『溺れる羽』2/25:COMITIA147

丹路槇

溺れる羽

 液晶画面に表示しているアプリのタイムラインの上に親指をぴたりと置く。パチンコみたいに一秒、二秒と留め置いてからぱっと放してリロードしても新着に変化はない。最上部にある投稿は無音のショートムービーで、高校生配信者が踊ったりポーズを決めたり、流行りの服を自ら着せ替えしたりしているだけのものだ。使っている整髪料やアクセサリーを真似して身につける級友の顔が思い浮かび、そのビジュアルからスクロールして離れた。外見の補正を周囲が意識すればするほど、自分の関心はあえなく萎んでいく。

 ドリンクホルダーに置かれた白い容器を手持ち無沙汰に持ち上げた。サービスエリアで買ったカフェラテはスチームミルクが側面に貼りついて苦みだけが残るのでもう飲む気にならない。それなのに底に溜まった液体を擦りつけるように振ると、また飲み口に唇を当てていた。嚥下してから後悔するこの行為に何か名前はあるのだろうか。ほとんど空になったスターバックスの紙カップを後部座席の屑籠へ押し込んだ。顔を上げるついでに何気なく車窓へ視線を送る。

 今までに何度も見た下り坂、道沿いには回転寿司店、蕎麦屋、干物センターとやや年季の入った看板が立ち並ぶ。交差点で群青色の歩道橋をくぐると、母はいつもと全く同じ口調で「あと五分でおじいちゃんの家に着くわよ」と言った。何度通っても道順は覚えられなかったが、彼女の刷り込みみたいに告げるこの頃合だけは承知していた。背中を軽くシートから浮かせて無線のイヤホンを片方の耳だけ外す。大きな幹線道路から右折した先に〈学園通り〉の青字の看板が現れ、行き過ぎるまで目で追った。スルガ銀行、ロイヤルホスト、知らない学校、また道路を右折する。細く入り組んだ道を日産ノートがするすると縫うように走った。運転しない父が客先との付き合い云々で自家用車を購入すると言ったのは確か三年前だ。その頃からおそらく何かが始まっていたのだろう。ドアポケットの上に肘を乗せて浅く頬杖をつく。

 祖父の家の前へ着くと、助手席の父が先に降りて電柱のそばへ退避した。母が慣れた手つきでハンドルを切り、隣家の壁と祖父が植木屋で買った立派な松の木の間にぴたりと駐車する。バックモニターをぼんやり眺めながら、この車もいずれ廃車になるのだろうか、などと他人事みたいに思った。

 高速道路を使って三時間半、訪れた静岡県沼津市は俺にとって祖父の家という位置情報だけでほぼ全て完結していた。街並みは住んでいる浦和とほとんど変わらないがいつまでも土地勘みたいなものは一切養われない。行ったことがあるのは表通りの向こうにナイター照明が見える市営野球場とイトーヨーカ堂、沼津駅北口までのほぼ一本道の経路くらいで、他は車移動だから道も碌に知らない。駅南口の図書館に行ったことがあるのは一度きり、西武百貨店はもう無くなったのだという話だけ聞いた気がする。毎年初詣に参拝する三嶋大社が、沼津ではなく隣市にあるということすら一昨年くらい前まで全く認識していなかった。

 そんな有様で、もともとほとんど持ち得ないものを必死で集めながら、何を考えているのかというと、俺は今から再び自宅へ帰り着くまでの半日間、どうにかして祖父の家から遁逃しようと企んでいる。盆休みや正月でもないのに大人ばかりが集まって、テレビも点けずに顔を合わせる、その空気を吸えばどんな味がするかは俺にだって分かった。ここから一刻も早く脱け出さなくては、今日一日が何にも使われず溶けてなくなってしまう。

 来客の気配を察知したのか、玄関から祖父が顔を出して三人を出迎えた。左半身不随の祖母は洗面所の小窓からこちらを覗き、姿を確認するとゆっくりと踵を返した。こつこつと床に杖をつく音が窓から漏れ聞こえる。母が持参した菓子折りと日本酒の紙袋を祖父に渡した。歳を重ねた無骨な手がそれを受け取り、こちらにもその相貌を向ける。

 俺は親類の中で彼だけを怖い人だと思っていた。おそらく幼い頃から帰省のたびに加減なく叱られていたからだろうが、そのおかげで祖父を誠実な人だとも理解していた。

 かける言葉が見つからないので軽く瞬きしてみせる。耳に嵌めていたイヤホンをケースに戻さずポケットへそのままころころと落とした。

「遠いところ、疲れたら。入りな」

 ステンレスの重い扉を抑えながら母に続いて三和土へ上がった。玄関には山登りが趣味の祖父が大事にしている、木枝に止まった雌雄の雉の剥製がある。死んだ目に埋められた硝子玉を見つめながらかかとを踏んで靴を脱いだ。先にスリッパに履き替えた母がゆっくり杖をついている祖母を追い越して居間へ入った。父は一番後に黙ってついてくる。祖父は父に一言も告げない。

 ぞろぞろと大人が居間に並んで立つ間を抜けて台所へ向かう。色あせた木棚に置かれたコーヒーメーカーからはふくふくと蒸気が上がっていた。縁台に続く広い窓からは物干しと大きな庭が見える。半分は祖父が世話をしている畑で、半分は果樹と盆栽だった。時折、枝葉が揺れてがさがさと音を立てている。街でもよく見られる馴染みの野鳥が遊びに来ているのだろう。

 大きな座卓に母が手際よくお茶を出しているところへ、家の呼び鈴が鳴る。同じ敷地の隣家から伯父も来た。俺に気づくと整った笑顔を見せ、「久し振りじゃん」と声をかけられる。

 母の五つ上の兄は父に気づくとふんと軽く鼻で笑っただけだった。父はそれをまるで見聞きしなかったように、仏像みたいにじっと佇んでいる。

 父が抱える巨額の負債が分かったのは夏季休暇の最終日、休日の午後に何をするでもなく家でごろごろしている俺と、録り溜めたドラマを観ていた母へされた、唐突な報告でそれは発覚した。

「今夜、お客さん来るから」

 時間も人数も聞かされていなかった母が慌てて買い出しに出かける。呆然としている俺に父は間抜けにも「今日、塾はないの」と言った。ないに決まってるだろ、と怒鳴って共用のテーブルからタブレットを持ち出して自室へ逃げ込む。昼間にエアコンで冷やしていなかった六畳の洋室はしばらくは飽和した熱気で重苦しく、だらだらと汗が出た。

 父が客人と言ったスーツ姿の男ふたりは彼が長年勤める会社の重役で、どちらもかつての父の部下だった。彼等から話を聞けば、今まで数回にわたって相当額の会社の資金を使い込んでいたらしかった。家を買うくらいでは済まされない着服金について、男ふたりは揃って頭を下げ、どうか半分でいいから返済してほしい、と願い出たのを耳にしている。在職当時の功績を鑑みての温情が多分に含まれていたが、それでも当然、この家にそれを滞りなく返済するあてがあるわけがなかった。

 その夜、母はひたすら父に代わって深く叩頭して謝罪を繰り返した。当人はやはり一言も話をしていない。

 唐突な訪問から数日も経たず、一同が沼津で顔を合わせる日取りが決まった。これから早々に、座卓を囲んで祖父と伯父による訴追と両親の離婚の話がされるのだろう。連れてこられたが俺には席の与えられない議場だった。それに怒り何かを訴えるのも、はじめからいないふりをして部屋の片隅にいるのもどちらも最低に居心地が悪い。

 家族の問題に無関心というわけではなかった。良くも悪くも、自分が何か言ったところでどうにかなるわけでもないのを知っているだけだ。おそらくこのまま話が進めば自然な成り行きで親権が母親に渡るがそれにも何の不満もない。父は家庭で生活するのがそもそもあまり向いていない人だ。盗んだ金の使途は本人によって黙秘されていたが、母の憶測を信じれば、別のところに女性がいたと考えればそれなりに納得できる。

 座卓に人が埋まるより先に立ち上がって台所の方へ向かう。ダイニングテーブルにひとり腰掛ける足の悪い祖母が「黎ちゃん、大きくなったじゃあ」と子どもみたいに笑った。

「今、百七十センチ」

「へえ、上等、じいちゃんみたいな好い男になるら」

 そばにいた祖父の顔を見やったが彼は長く伸びた眉毛を微かに動かしただけだった。こちらもそのまま早口で「出かけてくる」と告げる。

「どこ行く?」

「ヨーカ堂。買ってきてほしいものある?」

 無骨な指が結ばれた拳がとんとテーブルについた。前へ屈んだ皺のない綿シャツの背を眺めていると、また上体を起こした祖父に五千円札と電気店のロゴが入ったエコバッグを渡される。

「何も。持ってきな」

 座卓ではさっそく母と伯父が低い声で話をし始めていた。その様子をちらと窺ってから差し出された手から現金と袋を黙って受け取る。米櫃と冷蔵庫の隙間にかかる木の数珠カーテンからそっと台所を退出し、玄関へ向かった。

「あ、こら、黎」

 母がドアから廊下へ飛び出てくる前に玄関から靴を引っ掴み、くるりと踵を返すとすぐさま客間へ走る。明かりを点けないまま座敷を大股に歩き、奥の障子を開けサッシ窓の鍵を上げると、投げ出した靴に足を突っ込み、前のめりに駆け出した。表通りの側溝の蓋を鳴らしながら角の交差点まで一気に走る。駅北ベーカリーの前の赤信号を無視して横断歩道を幅跳びみたいに渡った。そのまま路地へ走り込み、聞こえるのが自分の足音だけになったのを確認してから大きく息をつく。

 

 貰った紙幣とエコバッグをパーカーのポケットに入れて、心許ない記憶のまま住宅地をゆっくり歩いた。路地をクランクに抜けると遠くに別の大通りが見える。左手に見える看板は予備校、その並びに和菓子屋があって、道沿いに二ブロック進むと、ヨーカ堂の専用駐車場とバス停が見える。

 田舎町の量販店は日曜の昼過ぎでも閑散としていた。専門店街の入り口を見つけて店舗リストの案内板を眺める。ゲームセンターに行く気分にはならず、腹も減っていないのに致し方なくマクドナルドを目指した。飲み物と座れる場所があれば良いのだ。少なくともしばらくは、ここで暇を持て余している方が祖父の家で縮こまっているよりはずっとましに違いなかった。

 店頭のひとつしか開けられていないレジの前に立つ。ドライブスルーの対応が終わった店員が小走りにやってきて注文を聞かれた。待っていた割に何も算段を立てていなくて、咄嗟にコーヒーとアップルパイを指さす。中学に入る前からブラックを飲めるようになっていたからそっちはいいが、思いつきで頼んだ食べ物の方は失敗だったかもしれない。猫舌なのにせっかちな性分のせいでいつも口の中を火傷するから、むこう数日その不快感と付き合わなくてはいけないのだった。冷ましてから食べればいい、分かっているのに結局は急いて口に運んでしまうのを、母はいつも父の悪癖が遺伝したと俺を憐れみの目で見ていた。

 もしかしたら、それが今後、憎き男の残像みたいに見えて、彼女は俺を嫌いになるかもしれない。この年になって女親に厭われるなんて何とも思わなかったけれど、血縁としてそれは少し気の毒だなと母に同情した。父によほど明解な申し開きがなければ、今度の離婚話はどう考えても会社の資金に手を着けた泥棒男がただ悪いという話になる。債務が妻と子に及ばないように、縁も関係も綺麗に片づけてくれ、というのが今日の顔合わせの主意だろう。病身の祖母はわんわん泣くかもしれない。伯父が怒鳴るところ、祖父が黙って拳を振るところ、伏したまま何も抗わない父、夢想は鮮明に投影されたが、そんな映画か劇の台本みたいなこと、実際起こるわけがないという冷めた感情が強引にその再生を打ち切った。

 会計は祖父の現金ではなくスマホに登録してあるICカードで済ませる。トレーの上に乗せられた商品に軽く視線を落とし、空いているカウンター席の端に決めて腰を下ろした。

 カップの蓋に空いた飲み口のタブを押し上げ、窪みに嵌め込んで固定する。狭い隙間にふっふっと薄く吐息をかけながら、それでも待てずに少しずつ表層を啜る。適度に軽くて飲みやすい、ちゃんと香りも感じる値段相応に美味いコーヒーだった。どこへ行ってもマクドナルドはマクドナルドの役割を果たして偉いな、と何様か分からないことを思いながら、ポケットから端末を取り出した。家から車移動の道中ずっと使っているスマートフォンの電池は既に四十パーセントまで減っている。SNSの更新を期待する時間潰しにはもう食傷してしまっていたので、さっきとは別のアプリを起動した。

 原色が縞模様に混ざった雫型のロゴをタップする。パレットのバーとキャンバスの設定画面を非表示にすると長方形の白紙が出現した。二本指でワイプして表示倍率を調整してから、人差し指をすっと画面の上に走らせる。直感的に描画された輪郭は、祖父の家の三和土を見下ろす雌雄の雉だった。大まかなふたつの位置関係を作ってから、メニューでレイヤーを追加して、その上層に細い線でさらに端々まで線画を描き込んでいく。

 絵を描くのは物心がついたころからずっと好きだった。当時賃貸マンションだった家の壁を大胆にキャンバスにしてクレヨンやマーカーで彩った時、母にこっぴどく叱られた記憶からそれは始まる。外遊びが盛んな保育園に通園していたのに部屋で絵を描いてばかりだった子どものことを、両親は多少の心配を抱きつつ見守っていたのかもしれない。小学校になって人並みに運動もするし友人を作るようになった俺を見て、ふたりが少なからず安堵している様子も察せられた。それから顔色を窺うように、絵を描く遊びは隠れてするようになっていた。

 今は端末の画面上で、好きな時に好きなところまで絵が描けるから便利だ。気に入らなければリセットできるし、途中で保存もきく。どれだけ時間をおいても同じところから描画を再開できる。描いた絵はすぐに登録したアカウントからSNSに投稿して、データはローカルのフォルダから削除していた。フォロワーのいない静かな時系列に、自分の描いた作品を並べるという暇つぶしを、もうずいぶん長い間続けている。

 画面をピンチして拡大する。雄雉の目元の線画を進めていく。ペンのピクセル数を最小にする。ただ解像度が足りなくて、ここでは瞼の輪郭がドット絵のように見えた。無数の正方形の群生に散った曲線を何度かバックとリドゥーを行き来して描き直し、徐々に頭部の形を整えていく。

 雌雉の顔を忘れてしまい、なんとなく形にはしてみるが雷鳥みたいな見た目になってしまった。雉の雌は雄と全く別種に見える容姿が特徴で、雄の顔を覆う肉冠が雌にはない。雌の目の下には太い白地のラインが入り、腹部は斑点に覆われていた。翼を緩く開いて雄に頭を向けている祖父の家の剥製を思い起こす。折り畳まれた脚の向きと配置の記憶を探るために目を閉じた。トレーの隅に上部を乗せ傾きを作っていた端末がことんと落ちてカウンターテーブルに対して水平になる。画面に触れたまま残っていた指先が歪な線を描いた。薄目を開けて親指でバックボタンを押す。次に液晶画面へ指が触れるより先に、突然、ぐいと肩を後ろへ引かれる。

「あっ」

 力を加えた方の人間が、椅子からひっくり返りそうな俺の顔を見ると驚きの声を上げた。咄嗟に尻を浮かせて軽く立ち上がり、振られた上体の重心を元に戻す。支えに掴もうとしたトレーは思いの外軽くて、がたんと大きな音を立てるとコーヒーを少しこぼして前方へずれた。普段は諍いから離れて遠巻きにやり過ごす性分だが、見知らぬ場所でひとりでいたからか、反射で掴まれた手を振り落とし睨み上げる。立って対峙すると相手は俺より上背があった。髪と眉の毛量が多く明るい茶色をしていて、襟足は無造作に伸びて縮れている。濃緑のジャージにはプーマのモチーフ入り。地元の高校生だろうか、俺を友人か誰かと勘違いして声をかけたら人違い、などではなさそうだ。閑散とした広い店内で、なぜわざわざカウンター席に。苛立ってさらに眉間に皺を寄せると、相手はぱっと手を上げて半歩退がる。

「てっきり具合が悪いのかと。悪いね、邪魔した」

 言われてみれば確かに、テーブルに突っ伏して額を擦り付けるように端末へ寄せている姿は、不調に耐えているのか仮眠を取るような恰好に見えるのだと思った。こちらが黙っていると詫びが受け入れられたと捉えたのか、ジャージ男はそのまま手元の書籍をばさばさと隣席のテーブルに置いた。背もたれのない丸椅子の上に鞄を乗せ、財布片手にレジへ歩いていく。

 背中を見送りながら、テーブルに乱雑に放り出された本の背表紙を覗き込んだ。英文法、図形と文章題、一問一答、どれも参考書だ。受験対策なのか、百日総復習とか難関攻略とか煽り文句が躍っている。自分のまわりでは各運動部で新人戦が始まっている頃で、その地方大会が忙しくて頭の中は定期試験どころではなかった。高校に進学する、そのために受験勉強に勤しむなど遥か先の話のように思える。

 ストローを挿した紙カップと包装されたバーガーを手に持って戻った癖毛の男は、俺が不躾にじろじろと見ていた参考書を一瞥してからにやっと笑った。

「懐かしい?」

「ううん、まだ習ってない」

 僅かな躊躇いもあったが、他人にいきなり話しかけてくる輩に配慮する必要はないと思い直し、敬語を使うのはやめておく。答えながらきょろきょろと辺りを見回した。こんなことならはじめからテーブル席をひとつ使ってしまっていればよかった。足を伸ばしたり寝転んだりしたいわけではないが、何が楽しくて休日に宿題男の隣で肩を縮めながらスマホを弄る時間を過ごさないといけないというのだろう。

 立ち上がろうと液晶画面を一度暗転させた時、ジャージを捲った腕がどんとぞんざいにドリンクをテーブルに置く。やや慌てているのか、ストローの先からぴゅっと飛沫が漏れたのにも反応しない。

「え、中学生? 今日、県学調だら? 申し込めって言われなかった?」

 ケンガクチョウ、なんて変な鳥の名前みたいな何かはもちろん聞いたことがなかった。申し込みと言っていたから検定か、一斉学力試験のようなものを想像して、「……北辰テストみたいなやつ?」と聞き返す。

「ホクシン?」

 すると今度は相手が渡り鳥の一種みたいな言い様でおうむ返しにしてくる。とりあえずケンガクチョウよりは強そうな名前で良かった、などと心底どうでもいいことを思った。ただこの全く落ち着きのない男だって、今はケンガクチョウとやらを受験しに行っていないわけで、むしろ客の少ないこのバーガー屋に狙って来店したのだから、きっとどこかの中学生の面倒をみる用があるということなのだろう。その証拠に、どうやらこれからここで参考書漁りでも始めるつもりらしい。

 興味はなかったはずなのに、コーヒーに口をつけながら、俺はしばらくその参考書が乱雑に積まれた隣席のテーブルをぼんやり見つめていた。流れ込む濃茶の液体はすっかりぬるくなっている。今ならアップルパイを齧っても中のとろみで深刻な火傷をすることはなさそうだ、しかしあまりにも無警戒はいけない。

 焦点がやや甘い視線の合間に割って入って、ジャージ男はずいとこちらへ顔を寄せてくる。ぎょっとして身を引くと、変わり者はその反応まで面白そうにぱっと笑った。

「おかしなやつ。休みの日に、部活も塾も行かないで、マックでコーヒー飲むの? 僕、そんな中学生知らないよ」

 見知らぬ男に無邪気に告げられると、なんだか途端に自分が惨めな生き物に思えた。なんでもない一般家庭に生まれ育ち、小学校から公立校で淡々と進級、進学してきて、きっと高校受験もクラスの面々と似たり寄ったりなところを受ける。その先のことは今は何も考えていなくても許された。父親が勤め先から金を盗んだ人だとつい最近まで知らなかったし、これからいつまでどれほど生活が困窮するのか、想像もつかなかった。今いる浦和の家には住めなくなるのかもしれない。母は俺を連れ、祖父や伯父を頼って沼津へ身を寄せるつもりだろうか。二年の冬に不自然な真新しい制服を着て転校生になる。伯父のところにいる同年代の従兄弟たちともうまくやっていかなくてはいけない。否、そんな大人の都合みたいなもの、押し付けられるままに甘んじて受ける気なんてなかった。祖父は賢明な人だが俺ひとりだけの味方になってはくれまい。

 一瞬で悲観に暮れた視界にじんわりと涙が滲んで広がる。情けない、悔しい、俺じゃない誰かを責めてくれ、悪い大人め、汚い連中め。しかしやはりあの場から逃げてきた自分が最もだめな人間なのだと思うと、やる瀬なくなり泣き止むことができなくなった。

「なんだ、どこか痛い? 無理してたろ、落ち着きな、ほら」

 狼狽えながら腹でも下したのかと尋ねられ、何も言えないまま首を横に振る。嗚咽を殺して身震いする俺に差し出されたのは、どこに入っていたのか分からない、ぐちゃぐちゃに皺が重なったミニタオルだった。臭そうだなと思ったのに無碍にもできずとりあえず二本指で端をそっとつまむ。ジャージ男に「失礼なやつ」と笑われて、ようやく涙が引っ込んでなくなった。

 

 沼津から自宅までの帰路、助手席に父の姿はない。母が言うには、この足で富士にいる父方の親戚に金をいくらか貸してくれないかと頼みに行きたいと告げてひとり祖父の家を出たらしかった。今の俺にはそれすら彼が息抜きの時間を確保するためについたつまらない嘘としか思えず、もしその用向きが本当に無実潔白だったとしても、芯からどうでもよかった。

 代わりに運転席の隣に座り、コンポの下にあるシガーソケットで充電をしているスマホを気もそぞろで見ている。そんなに見続けて車酔いしないかとか、疲れただろうから少しは寝ていればいいとかぶつぶつと小言をこぼされたが、母親にかけられた言葉に応答する思考の余白は今はほとんど残っていない。

 メッセージアプリに連絡がきていた。セザキと書かれたアカウント名を遮るように〈お友だち以外のユーザーからのメッセージです。承認しますか?〉と忠告が出ている。アイコンの写真は海か空か分からない青色だった。申請を承認する、とボタンを押すと、すぐに隠れていたフキダシが浮かび上がった。

《もう家に着いた?》

 確かにこれが先のマクドナルド男だと認識すると、密かに肩の力を抜く。高速道路を運転している母がちらと一瞬こちらへ視線を送り、「何、にやにやして。気持ち悪い」と言った。

《着くわけない。まだ厚木》

《ちゃんと返事できるじゃん。暇なら絵でも描きながら帰りな》

 走行中の車は手元の描画がほとんどできないくらい揺れるのを、実際にやってみたことがある人間しか知らないのだろう。細かい説明は抜きに、ただ《やらないけど》とだけ返す。

 結局、セザキは俺の店内滞在時間いっぱいまでずっとカウンター席に座っていた。泣き止んで飲み物を注文し直し、電池が尽きる寸前のスマートフォンで雉の絵を仕上げるまでの一部始終を隣で観察されている。

 何が楽しくてそうしているのか、退屈ではないのかと問いただすと、男はあっさりと「いつもやってるからね」と答えた。

「塾講師してるの。そんな難しいことは教えられないけど。きみの面倒くらいなら見られるで」

 その塾は個別指導専門の教室で、セザキみたいな大学生が数人、アルバイト講師をしているらしい。難関校狙いというよりも通常授業から脱落しないためのサポート役として生徒の指導をしているそうだが、シフトの無い日にも授業の準備をしようとしているあたり、好きな仕事を選んでいるということが窺えた。

 父も好きな職を選んで勤めることができて幸せだと、いつか母に話していた場面がぱっと浮かぶ。彼は別段、人に先生と敬われたり、代わりがいないような専門的な仕事をしていたというわけではない。ただ、学生時代から憧れていた出版業界の、本の奥付に社名が書かれるような印刷会社に就職して長かった。ふたりの重役が訪ねてきた時、本当に口惜しそうな顔をしながら、父が会社に寄与した積年の功績に感謝したい、などと言っていたのを耳にしている。語られた回想は飾り立てのない本音だったと信じたいが、それであればなおのこと、あの人はなぜ、全てを無為にするような心疚しい事を繰り返していたのか。

 画面から顔を上げると必ずセザキと目が合った。作業は区切りが良いのか、何か困ったことでもあったのかと、本当に授業中みたいにこちらの様子を見逃すまいと注視されているのが分かる。「電池切れそう」と試しに声に出してみると、些末な問題だとでも言うように軽く首を傾げ、鞄からコードとアダプターを取り出した。カウンターについているコンセントに挿すと、コードの口をこちらに差し出してよこす。

「端子、別だったら買ってくるけど。あってる?」

「変すぎるだろ、あんたいつもこうなの、教室とか」

 顔をしかめながら男の手からだらりと垂れた端子を受け取った。まだ泣き痕が残っているのか、視線は俺の鼻面まで下りてからわずかに細められる。

「ああ、他の生徒にもこうかって? まさか。お給料もらってるしなぁ。後からこっちに何か見返り取られないかって心配してる?」

「してないけど」

「僕は瀬崎晧介っていう」

「はあ」

「きみも教えて。僕に教えられる名前でいいよ。あだ名でもなんでも」

 少し考えれば当然のことだが、セザキという男にとって自分は弱く幼いもので、教え導いてやらねばなどと思われているのがどうにも腹立たしかった。本当のはじめの時には俺を中学生だということも気づかなかったくせに、後付けの大人面はまるきり余計だ。彼の何気ない言葉から悔しくなって泣いたのも更に分が悪かった。その上ハンデつきの取引に甘んじるつもりはない。

 別に他人に知られても怖くも恥ずかしくもないと居直って、「黎」とそのまま名前を告げる。セザキは目を大きく見開いた。驚いた顔をすると随分前に死んでしまった飼い犬と目がよく似ているなと不躾にも新鮮な気持ちになる。

「レイ? いいなぁ、かっこいい名前もらって」

  人懐こい声でそう言われて、俺に名をくれた連中のことでいつまで逡巡しているのがひどくばからしく思えた。金の工面も、離別も引っ越しも、この先強いられるかもしれない窮屈で不自由な生活も、全部大人だけで勝手にもがいてろ、と置き捨ててしまいたくなる。

 なんとなく俺がすっきりしているのを察したのか、ジャージ男セザキはややはしゃいだ様子でポケットから自分の端末を取り出してみせた。

「僕さ、毎週何十人も中学生に授業教えてて、そんな子いくらでも見てるのに、おかしいら? レイくんとはまた遊びたい。もう会えないかもなぁ、じいちゃんの家に来るの、次は年の暮れ?」

 分からない、と小声で返しながら、申し出に応じて画面に表示させた二次元コードを差し出す。日常から脱した不思議な時間が、このやりとりで急激に凡庸で味の無いものになるようなわだかまりも同時に湧いた。学校と習い事や塾以外で、外で会った人と連絡先を交換することが今までなかったから、曖昧になる境界に感じた違和感なのかもしれない。

 マクドナルドでコーヒーを飲み始めてからほぼ半日が経過していた。ヨーカ堂の入口の自動ドアで刺すような斜陽を浴びて気後れしながら、またおぼつかない記憶をなぞって祖父の家へ戻る。

 父は去り、伯父はもう自邸へ帰っていた。使わなかった五千円札を返そうと祖父のところへ行くと固辞されて、そのまま小遣いになってしまった。祖母は舞台女優のような語調で、俺が居なくなるのが寂しい、今日くらい泊まっていけばいいのに、と口にする。翌日からまた学校があるのを一瞬忘れて、たまにはそれも悪くないなと思っていたが、苛立った母が強引にノートのエンジンをかけたので慌てて助手席に潜り込む。

 東名高速道路の用賀インターから首都高5号線で自宅付近へ着いたのは午後八時過ぎだった。バイパス道路を走りながら、母から晩ご飯はマックでいいかと提案されたので、それは勘弁してくれと咄嗟に首を振ってしまう。

「やっぱり。ヨーカ堂にでも行ってるかなと思った。リコー通りのケンタッキーかどっちかかと思ったけど」

「それは何処」

「ほらね。本当に黎は道を覚えない」

 もう諦めましたとでも言いたげなため息を受け流して手元に視線を戻す。既に会話が終わっているメッセージアプリの数回往復しただけの短いやりとりを上から順に何度も読み返した。

 普段の生活とは交わらない不自然な接触だった。次があったとしても、そう簡単には会えないだろう。それまでに記憶もスレッドもどこかへ埋もれてゆき、あっさりと忘れられてしまうかもしれない。

 ふと、パーカーのポケットに祖父から預かった電気屋のエコバッグをそのまま入れてきてしまったことを思い出して左手を突っ込んだ。するとその手前にしわくちゃのミニタオルが一緒になってぞんざいに詰め込まれていた。紅白の市松模様というなんともセンスの無い絵柄の端にタグが付いており、俺でも知っている大学の英語名称が綴られている。

 運転中の母に見咎められる前に慌ててそれをポケットに押し戻した。心なしか鼓動が速く大きくなる。

 

 父が失踪した。蒸発した、と表現するのとどちらが正しいのだろうか。

 沼津の祖父の家で話し合いをして以来、父は平日もほとんど毎日家で過ごしていた。それより前に会社を辞めたのだということはすぐに理解した。四十過ぎの男が、長く勤めたところから追い出され、自分で作った借金を返すのに働くあてがどれほどあるのか、俺には推測し難かった。かつて近所で遊んでいた顔見知りの高校生が今は駅前のコンビニでバイトをしていて、彼がタメ口で話しかけていた別の店員は父と同じくらいの歳の男性だったことを思い出す。その父もいずれ同じような境遇を辿るのだろうか。だとすれば確かに今の家から少し離れて暮らす方がいくらか都合がいいだろうな、と母の顔色を窺った気がする。

 父が出て行った日、俺は定期試験前に塾で組まれた補習に出ていて家にはいなかった。水曜の夜九時に、夕食を摂ってから急にこれから外出する、と言った父の言動は異様だっただろう。これまでの一連のことでほとんど取り乱さなかった母も、その時はどうにかして引き留めようと何度も食い下がっている。女の勘なのか、それは確かに当たっていた。

「学生時代に仙台で世話になった古い友人がいる。二百万くらいは貸してくれるよ。それをしばらくの生活に充ててほしい」

 一週間ほどで帰るからと押し切られ、ビジネスバッグひとつで出かけて行ったらしい。夜は肌寒くなってきていたが、上着も羽織っていなかった。

 無論、父は翌週も、月が変わっても戻ってこなかった。まるで今も毎日仕事へ行く父を送り出して自分の務めを果たしているように振る舞う母に、ある休日の午後脈絡なく、俺はこれから何をすればいい、と尋ねた。

 声をかけると彼女は驚いて手に持っていた手帳を落とした。テーブルの上にばさっと音を立てたそれには、主に家計簿代わりの出納が書かれていたが、月間スケジュールの方には父についての記録もされている。何日に会社から電話が来る、旧知の連絡先が判明した、父方の祖母からメール、など。そのどの情報ももうあてにしてはいけないことを俺たちはよく承知していた。

「沼津へ行く? まだ引越しはしないよ。あともう一週間、ううん、半月くらいは、ここで待ちたい」

 そう言われて黙って拳を握った。この中途半端に何もしない時間が心底意味のないものに思えて嫌だった。大人は常にしり込みして、答えをその場で出すのを躊躇ってばかりだ。気の毒だとか仕方がないとか可哀想だとか言って、決断する最速の瞬間をいつも当然に見送っていく。

 覚悟して、ひとりで沼津へ行きたい、と絞り出した。何がしたいわけではない、祖父たちと顔を合わせても話すことも特になかった。伯父には会いたくもない。道も相変わらずほとんど記憶していないが、地図アプリを使えばなんとかなるだろう。数年間手をつけていないお年玉の袋が引き出しに溜まっていた。ロマンスカーでも新幹線でも、往復するくらいなら事足りる。

 父が姿を消して臆病になったかと思えば、母は普段とさほど変わらない反応をしただけだった。

「また、何企んでるか知らないけど。日帰りにしときなさいよ」

 どうやら切符の面倒は見てくれるようだ。機嫌を取るようにフローリングにワイパーをかけたり洗濯物を取り込んだり少々の家事をしてから、そそくさと自室へ引っ込む。

 あれから徐々に疎らになっていたセザキとの連絡は、父がいなくなったあたりから半月以上途絶えたままだった。はじめの日にマクドナルドで突然肩を掴まれてから過ごした時間に感じた独特の昂揚は冷めてしまっているように思えた。さすがにトークの履歴を見れば俺が誰なのかは思い出されるだろうが、塾講師をしている大学生にとれば他のたくさんいる生徒と同じなにかの集合に埋もれた欠片にすぎず、その一粒だけが特別に見えているわけではない。

 そこまで自分の期待を削いでおいて、それでも連絡をせずにはいられなかった。たった一行のメッセージを打って読み返す前に消し、むしゃくしゃして画面の灯りも消し、またすぐ元の画面へ戻ってキーボードに指を乗せ、もう何かが送信されれば文字によって伝える意味などどうでもよくなり、最後は投げやりに送信ボタンを押す。

《土曜日、そっち行く》

 送られたフキダシは画面の右下にぺたりと貼りつき、それからしばらく動かなくなった。液晶画面を点けたままポケットにしまい、スクールバッグから問題集とペンケースを引っ張り出して机の上に投げ出す。乱暴に掴んだ椅子をがたんと床に置き直してどかっと腰を下ろすとぐしゃぐしゃと頭を掻きむしった。痒みではないその疼きに、喉元も腹も膝の裏もめちゃくちゃに爪を立てて表皮に傷を入れたくなっていた。宿題も試験勉強も嫌いではないから今までそこそこ順当にやってきたが、今度の中間試験は惨憺たる結果がもう目に見えている。災厄の根源だと思っていた父が消えたせいか、母が毎日疲れた顔を見せるようになったからなのか、祖父の玄関にある雉の絵がまだ描きあがっていないからなのか。

 いたたまれなくなってポケットに手を突っ込み、端末の脇にあるボタンを長押しした。絶ってしまえば静かなものだ。浅くなった息が少しずつ落ち着いていく。

 椅子に掛け直してルーズリーフを挟んだままの問題集を開いた。関数の文章題が書かれたページで、設問を簡単に写し取ってから式を立てる。途中式で間違えたのを見つけた時、隣の生徒に何と声をかけるのだろう。解き終えればその場で採点をするのだろうか。宿題を忘れた生徒を叱ることは。

 続きを書こうとして繰り出したシャーペンの芯がひょいと頭を屈めるように引っ込んだ。またかちかちとノックしても同じ丈までしか出てこない。次の芯が嵌れば後から突き出してくれるはずだと振りながらがつがつとキャップを押しても短い丈はなかなか伸びてこなかった。まるでここまでしかできないだろうと言われているみたいに思える。

 どうして俺は未だ中学生をやらなくてはならないのだろう。気ままに家を飛び出し、独りで生きるとさすらい、良いと思うところへ留まっていてはなぜいけないのか。

 しがらみから解かれて家から遁逃して過去を全て忘れ生きていくのであろう父が羨ましかった。そんな父を選んでしまった母は気の毒だが、将来自分は彼らと同じ轍を踏まないと心に誓っていた。

 それでいて、誰かの声を聞いて安心したくなる己の心情は理解しがたいものがあった。不意に胸が熱くなる感覚、同時にどこからか飛び降りて無残に粉砕してしまいたい衝動はどこから湧くのか、それを押し込めながら問題と回答に向き合う時間はどれほどの意義があるのか。

 くすぶっている汚い部分を今すぐにでも暴かれて楽になりたかった。そのためならば俺は今だけ返事を待っていいだろう。

 導かれた答えが正しいかを確かめる前に書き込んだルーズリーフを丸めて屑籠へ捨てた。一ページも進まなかった問題集を閉じて机の端に追いやる。コンセントに挿さったままのケーブルを手繰って、ポケットの中から取り出したスマホを起動させて繋いだ。黒い画面に浮かぶロゴマークを見下ろしながら、それが再び消えるまでのたった数秒を、息を忘れ身じろぎもせずにじっと待つ。


(後略)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『溺れる羽』2/25:COMITIA147 丹路槇 @niro_maki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ