一 漕がれ沈みし此河の

一 亡霊不在の谷

 夜半、街灯のない橋の上は真っ暗だった。ぱしゃんと水音がしたのは、魚でも跳ねたからだろう。

 本当は学生を夜に連れ回すものじゃないんだけど、などとぼやきながらも叔父の誠一郎せいいちろう晴季はれきをここに連れてきたのは、どうしても晴季に視て欲しいから、というのが理由だった。

「なんだっけ。自殺?」

「警察は自殺として処理したらしいな。この橋の上から飛び降りた、と。よくもまあこんなとこから飛び降りたと思うが」

 ざあざあと水の音がする。今日はそれほど水量が多いわけではないが、雨になって増水すれば、この辺りはにごった茶色い水が大量に流れていく。

「せっかく台風で潰れた谷が直ったところなのに、ここも災難だね」

 居候している誠一郎の家から車で十五分ほど、山中にある谷は二年前の台風被害からようやく元の姿を取り戻しかけたところだった。

「また、刎木はねぎさんからの依頼?」

「そうだよ。いつものアレだ、ヨウさんからの依頼」

「そっか……じゃあ何か、気になることでもあったのかな」

 ヨウさんこと刎木遥平ようへいは、時折誠一郎のところにこんな依頼を持ってくる。ただこれは警察官である遥平が警察官として持ってきたというのではなく、彼が刎木遥平という個人として、知り合いである誠一郎に頼んでいるだけのものである。

「さて、飛び降りたのは……暗くて読めないな」

「この暗さで、何で手帳の文字が読めると思ったの?」

 誠一郎が胸ポケットから手帳を取り出してページを開いたはいいが、こう暗くては読めるはずもない。困ったような声音に、晴季は思わずため息をついた。

「ハレ、幸せが逃げるぞ?」

「そんなの迷信だよ。それで逃げるような幸せ、こっちから願い下げだもん」

 だいたい『幸せ』なんていうぼんやりしたものが逃げていったって別に何も思わない。

「ほら、これで見える?」

 ポケットから携帯電話を取り出して、ライトをつける。白いライトはやけに明るくて、暗闇に慣れて来ていた目には少々まぶしい。

「お、これはいい。スマホも悪くないなあ」

「いい加減携帯買い替えない? 誠一郎さん、連絡つきづらいよ」

「どうせ持ち歩かないから、買い替えたところで一緒だぞ?」

 などと言いながら、誠一郎は今度こそ手帳を確認する。真っ白なライトに照らされて、手帳の文字が浮かび上がる。相変わらずの几帳面そうな角ばった文字だが、これは誠一郎の書いた文字ではない。

平松ひらまつりょう、二十六歳……俺より若いな。自殺の動機は恋人とのトラブルだと」

 そうなんだ、と、それしか晴季は相槌あいづちを打てなかった。トラブルだなんていう簡単な言葉では、結局何が原因なのかいまいち分からない。

「死因は頭を強く打ったこと。昨日近隣住民が少し下った河原に流れ着いている遺体を発見。この橋に靴が脱いで並べられていたことと、部屋から遺書が見つかっていることから自殺と思われる。だってさ」

「ねえ誠一郎さん、それちゃんと調べた結果? なんか今初めて読みました、みたいな反応なんだけど」

「ちゃんと調べたぞ、スミヨシが」

 ふふん、と誠一郎は胸を張るが、つまり自分では調べていないということを白状したというだけだ。

「またそうやって吉彰よしあき君に丸投げする!」

 住之江すみのえ吉彰であるから、スミヨシ。晴季をハレと呼ぶように誠一郎は何かと人にあだ名をつけたがり、吉彰もまたその例に漏れなかった。

「俺の手伝いをするのが、あいつがうちに居候いそうろうする条件だからな」

「家事全部やってもらうのは、手伝いじゃないの?」

「それは俺に生活能力が皆無だからだな!」

 もう一度、ため息が出た。

 気を取り直して橋の上から川を見てみるが、あまり明確なものは視えてこない。ただうすぼんやりともやのようなものは視えているが、あれは明確な形を持たない雑霊だ。

 けれど、何かが変だ。だから、わずかに眉根を寄せて考えてみる。ここは川原、そして夜。だというのに。

「誠一郎さん、誰もいないよ」

「……おかしいな。平松遼は亡霊になっている可能性がかなり高いと踏んでたんだが」

 誠一郎が晴季の横に並び、彼も川を見る。

 川の様子はそうしたところで変わりはない。橋から見て上流側、鬱蒼うっそうと木々は生い茂っていて、暗がりも多くある。夜に見ると黒々としていて、吸い込まれそうだ。

「ハレ、貸して」

「ほんとにいないよ? 別に、いいけど」

 誠一郎がやりやすいように、はい、と晴季は少し頭を下げる。誠一郎がシャツの胸ポケットから万年筆を取り出して、空中に何かさらさらと文字を書く。薄く発光して消えたその文字の内容は、晴季にはよく分からない。

――」

 そこから一拍置いた後、頭のてっぺんから晴季の眼球にかけてが、一瞬あたたかいものに包まれる。

「できた?」

「ああ。本日も視界良好」

「じゃあ、もう一回視るね」

 もう一度橋から川を眺める。やはりぼんやりとした雑霊たちが漂っているくらいのもので、明確に亡霊という姿のものはない。あの雑霊たちもヒトというよりは、ケモノだろう。

 やはり、何かがおかしい。けれどその答えは掴みかねる。

 ぱちんと誠一郎が指を鳴らすと、ふっと何かが途切れるような揺さぶられるような感覚を覚えた。

「わっ……あのね、誠一郎さん。びっくりするから、言って?」

「あ、悪い。忘れてた」

 借りていた視界を返してくれたはいいが、突然すぎる。自分はそれで良いのかもしれないが、これが魔法使いというものの感覚なのか。

「俺に視る目があればなあ。ハレを夜中に連れ回さなくていいんだけど」

「誠一郎さんも頭にボールぶつけてみる、とか」

「それは遠慮したい」

 それにしても、と、晴季はもう一度川を見てみる。これまでもこうして誠一郎に連れ出されて視界を貸したことはあるが、そういう時は必ず目的の亡霊がいた。だというのに、今回は誰もいない。

 自殺者は亡霊になる可能性が高いというのは誠一郎の持論のようだが、晴季もそこは同意する。

 でもなんだろうか、この違和感は。亡霊がいない、雑霊しかいない。けれど、何かざわざわする。

「……少ない?」

「何か気付いたか?」

 ぽつりと落ちた呟きに、誠一郎が反応する。

 ようやく変の輪郭が掴めた気がする。確かに少ない。それが何が、と言えば。

雑霊ざつれいが、場所の割に少ない気がする」

 ぼんやりとした雑霊たちは、ありとあらゆるところにいる。別に気にかけるような存在でもないし、放っておいても何か害をなすとかそういうこともない、らしい。らしいというのは、結局そんなものは晴季にしか見えないもので、晴季の主観でしかないからだ。

 それはいい。今の問題はこの場所で、その数だ。ここは山中、しかも暗い川べり。

「こういう場所なら、もっといると思う……」

 真昼間ならともかく、今は夜。もっと雑霊がいて当たり前の場所、当たり前の時間、それこそ川を埋め尽くしていたっておかしくはない。

 だというのに。

「台風で潰れたから? 工事が入ったから? それにしてもやっぱり……」

 晴季ではその答えは掴めない。誠一郎も考えてはいるようだが、おそらく答えは出ないだろう。

「ハレ、帰ろう。スミヨシに聞いてみたら答えも出るかもしれないし」

「うん……それが良いと思う」

 視えても詳しくない晴季と、基本的にそういう部分を吉彰に丸投げしている誠一郎の二人では、絶対に文殊の知恵にはならない。船が山に登るだけだと断言できる。

 誠一郎の車の助手席に乗り込んで、シートベルトを締める。走り出した車から後ろを見て、けれどやはりそこには何もなかった。

 暗がりの中で揺れるものすらもない。ではここにいたはずのものは、どこに行ってしまったのだろう。雑霊もそうだが、自殺したという平松遼の亡霊も。もうすでに何も心残りはなく姿を消したというのならばそれで構わないが、自殺という点が引っかかる。

 そこまで考えて、やめよう、と晴季は首を横に振った。多分ここで考え続けても、答えなんて出てくるはずがない。

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