Re:01 Relight

 春休み、私達は、昴夜の家で昼間から餃子パーティーを開いた。


「ゲ、降りだしたな」


 夕方、餃子後のアイスを食べていたとき、庭先を見た侑生がしかめっ面をした。侑生は、帰りにそのまま新幹線の駅へ向かい、岡山のお母さんの家に遊びに行く予定だった。


「強くなる前に駅向かうか」

「あーそっか、侑生、いまから新幹線か。てか臭いテロじゃん?」

「ブレスケアって駅の売店にあるっけ」

「餃子ってそんなに臭いする? 近づかないと分からないんじゃないの?」

「くんくん」昴夜が犬のように侑生に顔を寄せた。


「近付くんじゃねえよ気持ち悪い」侑生はその顔を乱暴に押し戻す。


「ひどい、お陰で分かんなかった」

「餃子食べてる人同士じゃ分からないでしょ。ニンニクチップかじったわけじゃないし、そんなに気にしないでいいと思うけどな」


 かくいう私も、そっと口を手で覆って、臭いを確認する。侑生と昴夜の目の前でニンニクの臭いをさせているとしたら、年頃の女子としてどうなのか。でもやっぱり分からなかった。


「つーわけで、俺は帰る」

「あ、じゃあ私も」

「えー、まだいてくれてもいいじゃーん」

「今日は夜に用事あるって言ったじゃん」


 時刻は午後五時半過ぎ。まだかなり余裕はあるけれど、ギリギリになりたくなかった。


 今日は、過去でお祖母ちゃんが倒れた日だった。


「侑生、雨が強くなる前に出るなら片付けは引き受けるよ」

「そんくらいの余裕はあると思うけど」


 私がティシャツの袖を捲るのと同じように、侑生もシャツの袖を捲る。昴夜はアイスのスプーンを咥えたまま空のカップをキッチンへ持って行った。


「あー、フライパン浸けとくの忘れてた」

「ほら、ああいうこと言ってるし」

「ああいうこととか言わないで!」

「皿だけ洗ってくよ」


 溜息交じりに、侑生がキッチンに立った。その隣に立って、洗ったお皿を受け取って拭いて「ここに置いていい?」「いいよー」と流れ作業で片づけをこなした。


 リュックを左肩に引っ掛けた侑生は、玄関を開け、本降りになっている外にしかめ面をした。


「最悪」

「傘貸す?」

「ある。んじゃ悪い、先帰る」


 岡山に置いてくるためなのか、侑生はらしくないビニール傘をさした。


 振り返った侑生と、意味深に目が合った。


「……じゃ、また春休み明けにな」

「うん。じゃあね」

「ばいばーい」


 ガラガラと引き戸の音を立てて、侑生は帰ってしまった。


 今日という日には、ほんの少し、過去とのズレがある。過去では侑生と円満な別れ方をしなかったせいもあるけれど、お祖母ちゃんが倒れた日、侑生は既に岡山に旅立っていて、こんな風に昴夜の家に集まってはいなかった。


 ということは、お祖母ちゃんが倒れるのも今日の八時過ぎではなくなっているのだろうか。そうだとしたら、しばらくは必ず夜七時頃までに帰宅するようにしなければ。


 侑生を見送ってほんの十数分後、私も靴を履く。


「あー、待って、俺も一緒に駅行く」

「なんで、見送りならいいよ」

「ううん、DVD返すの」


 昴夜が一度居間に戻った後、二人で揃って家を出た。雨はまた少し酷くなっていた。せっかく咲き始めた桜がこれで少し散ってしまうのだろう。


「なに借りたの?」

「バックトゥーザフューチャー」

「え、懐かしい」


 思わず口走ってしまったけれど、あれは一九八五年のアメリカ映画、二〇〇七年時点で既に懐かしい映画のはずだ。現に昴夜は微塵も怪訝な顔をせず「でしょ、なんかたまに見たくなるんだよね」と頷いただけだった。


「こどもの頃はぼけーっと面白いなとしか思ってなかったんだけど、いま見ると色々発見あるんだよね。これがタイムトラベルの王道かーって」

「タイムトラベルの王道?」

「うん。見たことあるよね、冴えない主人公がタイムトラベルでうっかり過去に行って、同い年くらいの冴えないヤツがいると思ったら実は自分の父親でってやつ」

「覚えてる覚えてる。しかもうっかり自分の母親に惚れられちゃって、そのせいで両親の結婚がなかったことになるから、主人公の体の一部が消えかける……」


 昔見たきりなのに、我ながらよく覚えているものだ。話しながら、頭の中には映画の映像が浮かんだ。


「そう、“両親が結婚する”って未来を変えようとすると主人公が消えちゃうんだよ。だから途中からは両親を良いムードにするために奮闘するんだよね。で、無事に両親がくっついて、主人公も消えずに済んで、未来にも戻れてハッピーエンド」

「昴夜のいう王道っていうのは、現在の自分の存在を否定するような過去の改変が許されないってこと?」


 まさしく、いまの私だってそうだ。現在の私の存在の否定とまではいかなくとも、私と昴夜の関係の根本を覆すような改変は許されていない。


 しかし、昴夜は「ん、それも含めてなんだけど」と少し首を傾けた。


「あれ、過去の主人公の行動でちょっとだけ未来が変わるじゃん。父親は売れっ子小説家になって家は裕福になってるし、父親をパシッてたヤツは父親のパシリになってるし、あと博士も命が助かるし。だから、過去に戻っても変えられない未来はあるけど、主人公の行動は無駄だったわけじゃないってとこがいいなーって」

「無駄だったわけじゃない、か……」


 結局未来が変わらないのなら、過去に存在しないはずの自分がいたところで、それは過去をいたずらに引っ掻き回して終わるだけではないのか。そんな徒労感を否定してくれる結末。


 過去に戻ってきた私に、未来を変えることはできていない。過去を引っ掻き回したとまでは思っていないけれど、私が侑生に余計な負担をかけたのは事実だ。


 でも、私のタイムトラベルも、まったくの無駄だったわけではないのだろうか。過去よりも、私と侑生は良い別れ方をしただろうか。過去に侑生が昴夜を殴ったことなんてなかったけれど、あのお陰で二人の間には一層蟠りが残らずに済んだだとか、そんな風に変わっているだろうか。今日も、過去にはなかったイベントだけれど、私達の未来の心に繋がるような、楽しい思い出を積み重ねることができただろうか。


 電車に乗って、二人で並んで座った。昴夜と並んで座るのは、修学旅行以来かもしれない。


「英凜は、タイムトラベルしたいなーって思う? 映画みたいにさ、変わんないって決まってる未来があっても」

「……思う」


 未来を変えられないなら、過去に戻った意味なんてない。最初はそう思っていたのに、いまは頷いてしまった。


「なんで? 変わんないのに?」

「確かに、未来は変わらなくて、過去の事象も必ず同じ結末に収束するんだとしても……」


 例えば、あの頃の侑生が私に抱いていた感情は、このタイムリープで変わったものではないのだろう。ただ、私がそれを侑生の口から聞いて初めて知っただけで。


「たった一つの側面しかない事象なんて存在しないでしょ。見方を変えれば、全く異なる感情を抱くこともある……それは幼かったから気付かなかったことかもしれないし、たまたま見落としたことかもしれない。そういうものをもう一度見つめるだけでも、意味があるんじゃないかな」

「……あのときこうしてたらよかったって、めっちゃくちゃな間違いしてても?」

「高校生なんて、まだまだ子どもだし。大人になっても間違えるんだから、もっとめちゃくちゃに間違えるのは仕方ないよ。それでも、ちゃんと誰かをおもんぱかりたかったのは間違いじゃない」


 本当は、まだそこまで割り切れていない。でも侑生に言われたことを反芻して、自分に言い聞かせて、そういうものなのだと思い込みたかった。


「……都合よすぎかな?」


 隣に座る昴夜の顔を見る。至近距離で見つめ返されたけれど、照れ臭くはなかった。


 昴夜が好きだった。高校生活を通じて、本当にずっと大好きだった。どこかおかしいのではないかと気に病んでいた私を救ってくれて、最後まで私を助けてくれた。


 そんな昴夜を、私は助けることができなかった。そのことをずっと後悔していて、私を守ってくれたことを忘れないでいようと、自分に言い聞かせていた。


 そうしていつの間にか、あの頃の恋心は、執着や後悔の入り交じったおりに形を変え、私の心にずっと沈んだままでいた。


 でも、もう、そんな風に後悔しなくてもいいのかもしれない。あの頃の私に昴夜を助けることはできなかったけれど、あの頃の私なりに一生懸命だったのだから。


 私を見つめ返す昴夜は、すぐには答えなかった。なにも言わずにじっと私を見つめ、ややあって前を向き、背を座席に預け直しながら「……いんじゃないかな」と口の端を上げた。


「昔のことをあーでもないこーでもないって言うのって、答えが分かってるぶん楽ちんだからね。そういう楽な方向に逃げたって意味ないし。過去を振り返るなら、まああのときの自分なりに必死だったしなって思うくらいにしとかないとね」

「……昴夜は?」

「うん?」

「昴夜は、そうやって、ちゃんと前に進める?」


 未来の昴夜はどうだろう。私のようにタイムリープせずとも、「あの頃は自分なりに必死だった」と納得して、前に進んでいるだろうか。


「んー、どうだろ。半々じゃないかな。……例えば、じいちゃんが死んだ日、俺がもっと早く帰ってたら救急車間に合ったかもしんないなって思うことはあったけど、そんなにだし。……割り切れないことはなくはないけど、時間が経ったら、まあそんなもんかあって思わなくはない。……ん、いや、強がった、わりとうじうじしてるかも」


 それは、この二年間の私のことだろうか。訊くことはできなかったけれど、苦笑いを浮かべる横顔を見ると、そうかもしれないと思った。


「でも、些細なことで割り切れるようになるかな。さっきも言ったけど、あのときの自分なりに必死だったなとか、別に悪いことばっかじゃなかったなとか。そうやって考えなおして、前に進んで行くんだろうね」


 来年には、付き合えるよ。卒業式になったら告白するよ。たった一週間にも満たないけれど、あの数日間を忘れないよ。


「……大丈夫だよ」


 そう告げたかったけれどできなかったから、代わりに、一年後の昴夜に伝えることにした。もしかしたら、私と侑生を残していなくなった昴夜は、あの夜のことを後悔しているかもしれないから。ただでさえ、新庄を殺したというのは勘違いだったのだから。


「昴夜のいうとおり、自分なりに必死に、誰かを守りたかったんだから。そこに間違いなんてない、だから後悔しなくていい。誰に罪悪感を覚えるもない、何に囚われるでもなく――誰とでもいい、幸せになっていいはずだよ」


 さよならも言わずに私と別れることになったと、いつまでも自分を責めないでいい。


 さすがに突飛だったのか、昴夜はまた少し黙った。


 ややあって「なにそれ」と笑い出す。


「なんか俺、物語のヒーローみたいじゃない?」

「どっちかいうとヒロインじゃない?」

「百歩譲って可愛いは喜べるけど、ヒロインみたいは喜べない。ヒーローって言って」

「はいはい」


 実際、昴夜は、私のヒーローだった。


 でもやっぱりそれは言えないから、笑って誤魔化した。


 中央駅に着いた後、まだ時間があるからと、DVDを返却する昴夜について行った。その後、私達はもう一度同じ改札を通る。東西線と南北線の改札口は同じだった。


「じゃ、また……学校に行くより前に遊ぶかな」

「かもね。でも名残惜しいから東西線まで行こっと」


 東西線の階段を一緒に降りると、ちょうど電車がきた。乗ろうかと思ったけれど、私も名残惜しくて、一本見送ることにする。車両はしっかりびしょぬれで、外が大雨に変わっていることが分かった。


「やだな、駅から家まで歩くつもりだったのに」

「帰る頃にはやんでるんじゃない?」


 なんの根拠もなさそうな口ぶりだったけれど、昴夜がそう言うのならそんな気がした。


 次の電車がやってくるアナウンスが流れる。まだ昴夜と一緒にいたいのに、でも七時までには帰らないといけないし、と時計とにらめっこして、次の電車には乗ることにする。


 でも、まだしばらく、高校生でいることができるのだから。そう必死にならずとも、来週にはまた昴夜に会える。侑生が岡山から帰ってきて、お土産のきびだんごをみんなで食べようとでも、そう言って。


 十四年後に戻る日が、いつやってくるのかは分からない。もしかしたら、私はこのまま、もう一度十四年間をやり直すのかもしれない。そのときは、やっぱり昴夜を助けることができないのかもしれない。


 それでも、タイムリープする前の自分ほど、過去への後悔にさいなまれることはないのだろう。


「そういえば、さっき話したっけ、バックトゥーザフューチャーの、一巻でめちゃくちゃ好きなセリフ」

「聞いてない、なに?」

「これ最後のシーンだと思うんだけど、”There’s no road.”って一言」


 まったく思い出せない。久しぶりに私も見たくなったし、さっき入れ替わりに私が借りればよかった。


「どういう意味?」

「んーとね、デロリアン号ってタイヤ付きの普通の車じゃん。それがさ、ラストシーンだと空を飛べるようになるから、滑走するための“道はない”って博士が言うんだよね」


 そう言われると覚えがある。デロリアン号に乗り込んだ主人公が「でも道がないじゃないか!」と困惑したことに、博士がそう返事をするのだ。


「で、これ俺の勝手な感想なんだけど。あれって、第二部だと未来にタイムスリップするじゃん。てことは、未来にはまだ道ができてないから、これから歩いて道を作っていけばいいから、“道はない”って意味でもあるんだなって」

「ああ、なるほどね」


 タイムマシンに必要な滑走路と、人生の道をかけているということか。やっぱりさっきDVDを借りればよかった。


「“いま”までには、ずっと歩いてきた道があって、その道を戻って別の道を選ぶことはできないけれど。未来はまだ道がないからさ、あっちにしよこっちにしよって、いくらでも道を選べるんだなーって。そういうのも、これがタイムスリップの王道かーって感動したとこ」

「……いいね。英語で見直してみようかな」

「そうそう、だから英語のほうがいいと思う」

「昴夜、映画は字幕で見る派なんだっけ」

「イキりっぽいから秘密ね」


 ハーフなんだからイキりもなにもないのに、と笑いながら電車に乗った。


「じゃ、ばいばい」

「んー……」


 電車の中から手を振って、昴夜も手を振り返してくれて――扉が閉まるまでのその短い間に、そのまま手を後頭部にあててちょっと考え込む。


「……あのさ英凜」

「ん?」

「……さっき言いたかったのは……過去は変えられないけど、未来は変えられるっていう話で。ん、なんかこう言うとチープなSFっぽくなっちゃうんだけど」


 顎に手を当てて考え込む素振りは照れ隠しのように見えた。


 告白だろうか。少しだけドキドキした。こんなところで告白されたら未来が変わる。でもそうだ、私と違って昴夜には制約がないし、今までの微細な変化の積み重ねで、もしかしたら変わったものがあるのかもしれない。


 未来は変わらないと思ったけれど、いまから私達が付き合って、変わる未来があるのかも――。


「だからほら、修学旅行で言ったけど、侑生のことよろしくねっていうのは……きっと、侑生は、英凜を元気にしてくれるから。俺はずっと、英凜のことが――……英凜が、幸せにって。ずっとそう思ってたんだ、俺」


 それなのに、告白ではなかった。


 いや、そうじゃない。呆気にとられた私は、そのまま動けなかった。告白ではない、けど、それは。


 スン、と昴夜が鼻をすすりながら、ちょっと視線をさまよわせて――もう一度まっすぐ私を見る。笑った顔が泣いていた。


「俺にも、幸せになっていいって言ってくれて、ありがとね。元気でね、英凜」


 ――ああ、そうだ。そこで全てが繋がった。


 だって昴夜は、変だった。


 昴夜は、ハーフだったけれど、英語が特別できた覚えはない。それなのに修学旅行では流暢に喋っていた――事件後の昴夜は、担当弁護士によれば、母方の親戚を頼ってイギリスに旅立っていた。


 いまの昴夜は、いつだって侑生への嫉妬と私への好意を素直に口にして、でも「好き」は絶対に言わなかった。


 あれは、言わなかったんじゃない。んだ。


「……嘘でしょ」


 そう口にした私の声は、掠れていた。


 手を伸ばした先で、扉が閉まった。ドン、と拳に変えた手で叩いても、もう一度扉が開くことはない。


「昴夜も、私と同じ……!」




 駅に着いた瞬間に電車を飛び降り、反対側のホームへ、階段を駆け上る。電車の扉が閉まることを知らせる音を聞きながら階段を駆け下り、転びそうになりながら、中央駅に戻る電車に飛び乗った。


 はやく、はやく。いくら念じたって速度が変わるはずないのに、そうかさずにはいられない。


 昴夜、昴夜、昴夜。十三年前の姿のままの、でも中身は十三年後の昴夜。


 斜めに雨粒が走る窓の外は真っ暗で、どこまでも変わらないコンクリートの壁ばかりが過ぎていく。


 会わなきゃ、会いたい。話したいことがたくさんある。


〈中央駅、中央駅――〉


 反対側のホームは、電車が邪魔で見えなかった。昴夜とわかれてから、十分も経っていない。もう一度あのホームへ行けば、昴夜に会えるはず。


 早く、早く。必死に階段を駆け上る。足がもつれて、慌てて手すりを掴んで、それでも上りきって。


 その直前、「2.0kcal消費しました!」と見えた気がした。


 膝に手をつき、肩で息をしたまま、周囲を見回す。


 中央駅の改札口を、人々がせわしなく出入りする――誰も彼もが、その手にスマホを持って。


 カバンから取り出したを見た。二〇二一年八月二十五日、午後六時七分。


 戻っている。まだ息が整わないまま、その画面を凝視する。タイムリープした日……でも時間は違う。あのときはまだ昼間だったはず、この時刻は、さっきまでいた過去の時間……。


 私は、長い夢を見ていたのだろうか。東西線でうっかり寝過ごし、終点までいって、再び折り返し、さらにもう一度……その間に、長く、懐かしい夢を、見ていたのか?


 顔を上げたとき、シャンと音がした。頭についているものが揺れたのだと気付いて手を伸ばし――それが簪だと気が付く。


 夢じゃない。顔を上げて周囲を見回す。


 昴夜はいない。……いるはずがない、けれど。頭の中に、ある光景が浮かぶ。


 雷雨と中央駅に向かう東西線の電車と、南北線に乗り換える階段。


 昴夜の家に向かう南北線のホーム。


「昴夜!」


 突然叫んだ私に、周囲の人々が奇異の目を向けた。それに構わず、南北線の階段を目掛けて走った。


 馬鹿げている。こんなこと、馬鹿馬鹿しくて書面にできやしない。弁護士が論理で戦わなくてどうする、そう先輩に笑われてしまうかもしれない。


 それでも、もし、あの日、同じように、昴夜が私の家を訪ねようとしていたのだとしたら。そのために中央駅に降りたのが、私とまったく同じタイミングだったのだとしたら。


 南北線のホームへ向かう階段を、ぞろぞろと人々が上ってくる。電車が着いたのだ。その中に昴夜はいない。転がり落ちるように駆け下り、でも、ホームには電車もない。田舎の駅のホームらしく、人もまばらだった。


 それでも。そのまばらな人影の中に、その人はいた。背が高く、白いシャツと、ブルーのハーフパンツを履いていた。


 後ろ姿で分かるのは、西洋人らしい長い脚と、犬のようにふわふわの栗色の髪だけ。


「……昴夜?」


 呼ぶ声が、震えていた。


 私は、いまの昴夜の顔を知らない。それでも、振り向いたその驚いた顔を見た瞬間に、そうだと確信した。


 飛びつくように抱き着けば、待っていたかのような力強さで抱きしめ返された。


 言葉は出てこなかった。口を開けたら、そのまま泣き出してしまった。子どものような泣き声が、駅のホームにこだました。


 お互いに一言も話せなかった。でもきっとその一言以外、いまの私達には要らなかった。


「ただいま」

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