白の星 作:淵瀬このや
吐く息の溶けない夜だった。
午後九時半の空気は肌を刺す。ピリピリ痛む手を宥めるようにすり合わせてみるが、もっと痛むだけだった。手袋をつけないのは、人の隣を歩く時の癖。彼女が私に残していった癖。
サークルの同期と別れ、大通りを外れる。家のある小路に曲がって、思わず溜息を吐いた。
街灯の白に照らされた、白のダウンジャケットを羽織った彼女。夜の中、吐く息よりずっと確かな白を持った彼女は星そのものみたいだった。私みたいな弱い星の吐き出す白なんか簡単にかき消してしまう、強くて暴力的な星。
近づけば、鼻を真っ赤にして空を見上げていた彼女は、そのまままっすぐこちらを見上げる。ガサッとその手に持ったレジ袋を鳴らして私の手に押し付けると、
「手羽元と、強炭酸」
それだけ言って、彼女はにやっと笑った。
「だから来るんだったら連絡入れて、近くのコンビニでも入ってなって。迎え行くから」
「だってぇ、そしたら星が見えんやん」
「寒くて風邪ひいたらどうするの、ああもう手袋つけないから手ぇ真っ赤だし……」
「寒い日の醍醐味ー」
ほら、炬燵つけたから入っときな、と声をかけると、彼女はおとなしくするっとダウンジャケットを脱ぎ、慣れた手つきで私のクローゼットからハンガーを取り出して部屋干しラックにかける。黒のニットにワインレッドのロング丈スカート。彼女のお気に入りたち。黒は似合わないと私が言っても、「あんたの言うこと全部聞いたら、私全身真っ白の雪だるまさんになってしまう」と譲らなかったニット。
そんな彼女をおいて私は暖簾をくぐってキッチンに戻り、ビッと手羽元の包装を破る。四割引きのシールのついたそれは、すでにいくらかドリップが出ていた。
「ねえ最悪。つくらせるならもっといいの買ってきてよ」
「それしかなかったの、私のこの可愛い顔に免じて許して?」
「よーしわかった許さん」
そんなぁ、なんて情けない声を聞きつつ、手羽元を軽く水でさっと洗い流し、水気を拭きとって鍋に放り入れる。全部で五本。私が二本で、彼女が三本。きっと今日も同じ。それらがぎりぎり浸らないくらいの水。カチッ、チッチッチッチッ。中火に調節したガスコンロの火を横から見つめる。ゆらゆらと冷気に揺れる火はどこか楽しげだった。
「なんか手伝うことある?」
キッチンとリビングの間の暖簾を持ち上げて、彼女がひょこと顔をのぞかせる。多少は身体も温まったのか、鼻の赤みはひいていた。
「じゃあ、コップ出して氷いれといて。どうせ炭酸冷えてないでしょ」
「はいはい、そんな棘のある言い方しなくてもやりますよ」
下開けるよー、と、彼女は私の足元の戸棚から二つ、柄違いの背の高いコップを取り出す。彼女はキウイ、私はいちご、百均で買ったチープなお揃い。カラカラと氷を入れる音が聞こえる。そのまま二つのコップを両手に、彼女がまた暖簾の向こうに消える。
ふつふつと湯気の立ち始めた鍋を横目に、冷蔵庫を開ける。かぼすぽん酢の瓶を取り出して、水の色が薄い茶になる程度に注ぎ入れる。ふわ、とかぼすの爽やかな匂いが香り、すぐに酢醤油の酸っぱさへと変わる。それすらも、嗅ぎ慣れてしまった私には甘ったるくも感じられた。かぼすぽん酢を入れた瞬間は収まったお湯のふつふつも、また元気よく踊り始める。
暖簾の向こうで、トットットットッ、とコップにものを注ぐ音がする。強炭酸の音は、ここまでは聞こえてこない。無糖の、ほのかにレモンの香る強炭酸。その強い音がずっと好きだった。そんな強い音、私が求める音は、薄い安い暖簾に簡単に阻まれて消されてしまう。
「暖簾にはなりたくないね」
「なんか言った?」
彼女がまたひょっと顔を出す。私が再度口に出せば、彼女はうげ、という顔をした。
「まぁたなんかヘンなこと言ってる。料理中のあんたっていろいろ考えすぎ」
「時間があるときってそういうものじゃない」
「料理できないからわかんなーい。てかヘンってところ否定しないのね」
「自覚はある」
そっか、と彼女はあくびをし暖簾の向こうに引っ込む。私は菜箸の先で手羽元を転がす。甘くて酸っぱいかぼすぽん酢が、キッチンのなかにだけ濃くなっていく。
水分が完全に飛ぶまで火を通した甘くて味の濃い手羽元は、彼女の好物。割いたアルミホイルを手羽元の細い方に巻いて、彼女は思い切りよくかぶりつく。その一口で骨が覗くほど、思い切りよく、鋭く、強く。それを横目に私は箸でそれを持って食べる。骨には届かない一口なのに、すぐに肉が前歯に挟まる。気に留めないこともできずに、口をもごもごさせながら食べすすめる。皿にのった五本の手羽元なんて、あっという間になくなる。
軟骨を噛み砕く彼女が、キウイのコップを口元に傾ける。刺激を与えられて、強炭酸がしゅわわわわと音を立てる。か細い音。私も炭酸を飲もうとして、やめる。置かれっぱなしの強炭酸の、緩やかな音をまだ聞いていたいような気がした。それでも彼女はタンッ、と強くコップを置いて、なんでもないように口を開いた。
「一緒に帰ってきたあの子、誰なの?」
「サークルの同期だよ」
珍しく、彼女が他人に興味を示したので、私は少し揶揄ってみることにした。
「すごく綺麗な小説を書くんだ」
それを聞いて、彼女はガッと立ち上がる。炬燵の天板が揺れる。皿が音を立てる。強炭酸がか細く鳴る。足をぶつけて痛いだろうに、彼女は真っすぐこちらを見下ろす。
「……ねぇ、今綺麗って言った? 私以外の、私が書いた以外の小説を、綺麗って」
「うん。言った、言ったよ。あんたの書く小説が星ならあの子のは花みたいに繊細だね。色彩の描写が本当に緻密なんだ、それに匂いなんて」
「そんなこと、聞きたくない」
彼女が地に這うほど低い声を出す。今日は甘やかしてやろうと決めたから、そんな声を出されても引くつもりはない。同じ思いを返せない贖罪に、私はできるかぎり彼女を甘やかす。彼女が白の星でいられるための、敵対する黒い空になる。
「あんたが誰かを褒めるのなんて、聞きたくない」
それでも、彼女の声に私の背筋は震えていた。彼女のこんな切羽詰まった声を聞くのは、中学生のころ以来だった。彼氏に振られたと泣いていた女子トイレで、「もう捨てられるのは勘弁や」と彼女が呟いたあの日以来。暖簾のない、彼女のそのまま。
「あんたにとって、私の小説が一番綺麗なんじゃなかったの。一番理想なんじゃなかったの。あんたの『綺麗』って、そんな軽くなかったでしょ」
「怒るんだったら、」
乾く唇を舌先で湿す。ぐっと膝小僧に力をいれて立ち上がる。そうでもしないと、こんなに苦しそうに怒る彼女を抱きしめて慰めてしまいそうだった。強い白い星を、壊してしまいそうだった。
「怒るんだったら書きなさいよ、あんたの小説を。わからない。私にはわからないよ。才能があるのに何で書かない! そんなに綺麗な言葉が紡げるのに何で紡がない! 頂戴よ。書かないなら、いらないなら、あんたの言葉を私に頂戴よ!」
ドンドン、隣の部屋から壁を二回叩かれて我に返る。声をあげすぎたのか、寒さと乾燥で喉の血の味が強くなる。
「……書けば、いいんだね」
私より少し低い位置から、彼女が私を睨めつける。ぞくぞくと背筋を期待が駆け上がる。
「パソコン、……ううん、紙とペンの方がいい。そういう気分だし、原稿用紙くらい持ってるでしょ、あんたどうせ。書けない書けないって言いながら、そうやって書いてるんでしょ」
「……いいよ。好きなの貸してあげる」
その代わり、半端なもの書いたら許さない。負け惜しみに付け足したその言葉はきっと余計だ。あれだけむき出しの彼女が、何よりも強い白の星が、半端なものなんて書くわけがない。
カン、とシャーペンが炬燵に置かれる。散らかった紙が、端を煽られ揺れる。彼女の言葉だけで埋められた、原稿用紙。
半瞬も置かずに、彼女は私に飛びついた。
「やっと、やっと書けた……」
泣きじゃくる彼女を抱きとめて、ゆるく天然パーマのかかった髪を梳くように撫ぜた。
「うん。よく、頑張ったね」
私の喉も、彼女につられたように見せかけて震える。歓喜と安堵で、震える。星は堕ちてこなかった。これで私は彼女を、理想のままにしておける。同じ気持ちを返せないことを、肯定していられる。素知らぬ顔で、誠実なままで、彼女を次の朝に送り出せる。
彼女は正しく、手の届かない星のままでいてくれる。
「家まで送らなくて平気?」
朝七時、外は真っ暗で、でも空はほんのり白んでいた。街灯が、心細い光を地面に落としている。所詮、偽物の星だった。本物と同じ光を返してあげられない、ニセモノ。星に憧れているくせに、自分なりの光すら夜空に届けようとしない、臆病なニセモノ。
「送るつもりもないから、そんな薄着のままで出てきたんでしょ」
「へへ、あたり。寒すぎるからさっさと帰ってほしい」
白いダウンジャケット、白いマフラー。手袋をつけない手は一瞬で真っ赤になっている。鼻だって赤い。頬も、赤いのかもしれない。それでも気づかないふりをして、私は彼女を白と言う。
「朝にさ」
「うん」
「朝に、ずっと起きてた夜の終わりに、一人じゃないのって、なんか、いいね」
「……うん。いいよね。なんか」
気のない私の返事に彼女は諦めたように笑って、帰るかー、と空を仰ぐ。一緒に仰げば、朝に逃げ遅れた星が一つ浮かんでいる。群青にへばりついた、シミみたいな白。
私はそれを、掴んで、潰した。
2022年度・九州大学文藝部・追い出し号『かえりみち』 九大文芸部 @kyudai-bungei
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