第2話 天空の鳥籠 1−4

ビールの前にウイスキーか。嫌な予感しかしない。


氷だけをグラスに入れて戻ってくると、卓上に用意してあったウイスキーと天然水を手早く注ぎ、マドラーで軽くまわす。差し出した水割りをひと口含み、万里はようやくカルパッチョの牛肉に銀のフォークを突き刺した。


食事の間、万里から離れた、でもちゃんと視界に入る場所で彼が脱ぎ散らかしたスーツをハンガーにかけ、ひとつひとつ丁寧にブラシッングをする。スーツを所定の位置まで戻し、その後はアイランド型のキッチンに引っ込んだわたしに、万里が語りかけることはなかった。


相槌ひとつ間違えても檄が飛ぶから、なまじ話をしてもらわない方が安全なのだ。

しかも今日の機嫌では、豪雨の注意報くらいは出ていそうな気がする。万里の場合、水割りの杯数と雨雲レーダーのパーセンテージは比例する。


 万里が全ての食事を終えて立ち上がった。わたしは空になった食器をトレイの上に次々と載せていく。

「おい」


 万里はいつしかわたしを名前で呼ばなくなった。子供のいる家庭特有の妻の呼び方である〝ママ〟でもなければ〝お母さん〟でもない。〝おい〟か〝お前〟だ。

「はい」

 食器を手に半ばおびえて振り向く。

「お前のせいで商談をひとつ不意にした」

「えっ?」


 〝口は災いの元〝という諺は、万里の前でだけ〝口はなくても災いの元〟に変化する。

地雷はこちらからわざわざ近づかなくとも、万里の機嫌次第でいとも簡単にわたしの足下に出現するのだ。


「お前の靴の磨き方が悪いから商談をふいにしたんだ。相手方の常務は俺の革靴を見てたぞ」

わたしは口を閉ざす。鋭く冷たい視線に、いつものように心が防御壁を構築し始める。不都合が起こると、社内のことでも私事でも、すべてわたしの責任になるのが常だ。


書類を忘れたのもわたしのせい。商談に遅刻したのもわたしのせい。黒猫が目の前を横切ったのもわたしのせいになる。


「大きな商談だったのにお前のせいで水の泡だよ。え? なんとか言ったらどうなんだ?」

「一生懸命磨いてるわ。十五分はかけてる」

「いっちょまえに口答えか。いまだに何もできない無駄飯食らいのくせに。くそまずい料理しか作れないから仕方なく家政婦まで頼んでる。靴くらいはまともに磨け!」

「……わかりました」


「誰のおかげでこういう家に住めてる? 口答えなんてできる身分じゃないはずだろ」

 認める返事をしなければもっと機嫌が悪くなるとわかっているのに、うまく言葉が紡げない。同じ状況は過去何千回もあったにもかかわらず、器用にかわせない。いつも万里が指摘する通り、わたしの学習能力はやっぱりみみず以下なのかもしれない。

万里はわたしに聞かせる目的のため息をつく。


「俺は白いワンピース姿のお前に騙されて人生を棒に振った」

 気づかれないよう下を向いて奥歯を噛みしめる。

 酔いがかなりまわった時の常套句なのだ。出会った頃、白いキャミワンピを着ることをわたしに求めていたのは万里だ。


三十代も後半に差し掛かった今、それはさすがに似合わないから、せめて万里を不快にさせないよう服装には気を遣っている。好きなファッションではなく、万里いわく、社長夫人らしい上質で品のある服装だ。


騙されたというのなら、それはまさしくわたしの方だ。俯くと、テーブルの上でトレイを握りしめすぎて色を変えていく親指の爪が視界に映る。

「働いたこともない、なんの能力もない見た目だけの人形でも、若けりゃまだ存在価値もあったってもんだ。わたしは天使です、みたいな白いワンピースの十代のお前。その策略にまんまとはまった俺は愚かだった。まさかここまで無能な、生きる価値もない無駄飯食らいだったとはな」


無駄飯食らいだと罵られない日はない。

トレイの角が親指と皮膚の間に入り込み、鋭い痛みが走る。悔しいけれど、働いたことがないのもなんの才能もないのも、すべてが事実だ。


「お前の近くにいるだけで、うまくいくはずの商談が全部駄目になりそうで恐ろしいよ。疫病神もいいところだ」


 背後から甲高い子供の声が飛んだ。

「全部言いがかりじゃん。そんなの」

いつの間にか階段を降りてきていた若葉が、わたしのななめ後ろに立っていた。

「なんだと?」

「若葉いいのよやめなさい」


 わたしを庇おうとする若葉を、前に出さないよう背後に追いやる。誰に似たのか若葉は正義感が強すぎる。酔って若葉に暴力を振るわれたら、と思うことが最近はままあって、そのたびに戦々恐々とする。


「子供は黙っていろ!」

「ごめんなさい」


若葉に変わり、間髪入れずに頭を下げた。

「まったく子供のしつけもまともにできてない!」

万里は声を荒げる。


防衛本能が優ってくれたのか、若葉は口を閉じた。さすがに暴力をふるうことはなく、風呂場に向かってくれたらしい。わたしは胸を撫で下ろす。

背中で身を縮めるようにして、わたしの腕を両手で握る若葉の指先は震えているように感じる。いくら義侠心に駆られたとはいえ、十歳の小学五年が五十歳の酔っ払いに立ち向かうのだから恐怖して当たり前だ。


「怖かったよね若葉。パパに口答えをするのはやめときなさい。ママ心配だよ。今は巻かれておくのが得策よ」

「あの人、おかしくない?」

「若葉……」


「友だちのお父さんでも変なのっていっぱいいるけどさ。うちの親ほど酷いのは聞いたことないよ」

「でもね若葉。若葉の進学塾の費用も出してくれてるのよ」

「まあね。そこは一応感謝してるけどさ」

「さあ、もう部屋に戻った方がいいわ。パパお風呂から出てくるの、早いからさ。今日酔っ払ってるしね」

「だねー」


ふと気配を感じ視線を移すと、スケルトン階段の途中に怜和が立っていた。

「怜和……」


怜和はそのまま降りてきてキッチンに入る。冷蔵庫からコーラを取り出すとコップに注ぎ、それを手にまた階段を昇っていった。

「お兄(にい)、パパに洗脳されてるよね」


若葉は、万里に向けたものとは打って変わった、寂しげな表情を怜和に対して送る。

若葉にとって、怜和がいいお兄ちゃんだったのはいくつの頃までだっただろう。中学生の多感な時期、ただ無心に自分をしたう小さな妹に素直な笑顔を見せていた。


怜和は友だちが少なかったわけではない。でも部活は陸上の短距離が専門で、タイムが可視化される狭いコミュニティの中では、みんなが友だちであると同時に常にライバルだった。怜和にとって世間の邪気に晒されていない若葉は、数少ない心を解放できる存在だったのだと思う。


万里はというと、お腹の中の若葉が女の子だと知るやいなや、とたんに興味を失ってしまった。若葉に優しく接する万里の記憶は数えるほどしかない。


対して怜和のことは物心ついた頃からなんでも好きなものを買い与え、頻繁に望む場所に出掛けていた。動物園に遊園地、恐竜展。怜和に請われるがまま、同じポケモン映画に毎週通っていた時期もある。

二人きりで。

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