二 四月二十六日
私は亡霊を視ることができます。そんなことを言われて、信用する人がどれほどいるだろう。
小学校四年生の時に教室内に校庭から飛び込んできたサッカーボールは、
謝罪は貰ったので、それはいい。けれどそれ以来、徐々に徐々におかしなものが視えるようになった。最初はただ黒い影だったものが次第に
高校三年生になった今となっては、もう何年も前の思い出話だ。別に未だ頭が痛くなるとか、そういうことはない。ただ後遺症のように、晴季に視える世界はズレて、普通の人とは違ってしまった。それだけの話だ。
亡霊を視ると、ついそのことを思い出してしまう。それにしても昨晩の場所はやはり変だったなと思いながら、制服に着替えて洗面台の鏡でリボンタイが曲がっていないかを確認する。
「おはようございます」
とんとんと階段を下りて広めのリビングに挨拶をしながら入れば、
髪の毛を丁寧に撫でつけて一筋たりとも落ちないようにしているというのに、襟だけでどうにも残念になってしまっている。
「おはよう、ハレ。朝ごはんならそこにあるよ」
そこ、と彼が示した先のキッチンのカウンターの上、お盆に乗せられているのはトーストの皿と洗ったレタスとミニトマトと目玉焼きの皿、そして味噌汁のお椀だった。まだそれほど時間が経ってはいないのか、味噌汁のお椀からは湯気が立っている。
二〇一九年四月二十六日金曜日、七時四分。カウンターに置かれたデジタル時計が、今日の日付と今の時間を表示している。
「誠一郎さんはまたコーヒーとパンだけなの」
「俺はおとなだからね。二十代崖っぷち、二十八歳。ハレはきちんと食べなさい、育ち盛りの高校生」
とん、とお盆を誠一郎の向かいの席に置く。
「別にもう身長伸びてないんだけど」
「そう思っているのはハレだけかもしれないだろう? 人間、二十過ぎても背が伸びたりするんだ」
それは本当なのだろうかと思いつつ、ただ「そうかも」とだけ返事をした。
いただきますと手を合わせて、赤地に白いうさぎの跳ねている模様の
味噌汁の具は大根に玉ねぎに豆腐。透明と白の具材が合わせ味噌の茶色の中に閉じ込められている。
誠一郎はコーヒーを飲み終えて、片付けのために立ち上がる。カッターシャツの裾が一部ズボンからはみ出していて、やはりだらしがなく見える。
今日の目玉焼きは黄身が固い。半熟でない黄身というのはパサパサしていて口の中の水分が持っていかれてしまって、少し苦手だ。
季節は春。桜の花はすでに散って、青々とした葉を生い茂らせている。世間はもうじきゴールデンウィークでどこか浮足立っているようにも見えた。
「昨日の、急だったけど何だったの?」
「ヨウさんが、気にかかる自殺者だから確認して欲しいって言ってきた。ちょうど本業の谷間だし、報酬もくれるって言うから引き受けたんだよ」
「
「警察じゃ自殺をそれ以上調べたりしないからとかなんとか言ってた」
刎木
確かに自殺者は警察の管轄かもしれないが、それ以上調べないのなら、事件性はないのだろうに。
「一昨日の夜にサイレンの音がしてたのは、そのせい?」
「多分。ちょうど……なんだっけな。川を南に下っていった水神神社? とかなんか、その辺で浮かんでたらしいから」
となると昨日の場所からは少し離れているのかもしれない。飛び込んで、その遺体が流れ着いていたということなのだろうか。
一昨日の夜はどこかでサイレンが響いているのは聞こえていて、どこかで火事でもあったのかと思っていた。実際には、遺体が見つかった音だったらしい。
「学校で何か噂話でも聞いたら教えてくれ」
「あのね、誠一郎さん。そのすっごく難しいこと言わないでよ……」
「そうか? 聞き耳でも立ててたら、何か入ってくるかもしれないし」
友達が多ければ、少し話題にしてみれば噂話だって入ってくるのかもしれない。だが、生憎と晴季にそれは無理だ。
これ以上その不毛な会話を続けようとは思えず、晴季は話の方向性を変えることにする。
「
「朝は早くて帰りは遅いって言ってたな。だから夕飯は作り置きを食べてくれって。スミヨシの見解を聞くのは明日の朝ごはんの時にしよう。ちょうど土曜日だし。晴季も何か思い当たることがあったら教えてくれ」
「高校生にあんまり期待しないでね」
「そんなこと言ったら、スミヨシも大学生だろ?」
「でも吉彰君、成人してるし」
「一応二十歳なだけだって本人は言いそうだな」
朝食を食べ終えて、食器を洗う。乾燥用のカゴには既に吉彰の食器が伏せられていて、彼の不在を証明している。吉彰の通う大学は電車で四十分以上揺られなければならないのだから、朝早いとなると晴季が起きるよりも先に出て行くこともある。
一度部屋に戻って鞄を手にして、玄関へ。靴を履こうとしたところで、見送りのために誠一郎が玄関に顔を出した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。車が多いところもあるから、気を付けるんだよ」
分かったと返事をして、誠一郎の家を出る。壱岐と表札のかかった少し古い家は、かつて晴季の祖父母も住んでいた場所だ。
道端で、ころりと
※ ※ ※
窓際の前から三番目の席で、頬杖をついて窓の外を見る。教室の中では英語の授業が続いているが、どうにも英語というものがうまく頭に入ってくれない。
だから早々に晴季は理解することを放り投げてただ右から左へと聞き流すことに決めたのだ。
ああ、またいる。そんなことを思ってしまうほどには、見慣れたものが窓の外にいた。数年前に新しく建てられた校舎は卒業生である建築家に依頼して設計されたというが、教室の窓は天井から床までと広くて、夏は暑くて冬は寒い。下側は摺りガラスになって嵌め殺しではあるものの、教室の中から外がよく見えた。
その窓の外から髪の長い女生徒が教室を覗き込んでいる。ここは四階、ベランダもない。それでも彼女は首を直角に曲げて、教室を覗き込んでいるのだ。決して首を傾げているわけではなく、かくりと右に曲がった首はそのまま戻らない。
彼女は何かを探すようにして、教室の中を見渡している。足は擦り切れているのか膝から先がなく、ぼんやりと薄れているような様子だ。
かつて屋上から飛び降りた女生徒がいる、などと学校でよくある噂話。その噂話の主かどうかは知らないが、それは本来ならば視えないはずのモノである。
彼女と目が合うよりも先に、晴季は視線を外した。雑霊ならばともかく、人間の形をしている亡霊と目が合うのはぞっとする。視えないふりをして無視をするのが得策だというのが、晴季がこれまでに学んだことだった。
六時間目の授業は一日の終わりということもあって、頭はぼんやりとしていた。教室内を窺えば、うつらうつらと舟をこいでいる人もいる。
チャイムが鳴って、授業が終わる。起立、礼、日本語で言えばいいのにわざわざ英語だ。あとはホームルームを残すだけとなった教室は、ざわざわという声に包まれていく。
「ねえ、一昨日見付かった自殺者の話、聞いた?」
「あ、聞いた聞いた。なんでもあれ、恋人と結婚できないとかで自殺したって話でしょ?」
立ち上がるでもなく、ただ教科書とノートを閉じて鞄の中に突っ込んだ。シャープペンシルと消しゴムを片付けてチャックは閉めたものの、筆箱そのものは何かで使うかもしれないからと机の上に出しっぱなしだ。
担任の先生が入ってきてホームルームが始まったが、別に何のことはない。ただいつも通りの注意事項だとか明日のことだとか、そういう伝達だけで終わる。
ホームルームも終わり、帰りにどこへ行こうだとか部活がどうのだとか、そういう話をすべて聞き流して立ち上がる。そんな楽し気な放課後が羨ましいということもなく、晴季の頭の中にあるのはさっさと帰ろうというそれだけだった。
「
鞄を持って廊下に出て、玄関のところからさあ帰ろうというところで学年主任の先生に捕まった。別に学年主任の先生はそこで待ち構えていたというわけではなく、プリントを運んでいただけらしい。
「なんでしょうか」
「今度の三者面談は」
「叔父が来ます」
「ご両親の帰国は?」
「秋に一時帰国するとは聞いていますが」
晴季が高校に合格すると同時に、父親の海外出張が決まった。母がいなければ生活面という意味で生きていけない父が、母を連れていくことは決定事項だった。けれど晴季は日本を離れる気がなく、そこで助け舟を出してくれたのが母の十五歳年の離れた弟である誠一郎だった、というわけだ。
高校三年の今に至るまで、三者面談はすべて誠一郎が来ている。とはいえ二十八歳の叔父である誠一郎では先生たちも不安があるのか、こうして聞かれることは初めてではない。
ただそれは、晴季に言われても困ることなのだ。両親に無理に帰って来いと言えるはずもない。高校三年生である以上、進路の問題があると分かっていても。
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