたしが、怜和を意識したのはたぶん大学登校の二、三日目の電車の中だ。


あたし含め、座席に座っている人全員がスマホに視線を落としている。


パリピ学生もオタク学生もサラリーマンも若い子連れの主婦も、おそらくみんなが、音楽を聞いているかゲームをやっているかSNSの画像を見ていた。

サラリーマンは電子版の新聞を読んでいたのかもしれない。


ふっと顔を上げたあたしは、年齢も性別もばらばらのこの車両に乗り合わせた者同士が、音楽、ゲーム、SNSって二十一世紀の文明のりきで繋がっているなあと、なんとなく感心していた。


そこで隣に、サテン素材のモノクロ開襟シャツにワイドパンツ、サコッシュ、というがっつり今風の男子が腰掛けていることに気づく。この子、うちのクラスじゃなかったっけ? 


教和大学の経済学部経営学科はひとクラスが五十人。昨日今日じゃ覚えられないけれど、目立つ男子同士で群れているところから付属の子たちだ、と記憶の隅に残っていた。


チャラい軍団の子だよな、きっと今後も接点はないだろう、と感じながらなんとなくその男子の手元のスマホに視線を落とした。


えっ……。

と軽い衝撃を受ける。


その子、怜和が見ていたスマホ画面には縦書きの小さな文字がびっちりと詰まっていた。


サガンだ。フランスの昔の小説家フランソワーズ・サガン。一時期好きで読んでいて、たまたま覚えていた小説の一説が視界に飛び込んできた。


このパリピ代表みたいな男子がサガン。スマホで小説、しかもサガンを読んでいるのはこの車両の中、いや電車全体でも怜和だけに違いない。


なんとなく目がいくようになったのは、おそらくこのサガンからだ。こんなギャップは男友だちでさえ知っている子が少ないように思え、妙な優越感に心が浮き立った。


そして同じ教室内で過ごすうち、自然に怜和の姿に惹きつけられるようになり、人当たりがよくて明るい性格だと知った。たぶん惹かれはじめていたんだろう。ちょっといいかも、と友だちと話していた数日後に当人から告白され、つき合い始めた。


つき合ってから知ったことだけれど、怜和は束縛を極端に嫌う男子だった。だからあたしは、怜和が女子を含めたグループで遠出をすることにも遊びにいくことにも、異を唱えたことはない。


だけど、女子と二人きりで出かけられるのはさすがに不安だった。例えば単位が危うい教科を教えてもらうとか、バイト帰りの暗い夜道を家まで送ることになったとか、納得できる理由があれば仕方がないとも思える。


でもそういった類の理由で二人きりになっているわけではないと、怜和本人が軽く口にする。


「別にやましいことがなけりゃ遊びに行ってもいいだろ? 杏果がそこまで俺のプライベートに口出すことかよ?」


 それが怜和の価値観らしい。他の女子と遊ぶことで、彼女であるあたしが悲しい思いをしても、そんなことは知ったこっちゃない。

怜和は、俺も束縛しない、と口では言うものの、あたしが他の男子と二人になることにあきらかにいい顔をしない。同じ時間に終わったバイト仲間と、駅まで一緒に帰ることさえ、それは絶対にやめろ、とはっきり釘を刺されたことがある。


でもあたしは怜和に恋をしていたわけで、そういうやきもちは嬉しくさえあった。だから、怜和が不快な気持ちになるから、あたしは他の男子と二人になることはない。いや、なかった。


 男は良くて女はだめ。


男女平等が当然の価値観としてまかり通る二十一世紀にあって、怜和という男はわかりやすく前時代的で男尊女卑だ。


自覚はないらしいけれど、たぶんそれが滲み出ているからこそ女子と長続きしない。怜和の交際最長記録が三ヶ月だと知った時は、ショックを受けると共に、心のどこかで納得もしてしまった。


 ここでもギャップ。悪い意味でのギャップだ。


良くも悪くも上下左右あっちにもこっちにも、知れば知るほど怜和はギャップだらけの男子だ。


 それでも好きだった。


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